ACT127 種の融合【菅 公隆】
――あれが……あれが卵細胞の核か!
ようやく辿り着いた卵巣内。たったいま減数分裂を終え、丸くまとまったそれが、静かにこちらを見降ろしている。
所々にクレーターのような穴が穿たれた黒い球体。まるで地球に落下しようとする月。その月が無数に張り巡らさた蜘蛛の巣のような綱、いわゆる細胞骨格に支えられ、落ちる事なく宙に浮いている。
そして巨大。ヒトの核は約30億塩基対のヌクレオチドで構成される。バイト数にして3TB。その半数とは言え恐るべき情報量だ。対して自分はただの12KB。なんという差。これこそまさに月とスッポン。
さらにどうだ。その神秘さ。神経細胞の核とはまた趣が違う。これからひとつの個体となるべく、いずれ訪問する片割れを待つ卵細胞。なんとも気高く、美しいじゃないか。
しばし眺め、佇む。だがそうしてばかりも居られない。ピアノ線にも似た骨格を頼りに足を踏み出したその時だ。
≪どなたですか?≫
ひとりじゃない、大勢の声。このわたしに対する問いだとすぐには解らなかった。
様々な形状のオルガネラがひしめき合う基質内を広く見渡せば……なんて事だ。今の今まで、その存在に眼が止まらなかったのはその数が多すぎたからか。数百は居るだろう。フィラメントに沿ってゆるゆると泳ぐ、手足の無い虫にも似たオルガネラ――ミトコンドリア。彼等がすべてわたしを見ている。なるほど、彼等自身もDNAを保有している。物申す意志体であってもおかしくない。
「わたしの名はRabies。君たちとの共存を望むものさ」
≪れいびーず? 共存?≫
眉を顰めひそひそと何事かを言い合っていた彼らは、1人、また1人とフィラメントを爪弾き始めた。ピアノに似た音が和音となり、やがてちゃんとした旋律を奏でる合奏となり――
驚いた。これはメサイヤだ。神を讃えるオラトリオ。しかも何百もの音が奏でる和音の壮大さと言ったら、身体の芯が粉々になってしまいそうなのさ。こうなると、弾き手があの麻生に見えてくるから不思議だね。
「……Rabies。ほんとに貴方はあのRabiesですの?」
細い弦の震えるような、しかし一種神々しいとも言える声がした。今度は真上だ。あの核がしゃべっている。
「姿形は確かに。でも何者ですの? わたくしの知るRabiesとは全然違いますわ」
ふわり、と核が女性の姿となって舞い降りた。そんな風に見えた。純白のドレスを纏った桜子の姿でね。
「貴方は本来、こんな風に話しかけて来るような方じゃありませんわ。いつも黙って侵入し、むりやりに脳を侵し殺す」
「わたしに限らず、大概のウイルスは強引で強欲だよ。いや、この世自体が弱肉強食、むしろ当然かな」
「貴方は違うとおっしゃるの?」
「力ずくの侵略ばかりじゃ先がない。彼等もそうだろ? 20億年も前に共存を思いついた方々だ」
わたしの言う彼等とは自分達のことだと気付いたんだろう。麻生達が動かしていた手を止めた。オラトリオの旋律が止む。
「つまり彼等同様オルガネラとして生きたいと、そういうお考えですの?」
「あはは! オルガネラはいわば君の奴隷じゃないか! そんなのまっぴら御免だね!」
一呼吸の間を置いて、場は大変な騒ぎになった。当然だよね。そんな言い方されて気持ちがいい筈が無い。
彼等はもともと独立した生き物だ。それがある日、より大きな生き物の体内に侵入、或いは飲み込まれ、そのまま居座る事になった。片やATPの大量供給、片や住まいの提供という利害の一致を見出したからだ。それはそれでいい。わたしが引っかかるのは――
わたしを睨みつけていた桜子が彼等へとその眼を向ける。一瞬で静まり返る場内。……ほらね? こういう所が気に入らないのさ。
「彼等を悪く言うことは許しませんわ。恩恵を被っているのはわたくしの方ですもの」
「そうかい? 確かに、彼等が生産するATPがなければ、君は生命維持すら不可能だ。けどね?」
「……けど?」
「所詮は一方的な主従の関係さ。彼等の増殖を制限しているのは君なんだろ?」
それが答えさ! 彼等ミトコンドリアは、持っていたDNAのほとんどを核に取り上げられてしまっている。自分自身を構成する設計図を含めてね。だから自身の繁殖行為、つまり分裂のタイミングすら自分で決める事が出来ない。だから一方的な主従関係と言ったのさ。自分の意志で繁殖出来ない。こんなの生き物って言えるかい?
「それがいけない事かしら? 時と場所によって、多すぎても少なすぎてもダメですのよ? 勝手に増えられても困りますわ」
「責める気はないよ。彼等はそれで満足してるみたいだし」
「つまり……こういう事? 共存したいけど、あくまで対等でありたいと?」
「うん。実はそうなんだ」
とたん、甲高い笑い声を上げる桜子。それに合わせるようにして身をくねらせる麻生達。
「そんなに笑わなくてもいいだろ」
「だって、こんなに可笑しい事はありませんもの!」
「可笑しい?」
「貴方はご自分の立場を解っていませんわ! そんな風に持ち掛けられて、いったい誰が了承すると言うの!?」
「承諾するさ。わたしが手ぶらでここに来たと思うかい?
