ACT134 桜子の影【麻生 結弦】
「父さま! そろそろよ!」
彼女の声に、僕は鍵盤をなぞる手を止めた。半ば開いた控室のドアを背に僕の娘、秋桜が立っている。まるで花嫁のような純白のドレス。背丈は140cmに届くほど。はにかんだ笑顔。
えぇ、随分大きく、そして随分と大人びました。……そうですね、彼女も10歳。そろそろ思春期ね? なんて朝香先生も言ってましたね。手首のブレスレットが、ギラリとこの左目を刺激します。
「それ外しますよ? 舞台ライトの照り返しはお客様の眼に毒ですから」
今夜は彼女の初舞台。にこりと笑った彼女が両手をそろえて差し出した。僕はいつも懐に用意してある鍵でその枷を外します。
パッと彼女の眼が輝いて、でも金に変わるような事はない。彼女はその誕生の背景と音楽に関する天才的な能力を指摘され、「真祖に近い個体」と判定されました。ですから法――菅さんが新たに制定した「ラミア感染症対策特別措置法」の規定により、純銀のブレスレット着用が義務付けられているんです。
ただ彼女には吸血欲求や嗜虐性が認められません。朝起きて夜眠り、人並みの食事を摂ります。よって「危険度低」とみなされ、時に応じた解錠が認められているんです。僕のような撃手が付くのが条件、ではありますけど。
「あの人達は聞きに来る?」
「今回は特別だから、来てくれるんじゃないかな」
滑るように歩み寄った秋桜の指が鍵盤を叩く。
たった一音。Eフラット。ラ・カンパネラの出だしの音。
凄い音だ。こんなにも身体の芯を震わす音が存在する。やはり彼女にはヴァンパイアの……桜子の血が流れている。ふと顔を上げ、眼を向ける秋桜が――いや……君は秋桜じゃない。
「大丈夫ですの? 指は回って?」
さっきまでは小さかった筈の手が、長くすっきりと伸びている。その声もまさに彼女の。
……参ります。彼女は時々、こんな風に桜子になるんです。桜子の魂がいまだここらに存在していて、時たま秋桜を依り代にしているのでしょうか? それとも秋桜自身に桜子の遺伝子が組み込まれているから?
「心配ですわ。その左目も、あの日以来ほとんど見えてない」
「ピアノに視力は関係ないよ」
そっとこの頬に触れる指はキリっとするほど冷たい。それが不思議にこの眼を癒す。熱く疼くこの左の眼を。
彼女の指が鍵盤に添えられる。小さく、かつ芯の通ったいつかの音。
その音に合わせながら僕も弾く。いつかのように。あの時の、あの音のままに。たぶんこれも最後だ。君が出てくるのも今夜で最後。
「桜子。次に生まれ変わることがあったら――」
「なに? 何か言った? 結弦」
「いや、何でも」
僕は音楽家だ。誰かに音を届けるのが役目だ。
だから誓うよ、二度と君の影は追わないと。