ACT137 それぞれに宛てた曲【麻生 結弦】
昏い客席を隈なく埋める観客たち。息を潜んで待っている、その眼が舞台の照明を猫のように照り返している。
そんな中、居心地悪そうに足を組みなおしたのは魁人だ。……だね。君はあまりクラシックに興味ないね。護衛兼秘書として付いてきただけだよね。
でもそんな君に選んでみたんだ。トリッキーで楽し気な曲をね。ラヴェルの組曲「鏡」から、「道化師の朝の歌」。行動的で、どこかネジの外れた思考、でも飛びぬけた才能。ほんと、音がぴょんぴょん飛び跳ねるんだ。切なげにね。
君は首を傾げるかも知れないな。現代音楽ってほら、解釈が難しいっていう……。抽象画みたいな? せめて寝ないで聴いてくれると嬉しいよ。
マイペースという意味では朝香先生もそうですよね。ほら、もうそんな……あくびを噛み殺したりして。
断言しましょう。貴方に選んだ曲を弾けば、確実に貴方は寝る。賭けてもいい。
えぇ。今夜はそれでいい。あなたには随分と振り回されましたけど助けられもしました。何度も眼が覚めました。実際貴方が居なかったら僕はこうしてここに居ない。ありったけの感謝を込めて弾きますよ。ラヴェルから、「夜のガスパール」の第1曲、「オンディーヌ」を。
オンディーヌって、妖しく男を魅了する水の精なんです。優しく、しっとりと方々に流れる水のような……艶めかしい曲でして。えぇ、先生をイメージしたらこの曲が一番に。
局長。朝香先生から聞いてたけど、ほんとに局長その人ですね。元は司祭だと後から聞きました。言われてみれば、あのストイックさは確かに。
ヴァンパイアであるからこその容赦ない扱き、指導。でも決して僕達を殺しはしなかった。遊び半分に嬲ったりも。感謝しています。尊敬しています。人ではないその身を制御できたのは局長ならばこそ。貴方にはショパンのエチュード、作品25の11を。
「木枯らし」を思わせるあの高音部から流れ落ちる情熱的な旋律。それを、楽譜の指示通りに。
ショパンが与えた指示記号はrisoluto。|lamentabile(哀し気に)でもなければ|appassionato(情熱的に)でもない、決然と。まさに貴方を表す言葉だ。
菅さん。貴方は凄い人です。ヴァンパイアの伯爵が、人間と手を取り合って生きていく道を選択するなんて、普通じゃあ有り得ない。相当の苦労だったと思います。精神的にも、肉体的にも。貴方のことですから、そんなの苦労のうちにも入らないよ! なんて笑って言いそうですが。
僕は当時、伯爵という存在を憎んでいたから気付かなかったけど、貴方は相当大らかな人だ。何事にも動じずへこたれない、多少の事は気にしない。じゃなきゃ大臣なんて職は務まりませんよね。まるで大陸を囲む大いなる海原のよう……なんて気障な言い方になりますが、そう名付けられた曲があるんです。ショパン作曲のエチュード、作品25の12。
ナンバーを見れば気付くでしょうが、先ほどの「木枯らし」の次曲でしてね? 局長のと奇しくも隣り同士ってわけで。
両手同時の分散和音が、まるで大海の波のうねりを感じさせる、というのが命名の理由だそうで。けっこう好きなんですよね、この曲。主旋律が「絶望的な状況における決意」のようなものを感じさせるんです。高波に呑まれながら、遠雷を聞く。迫りくる嵐、不穏な空気。ついに投げ出され海は暗く、何処までも深い。けれど次第に凪ぎ、立ち込めていた暗雲は晴れ渡り、大いなる大団円にて幕を下ろす。
どうです? 貴方の身の上にぴったりだと思いません?
最後になりましたが……田中さん、お声をかけて下さってありがとう御座います。僕はこんな日を待っていた。いつか特別な誰かの為に、最高の音を聴いてもらう、そんな日を。
あの時あなたは言いましたね、人を持て成す、その為の技を磨くが僕らの悲願だと。あの地下道で、歩み寄って来た貴方に対し、僕はわざと思わせぶりな態度を取った。そんな僕を信じた貴方を僕は裏切った。その僕を、貴方はわざわざ助けてくれた。
政治的な意味あいに疑問を持つ権利は僕にはない。この「顔合わせ」も、僕に取っては名目に過ぎない。ただ同じ道を歩むものとして、貴方の望みが叶うなら僕も嬉しい。
貴方にはシューベルトの即興曲、作品90の3を。一見静かで単調で、でもその旋律はとても深い。リストに「最も詩情溢れる作曲家」と言わしめたシューベルトの傑作。人生そのものを綴った曲だと、そんな風に評した人も。500年の時を生きた貴方なら、思う部分が必ずある。そんな風に思いまして。
……向こう袖で秋桜が合図を送ってます。
え? 照明がきつくないかって? 大丈夫。眼をしっかり閉じて弾くから。




