ACT130 真の覚醒【佐井 朝香】
ハムくんの口調には強制の色はない。つまりあたし次第ってこと。待機状態へと移行したこの宿主が最終形態へと進化するか否かはすべてあたし次第。
「あ、あたしは」
チラチラと降り注ぐATPの分子を浴びながら息を吸う。
冷たい。空気が、降り注ぐそれが、とっても。今までの、この一連の過程は「仮想現実」なんかじゃない。
そう。あたしが侵入したこの宿主は本物の「あたし」。何度も望んで、でも誰かがそれを思いとどまらせて、でも諦めなかった自分自身。
仕事が好き。あたしが触れるとその傷が治る。小さいころからそうだった。小さな虫も、飼ってたカナリアも、何故かあたしが触れるだけで元気になった。そんなあたしの天職は医者だって……言ってくれた人は誰だったかしら?
あたしの、まだ小さな手をゆったりと包み込む、厚ぼったくて大きな手。降り注ぐ真っ赤な夕陽のせいで、その人の顔は良く見えない。手が熱い。その声も眼差しも、すごく。後ろからあたしの肩を抱き締めるお祖母ちゃんの手の平も。
「人のままが宜しかろう。いざ望んだその折は――いずれ」
優しくて太い、そんな声。まだ小さかったあたしには意味なんかさっぱり解らない。
「励みなさい。とりあえずは為すべきことを、脇目もふらず。邪が惑わす隙を作らぬ事や」
立ち上がったその人が、少しだけ振り返って。真っ黒な長い髪が風に靡いて、そこから覗く黒い眼が、優しくあたしを見下ろしていて。
それからだったかな。子供心に、「よーし! がんばろう!」なんて妙に張り切っちゃったの。
目に映るものは何でも面白くて、わくわくしたっけ。どうして太陽はあんなに明るいのか、どうして星が動くのか。さざめく木の葉はとってもいい匂い。這いまわる天道虫が赤くて丸い。
言葉って便利。数字のパズルも面白い。理科の実験なんか、いつまでもしていたい。友達とおしゃべりするのも楽しすぎ。大好き。特に男の子って素敵じゃない? 子供みたいな眼をしてはしゃぎまわったかと思えば、真剣な顔してサッカーボールに突進してる。
そんなこんなで、いつも誰かに恋してた。いつか普通に結婚して、普通の家族を持つんだろうなぁって思ってた。
けどお祖母ちゃんが亡くなって、施設に入って。あたし、ずいぶんと長いあいだ塞ぎこんでたっけ。そんなあたしが救われたのは、同室になった子がすごく……いけ好かなかったから?
あはっ! いっつもどっちが洗濯機を先に使うかとかしょうも無い事で喧嘩したのよね! 境遇が似てて、しかも引かない性格同士。勝ち合って、喧嘩して……不思議よね。いつの間にか何でも話せる仲になっちゃった。
彼女のアドバイスはいつも不思議と的確で。悩み相談にはいつも乗ってくれて。大げさじゃないわ、彼女のお陰であたし、望んだ道に進むことが出来たと思ってる。帝大の医学部に入学出来たのも医師免許を取れたのも、ぜんぶ彼女のお陰なの! あの時だって、彼女が柏木さんの検査データを送ってくれてなかったら……
「あなた、言ってたわね。ヒトという生き物が好きだって」
振り返る。すぐ後ろに麗子が立ってる。はあ……ほんと、女柏木、なんて呼びたいくらいだわ! ベージュのセットアップで決めた、セクシーで完璧なプロポーション! 針みたいなピンヒールが支える、すっきり伸びた長い足。服の上からもうかがえる、引き締まった胴、細いけど鍛えられた腕や肩。
「でも変われば『人を見る眼』は変わるわ。ヒトを好き、なんて言えなくなる」
――そうなの? そうなっちゃうの?
まっすぐにあたしを見つめる麗子の眼。黒目勝ちなその眼は少しハムくんに似ていて。思わずまた振り返ったら、ハムくんがそっと眼を伏せて。
「ハムくんはどう? 変わった?」
「変わったさ。ヴァンパイアの性は君だって知ってるだろ?」
「うん。でもあたし、自分は絶対変わらない自信がある。だってあたしの力は――」
「……かもね。君の特殊能力はあらゆる意味で『特殊』だからね」
その言葉を聞いてあたし、あらためて今までの出来事に納得が行った気がした。あたしはずっと「この世の道理を覆す」存在だった。
不思議な力。
生き物の修復。治癒を促す力。
あたしが傷に触れて眼を閉じた時、浮かぶのは「分子レベルのイメージ」。破損部を修復する為のタンパクの合成や、伝達を媒介する化学物質の分泌。それを全部、コントロールしている自分が居る。核の設計図(DNA配列)から、修復に要る部分を抜き出す。A、A、G、Cなんてつぶやくと、RNAやオルガネラ達が動いてくれる。
あはっ! そんな力、人間にあるはず無いわよね! あたし、「ヴァンパイア」っていう存在を知って、ぼんやりと自分もそうなんじゃないかって。医者になって大きな病院に勤務した時も必死に力を隠そうとしたけど、でも駄目で。あたしの担当の患者さんが片っ端から治る、それはある意味、医学の発展を妨げる現象だった。そりゃあそうよね。「どういう機序で治癒したか」が大事なんだもの。
ある日、同僚や院長が患者さんとグルになってあたしを訴えた。仕組まれたの。勝てるわけもない。病院をクビになって、免許も取られて。仕方なかった。地下で1人、ひっそりやっていくしか無かった。でもそれはそれで楽しかった。喜んでくれる人の顔見るたびに、生きがいを感じて、だから――
「だから、変わる? ヴァンパイアになるって選択でいいんだね?」
あたしを見つめるハムくんの眼はいつも通り、真っ暗で深い闇の底。眼の奥に潜むたくさんの眼。それはいつでも覚醒可能な核を持つニューロンの群れ。
隣に立つ柏木さんも、金色に輝く眼をじっとあたしに向けて。横を見れば仕方なさげにポケットに手を突っ込んで立つ魁人がため息をひとつ。黒いタキシードの麻生君に目配せして、麻生君は背中のホルスターから黒いベレッタを抜き取って。
そうね。もしあたしが頷いたら、彼等はあたしを撃つわ。麗子だってそう。誰よりもヴァンパイアの存在を否定してた麗子だもの。それが仕事だもの。
でもあたしだって戻れない。「変化」を経験したこの身体は、先に進む選択をしない限り朽ち果ててしまう。
え? ワクチンを打てば戻れるって?
……たぶんダメ。あたしのDNAは麻生や魁人と違って純度が高い。限りなく100%に近い「真祖」のそれだもの。覚醒する前に、ヒトでは有り得ない能力が発動してたくらいだもの。
ハムくんみたいに、血液の総入れ替えでもすれば戻れるけど、でもそれはきっと一時的なもの。いずれまた同じ運命を辿る。自分の意志次第でいつでも覚醒可能なのが真祖だもの。
死ぬのが怖いわけじゃない。あたしは大好きなお仕事を続けたいだけ。未来永劫、朽ちる事のない身体を使って。
歩いていくわ。果てる事のない無明の闇。でも一人じゃない。きっとハムくんが一緒に歩いてくれる。
あたしはまっすぐにみんなの眼を見返して、そしてコクンと首を縦に振った。