ACT135 ハムくんの息子【佐井 朝香】
「先生、いつもありがと!」
「いいの、仕事だもの。でももう無茶しちゃ駄目よ? あ! こら!」
扉を開けて、あっと言う間に遠ざかる靴の音。あたしは急いでその背中を追いかけて廊下に出る。吹き抜けの非常階段の、打ちっ放しの壁にカツーンカツーンって音が反響してる。
「ちょっと! そんな走ったりしちゃ駄目だってばーー!!」
そしたら「わかってるーー!」なんて声が遠くから返ってきて、外に出ていく扉の音がして。
あ、今の子は患者さん。お役所勤めのご両親が忙しいから、夕方の遅い時間に1人で来るの。まだ小学生なのにちゃんとした挨拶も出来るし、とてもしっかりしてる。そういうとこ、きっと母親に似たのねぇ。でヤンチャとこは父親似?
あの調子じゃまた来る事になるわねぇ……
壁に背を預けて上を眺めてたあたしに横から声をかけた人が居る。
「先生、次の患者さんがお待ちです」
そうだった。つい考えこんじゃうのが悪い癖よね!
ほんと、彼のアシストのお陰でいつも助かっちゃう。我が子ながら、凄く有能。とても10歳とは思えないわ。
――え? あたしの子よ?
推定185cmの背丈とか、丁寧にセットしたオールバックの髪とか、綺麗なウィンザー・ノットに結んだネクタイとか。裾の長い看護師衣からすっきり伸びた長い脚とか、もろもろがとてもそうとは見えないけど、
並んで歩くと良く「お父上ですか?」なんて間違われるけど、でもあたしの子。
あの時出来た、ハムくんとの息子。名前は宗。
「どうしました?」
診療室に続く扉をあけつつ、あたしを振り返る彼。ま、誰が見ても疑うわよね。見た目年齢40歳以上。その顔はどう見ても……柏木さんその人だもの。じっと見つめられたあたしは思わず……眼を逸らす。
ああ、いつもこんなってわけじゃないの。彼の見た目が大人になるのはここでだけ。家では普通。外を出歩くときもね?
その事をこっそり麻生に相談したら……なんと秋桜ちゃんもそうだって言うからびっくり!
これもヴァンパイアの能力なのかも。滅びる寸前の魂が、生まれる前の子供に――なんて、そんな能力。
しぶとい? ううん、そんなの、ヴァンパイアに限らない。どんな生き物だってそうじゃない?
生き物の証――遺伝子の本体はしぶといわ。生きる事に熱心でとても狡猾。
「あのね、今夜のリサイタルの事なんだけど、決心はついた? 一緒に来てくれる?」
「……」
彼の眼――柏木さんと同じ茶色の眼が何かを追うようにそっと動く。大人になった彼には生前の記憶がある。ゆっくり頷いて、ドアの札を、closeに変える彼の手首には、3重に嵌められた銀のブレスレットが光ってる。
どんな気分かしら? 生まれ変わったら、あたしとハムくんが両親で、自分は真祖としての運命を受け入れなきゃならないなんて。
「あとまだ3人待ってらっしゃいますが……先生なら間に合いますね?」
「あたりまえよ、あたしを誰だと思ってるの?」
フッと笑うその仕草、ほんと柏木さんそっくり。