その場にいる誰もが息を呑む気配。彼女ですらその華の顔を強張らせ、唇を震わせている。
「……随分な自信ですわね?」
「まあね。聞けば是非にと頭を下げるだろうね」
「なら是非にも教えていただきたいわ。いったいどんな手土産を用意してらっしゃるの?」
「アイディアさ」
トントン、と人差し指で自分の額を小突いて見せる。
「……アイディア?」
「そう。この中に、このまま行けば滅んでしまう人類を救うための案が沢山詰まってる」
「人類が……滅ぶですって!? 」
「そうさ。そうなれば君も困るだろ?」
見る間にその顔を曇らせた桜子が、大輪の花、或いはシダの一種にも似たオルガネラの畝に腰を降ろす。麻生達はそんな桜子を見下ろし、フィラメントにかけた指先を凍り付かせたまま。
「もちろんですわ! この種はとても……とても都合のいい容れ物ですもの!」
「容れ物、ね」
「えぇ。35億年前からずっと。わたくし達を運び、共に歩んで来た容器ですわ。じき生き物の頂点に立ちましてよ?」
「知恵が回るからかい?」
「そうですわ。犬を従え、虎や象を檻に囲う。ヒトの知恵の前には鋭い牙も並外れた腕力も役には立ちませんわ」
「同感だ。ヒトはいずれ、この地を統べる種となるだろう」
「その人類が何故滅ぶなどと仰るの?」
「だってさ。人だけだろ? いとも簡単に殺し合いをやってのける種は」
「それは――」
「君だって知ってる筈さ。食料を得るために縄張りを広げようとする、その手段が異常だろ? いつだってやり過ぎる。そのうちこの地上すべてを灰にする手段を考えつく気がするんだよ。無論、君臨した種がいつまでも栄える道理は無いっていう自然摂理的な理由もあるけどね」
優雅な仕草で桜子が腰を上げた。腰かけていたオルガネラがユラリと弾む。
「貴方には、それを止める手立てがあるとおっしゃるの?」
「あるさ。まずはわたし自身、君の中に侵入する。未使用の塩基配列や、ミトコンドリアDNAの配列を組み替えるんだ」
「組み換えですって!? 何のために!?」
「ヒトを進化させるためさ。とりあえずは『独立栄養生物』にでもなってみようか。少なくとも食料問題は解決する」
「そんな事が簡単に出来るとは思えませんわ」
「君も手伝ってくれれば可能さ。ついでに長い寿命や高い身体能力も付与しよう。どうだい?」
優美な顎に拳を当て、考え込む素振りをする桜子。
「本当ならとても……とてもいいお話ですわ。ただ貴方にメリットはあるのかしら? その殻、外観を捨てる事は、Rabiesという種が消えてしまう事になりませんの?」
「ならないね。わたしはいつだってわたし自身を記憶してる」
「記憶?」
「たとえ姿形が変わろうと、わたしはわたしって事さ」
「それがあなたの仰る新たな人類ですの?」
「まだまだ。改変しても発現はしていない。見た目も能力も今まで通り。そんな人間が数を増やしていくのさ。それこそ100年、200年の月日をかけてね。そうしているうちに、濃い、薄いの差が必ず出てくる。限りなく濃度の濃い、いわゆる『純血』も生まれる筈さ。それこそが最初の1人。仮にそれを『真祖』と呼ぼうか」
誰も口を挟まない。集中する視線が痛い。なんて思って自分の身体を見てみれば……そうか。皮膚――外殻が崩壊を始めている。でも……まだだ。
「彼は記憶の中の『Rabies Virus』を生み出す能力を持っている。いや、厳密には少し変異してるだろうから――Lamia Virus、とでも名付けようか。このLamiaこそが進化を促す鍵なのさ」
「トリガー? そのラミアが引き金に?」
「そうさ。真祖は体内でラミアを生み出す。ラミアは細胞内で複製を繰り返し、血液中に充満する。そして身体のあらゆる部位に干渉するのさ。細胞骨格、神経系の反応速度、体細胞分裂機構に、免疫機構。極めつけはミトコンドリアのATP産生能。
結果、誕生するのがさっき言った理想的な人類――いわば理想種だね。当然Lamiaはウイルスだから、Rabiesと同様、血液を介して人から人へと感染する。理想種への転換の幕開けさ」
ひどい眩暈を覚えたわたしはその場にへたり込んでしまった。
……流石に無理がたたったか。所詮は一介のウイルスだ。ゆるゆるとこちらに移動を始めるあの水風船は……リソソーム。毒やゴミを体内に取り込み消化する解毒役のオルガネラだ。だが手出しは無用だと言いたげに手を翳した桜子が、その手をこちらの方に差し出した。
「いいわ。貴方を受け入れてみますわ。その代わり……裏切りは許さなくてよ?」
「裏切り?」
「えぇ。対等が条件ですもの。取り込まれた貴方が、あべこべに優勢となる行為は許しませんわ。よろしくて?」
「よく……覚えておくよ」
握り返した自分の手が桜子のそれにじわりと滲み、溶け込んだ。