ACT128 力の目覚め【佐井 朝香】
朝香?
彼の声に我に返る。ここはまだニューロンがひしめき合う聖域の中。あたしの身体を後ろから抱きしめたままの彼が居る。回された彼の腕を両手で強く握り返す。あの日に別れ、そして再会したもう一人のあたしの腕を。
彼はヒトとの共存を願ってた。その訳がやっと解った気がする。とっくにその願いは叶ってたんだわ。その遺伝子はヒトのそれと同居してた。だから柏木さんもあたしの事を食べなかった。あたしのヌクレオチドが彼自身の核に組み込まれていたから。あたしの姿かたちを、自己と認識していたから。
≪始まるよ? 心の準備はいい?≫
≪いったい何が始まるの?≫
≪進化さ。君の到来を感知したからね? 云ったろ? 君自身が引き金だって≫
ニューロンの核が輝きを増していく。いったいいくつあるのかしら! まるでプラネタリウムで眺める星みたい!
紅い核は、やっぱり眼にしか見えなくて。大勢の赤い眼があたし達を見てて。とても熱い。真夏の太陽よりも熱い視線。そして始まったのは、普通なら絶対に有り得ないニューロンの体細胞分裂。
そして……わぁ……
核にあいた沢山の穴から続々と這い出した沢山の糸。翻訳したDNA情報の運び屋、メッセンジャーRNAね? すごく綺麗。虹色に光ってる。
その糸に、達磨型のリボゾームが数珠つなぎにくっついていく。早い……まるで毛糸でも紡ぐようにペプチドが合成されていく。あのペプチドはたぶん酵素。生体内で起こる反応系を動かすための触媒。ただの人間の肉体をヴァンパイアのそれに置き換えるための。
見る間に生産される細胞群。身体中、至る所で行われる生産活動。気付けばあの怖いミクログリア達も山のように増えている。それは敵――他のウイルスやバクテリアを完璧に捕獲するため。
いまごろ血液中にもリンパ球がひしめいてる。とても感度のいい、優秀なTリンパにBリンパ。鉄壁の防御を誇る免疫能。感度の良いその核は、武器(抗体)を一瞬で生産する事が出来る。
いつのまにか、彼の姿はない。広いドームの中に、ポツンと佇む1人の自分。でも眼を閉じると……確かに感じる。あたしの中に彼が居る。あたしと彼は同じ記憶を共有するひとつの粒子。
と……そんな時。
≪助けて下さい先生! 朝香先生!≫
あたしを呼ぶ声がした。大勢、しかも四方八方から同時に。
≪その声は麻生君!? どうしたの?≫
≪酸素(O2)がない! ぜんぜん足りないんです!≫
≪ごめんごめん! さっき外気の取り込み(外呼吸)を中止したの!≫
≪ど……どうしてそんな事を!? 僕の工場がストップしちゃうじゃないですか!!≫
内呼吸の仕組みを忘れたヒトが居るかもだから、一応説明しとくわね?
ミトコンドリアは、細胞質内の解糖系で得られたピルビン酸を使ってATPを産生する工場。その時にどうしても産業廃棄物的に余っちゃうのが、二酸化炭素(CO2)と水素(H2)。
二酸化炭素は呼気として捨てればいいけど、水素はそのままにはしておけない。酸素で中和して水に変える必要があるわけ。つまり酸素が無いと、ミトコンドリアはATPの産生をストップせざるを得ない。ATPの不足は即ち宿主の死。
≪よく聞いて。いま電子伝達系の末端で、水素由来の電子(e-)が行き場を失って困ってるわね?≫
≪はい?≫
≪結合する筈の酸素が無いから。でもそれでいいの。そのe-をそのままの形で使うのよ≫
≪いったい何に使うって言うんです?≫
≪君がサーヴァントになった時の事、覚えてる?≫
≪え? 急にどうして?≫
≪いいから思い出して。いまこの状態はその時と同じなの。あの時あたし、貴方の血が酸素を全く運べないって言ったの、覚えてるわね?≫
≪……えぇ≫
≪それでも君は平気な顔して動けてた。それはどうして?≫
≪さあ。サーヴァントがそういうものだから、じゃないですか?≫
≪ダメよ。そういうもので済ませちゃったら、進歩ってものが無いじゃない≫
う~んと唸って首を捻って、近くのフィラメントに腰かけた麻生。両手の指先で米神を何度か揉むようにして。でもその手をぐっと膝に置いてこっちを見る。
≪解りました。教えてください。ただ僕にも解るように≫
≪じゃあ、さっき言ったe-を、次の過程で同じように伝達させて≫
≪次の過程なんかありませんよ?≫
≪あるのよ。君の身体はさっきとは違う。より進化したオルガネラに変わってるんだから≫
≪そう云われても。どう変わったのか説明して下さらないと、何をどうしていいのか解りません≫
≪どうって……ほら、君の内膜、さっきと色が違う場所があるでしょ? それが『次の伝達系』よ≫
≪ほんとだ。確かにあるけど、でも流すイメージがさっぱり≫
≪そう? イメージの問題なのね?≫
あたし、つかつかっと彼に近づいてその両手を掴まえた。
≪ほら、アシストしてあげるから、ゆっくりと眼を閉じて。お腹の下に意識を向けながら、大昔の自分を思い出して?≫
≪何を……思い出すんですって?≫
≪昔の自分よ。眼をつむるの≫
大人しく応じた彼が眼を閉じて。
≪いい子ね。ゆっくりと息を吐いてみて≫
≪先生。見えます≫
≪なにが見える?≫
≪今の僕とは……少し違う色と形の自分です。足の下にレール(フィラメント)が無い。どこでも自由に泳げます≫
≪OK。それが貴方の祖先よ。酸素を使って呼吸――つまりATPを生産する好気性のバクテリア≫
≪バクテリア? つまり『ばい菌』?≫
≪『細菌』って言って欲しいわね。それはそれとして覚えてる? その頃の君たちにはライバルが居たってこと≫
≪ライバル? 『友達』なら居ましたけど≫
≪友達?≫
≪えぇ。二酸化炭素を吸って酸素を吐く友達です。僕とはあべこべなんです。だからよく一緒に散歩しました。呼吸がとても楽なんです≫
≪そのお友達の名前は?≫
≪シアノ何とかとか名乗ってた気がします≫
≪はいはい、シアノバクテリアくんね。今の葉緑体のご先祖様よ≫
≪葉緑体? 植物が持ってる、あの?≫
≪そうよ。光合成をする植物のオルガネラ。知ってる? 実はそのシアノくんは貴方の祖先でもあるの≫
≪――は?≫
≪光合成をする彼等が増えたせいで、原始の海中に大量の酸素が溶け込んだ。とっても「有害」な酸素がね? だからこそ酸素を消費してATPを産生するバクテリアへと進化する個体が現れた。それが君の先祖ってわけ≫
あらら、またまた首を傾げて押し黙っちゃった。そうね。難しいことをわざわざ言う必要もなかったわ。
≪御免なさい。あたしが言いたいのはね? 君とシアノバクテリアはもとは同じって事なの≫
≪どういう事ですか?≫
≪君にも光合成が出来るってこと≫
≪あははは! まさか!≫
≪まさかじゃないわ! 核の洗礼を浴びた君の身体は、ちゃんとその為の構造と触媒を備えてる≫
≪ほんとに?≫
≪ほんとよ。自分を信じて?≫
≪解りました。やってみます≫
意外にもしっかりした口調で宣言した麻生が、眼を開けてすくっと立ち上がった。さっきと雰囲気がまるで違う。黒いタキシードで、あの舞台に立った時みたいに。