ACT129 夢の永久回路【佐井 朝香】
両手を広げて、ゆっくりと息を吸う彼。身体が明るく光ってる。あたしの言う通り、e-を回してるのね? 辺り一帯に充満していた二酸化炭素(CO2)と水素イオン(H+)が、その体内に吸いこまれていく。
(え? そんな小さい物が見えるかって? 見えるわ。あたしの大きさ、大体100nmとすれば、水素原子1個の直系0.1nm。つまりあたしに取って米粒くらいの大きさなのよね!)
≪驚きました。本当にクロロフィルみたいなタンパクが配置されてる。電子を順繰りに受け渡すこの感じ、いつもとほぼ同じです≫
≪でしょうね。昔の君も同じことをやってたんだもの≫
≪光を使って水(H2O)をイオン(H+)と電子(e-)に分けなくてもいいから、効率もすごくいい≫
≪そうね。次も行けそう?≫
≪えぇ。この回路(カルビン・ベンソン回路)を使って、CO2をH2と合成すればいいんですよね?≫
≪そうよ。それもクエン酸回路とイメージは一緒でしょ?≫
≪そうですね。出来あがったブドウ糖はどうします?≫
≪その辺に置いとけば、解糖系がまたピルビン酸に変えてくれるわ≫
≪そしたらまた呼吸の回路に戻せばいい。凄いです、まさに夢の永久機関だ≫
紅潮させた頬をあたしに向けてほほ笑む彼。全身から達成感が滲み出てる。ただその影がとっても薄い。向こうがうっすら透けて見える程。たぶん身体の強度が、今の仕事に耐えられるほど強くない。
≪無理は禁物よ?≫
≪そのようですね。実は立ってるだけでやっとです≫
≪少し休んでて? そのだけのATPがあれば、しばらく持つわ。ヴァンパイアは普段、とっても低燃費なの≫
≪では、お言葉に甘えて≫
再び座り込んだ麻生君。彼の周りには、宙に漂うATPの分子がまるで粉雪のように白く舞っていて。サイクルを回さないから、温度も下がって。冷たいそれも本物の雪みたいで。すっごく綺麗でつい見惚れてて。そんなであたし、麻生君の言った言葉を聞き逃した。
≪麻生君? いま何か言った?≫
≪光を浴びたらどうなるかって聞いたんです≫
振り向いた彼がニコリと笑って。ぞくりとしたわ。考えもしなかった。
≪サーヴァントなら問題ないと思うわ。反応速度が普通の人間と同じだもの。あの時の君も、普通に光を浴びてたし。ただ……≫
≪ただ? ヴァンパイアなら問題ある、と?≫
あたしは口ごもった。呼吸はつまり「燃焼」よね。酸素を使って有機物を燃やす燃焼。反応が段階的でエネルギーの取り出しが小分けにされてるから、熱の産生が最小限で済むってだけ。
光合成能を、つまり無限のサイクル能を獲得した今、直射日光のような強い光に当たればどうなるかしら。光が無くても動く回路に光が干渉したら?
……暴走するかも知れないわ。きっと一瞬にして燃え尽きる。ヴァンパイアの反応速度は恐ろしく速いもの。それは細胞単位やオルガネラの単位でも同じはず。強靭な細胞骨格と再性能を持つとしても、内部での爆発的な燃焼に耐えられるとは思えない。
≪先生?≫
≪ごめんなさい。下手に予想して不安を募らせても仕方ないわ。その時はその時よ?≫
≪僕、思うんですけど≫
立ち上がった麻生君が踵を返す。その手の平がゆらゆらと舞う粉雪をすくってる。
≪逃がせばいいって思って≫
≪逃がすって……何を?≫
≪もし僕の身体が燃えても、この細胞群が灰になったとしても、先生、貴方は外に逃げられます≫
≪麻生君……あなたあたしの考えてる事……≫
≪先生は普段、血管の中を飛び回っているんでしょ? いざとなったら穴を開けて出て行けばいいんです≫
≪でも麻生君は……宿主は消えちゃうわ?≫
≪いいえ。先生が僕達を覚えていて下さる限り、大丈夫です。長い歳月がかかるかもだけど、でも必ず復元できます≫
≪全く科学的な根拠がないけど、どうしてそんなに自信たっぷり?≫
≪さあ? でも先生が教えてくれたんですよ? 何事もイメージが大事だって≫
≪あはっ! そういう意味じゃ、あたしと同じ「弾丸形」の武器で核を撃ち抜かれでもしたら、あっさり滅びたりして?≫
≪ダメですよ先生! 生き物ってそんな「暗示」に弱いんですから!≫
≪暗示?≫
≪言霊ってご存知ですよね? 「只の言葉も現実になる」≫
≪待って! まさかあたしのせいで、この種を滅ぼせる決定打みたいなものが出来ちゃったって、そういう事?≫
≪そこまでは……ただ、……先生の、言葉は……重みが……違……≫
お終いまで言わずに、黙り込んじゃった麻生君。ていうか、寝ちゃった?
≪あはは! 彼を問い詰めるのは酷というものさ!≫
振り向いたら、菅さんが立ってて。爽やかな笑顔であたしを見てて。
≪君は彼に相当の仕事を強いたのさ。それこそ「裏と表を逆にするほど」のハードワークをね!≫
……確かに。少し悪い事したかも。
≪ま、いいんじゃない? お陰で我々は晴れて従属栄養から独立栄養へと進化を遂げたわけだ。だろ? 柏木≫
≪そうですね≫
見れば、菅さんの隣に柏木さんも立ってて。
≪収支はどう? 採算は?≫
≪合ってます。グルコース(C6H12O6)1分子から「呼吸」で得られるATPは38、ないし36分子。その際の水(H2O)消費量6分子、排出二酸化炭素(CO2)6分子。そして生成した24個の電子及び24個の水素イオンを「光合成」の電子伝達系に再利用、その際に得られるATPは約19.2分子。次過程である「カルビン・ベンソン回路」を回し、グルコースに戻す作業に充てるATPは18分子。その際の水(H2O)排出量6分子、消費二酸化炭素(CO2)6分子≫
≪つまり?≫
≪H2OとCO2はどちらもプラスマイナス0、ATPはプラス37.2~39.2分子。つまり最初の「一呼吸」さえ出来れば――≫
≪永遠に何物をも摂取する必要はない。酸素も不要。そういうことだね?≫
≪Yes、Master≫
気付けば、ニューロン達の核は、すっかりもとの白っぽい灰色に戻ってて。ドクン、と一度鼓動が鳴って。
≪そうさ。本当の運命の分かれ道はここからさ≫
菅さんの顔はいつにも増して眩しくて、でも柏木さんの表情は何だか浮かなくて。
≪宿主は「変化」に耐えた。だから「次のステップ」に進めるってわけさ。肚は決まったかい?≫