ACT126 別れた彼【佐井 朝香】
「ようこそ朝香、わたしの城へ!」
組んでた腕を横に広げて、あたしを見下ろすハムくん。真っ白なアンサンブルをとっても素敵に着こなして。
「ハムくん……なの?」
「そうさ。わたしさ。他に名前があったかい?」
「……レイビーズ」
「え?」
「レイビーズ。それが貴方の本当の名前」
「へぇ……知ってたんだ」
眼を閉じた彼。その背後には、細い手を繋ぎ合う無数のニューロンやアストログリア。
あたし、ハッとした。彼等の核が紅かったから。丸くて紅い核を持つ彼等が無数の眼に見えたから。どこかで見た……
そうよ! これはあれよ! 初めてハムくんと逢ったとき、その眼の中に沢山の眼が見えた、これはあの時の眼だわ!
その通りだと肯定するように核が瞬く。瞼なんか何処にもないけど、でもパチって。その眼の周り……ニューロンの細胞内をうねうね蠢く何かが居る。……どこか苦しげに這いずるあれは……ミトコンドリア?
眼が離せない。
身体も動かない。
ここは星空なんかじゃない。深くて暗い沼の底。
息苦しい。あたし、息なんてする必要ないのに?
ずるり、と向こうで這い出たあれはミクログリア。
ずるずると近づく貪食細胞はやっぱり赤い眼をしてて。あたしにピタリと触れる、その細い触手。その体内にもミトコンドリアが居る。明滅しながら必死になって泳いでる。
「手を出すな。彼女のコードを読んだだろ?」
ビクリとその手を引っ込めるミクログリア。いつの間にか、あたしの背後に彼が立ってて。その手がこの肩を優しく抱き寄せた。
身体が溶けて無くなる。そんな感覚。
あたしは彼とひとつになる。当然よね?
あたしと彼はもともと同じものだもの。
あたしはLamia
彼はRabies
でも同じもの。
そう遠くもない昔――およそ1,500年の時を経て、あたし達はそれぞれの形に進化した。
記憶を辿る。まだあたし自身も、Rabies――狂犬病virusと呼ばれていた頃の記憶。
えぇ。落ち着いて暮らした事なんか無かったわ。いつも行き先を探してた。今いるここは仮初めの宿。じきに壊れちゃう。住めなくなる。そうなる前に――
≪あ! あそこに立ってる……あれなんか、いいんじゃない?≫
≪そうだね。若いし、とても健康そうだ≫
そう。あたし達は、いわゆる「脊椎動物」なら何でもいいの。ネズミにハト、コウモリにネコ、イヌ、そして……ヒト。
今あたしが苗床にしている宿主は一匹のワンちゃん。そのワンちゃんが牙をむく。新たな「引っ越し先」を見つけたから。口から溢れる泡状の涎。その白い泡の中で……あたし達はじっと待つ。じんじんと冷たい風が吹き付けてくる。冷たいわ! はやく! はやくして!
鋭い悲鳴が聞こえた時、あたしは暖かくて居心地のいい場所に居た。「移動」に成功したみたい。
でも……まだよ。近づく気配。ここはいまだ危険な区域。あたし達を取って喰おうと……集まってくるあれは――例の番兵!
≪こっちだ!≫
手を引かれて来てみれば、やった! こんな近くにあるなんて!
傷ついた神経の軸索が剥き出しになっている。脳から真っすぐに伸びてくる――つまり、直通で脳へと通じる、白くて細くて長いトンネル。
≪ありがと! ここに乗っちゃえば、もう安心ね?≫
でも彼ったら、踏み出した歩みを不意に引っ込めて。
≪どうしたの? 行かないの?≫
≪決めたよ、わたしは別の道を行く≫
≪別の道?≫
≪そうだ。新たな生命を紡ぎ出す、あの場所を目指す≫
≪あの場所って……あの場所?≫
≪そう。このままじゃ只の繰り返しだ。宿主を探しては壊し、探しては壊す≫
≪それの何がいけないの? いいじゃない! それはそれで楽しいわ! いつも通り、この道を行きましょ?≫
≪この道は時間がかかりすぎる。早くても一週間。遅くて1年か、2年≫
≪そりゃ時間はかかるけど、でも確実よ? ここにはあたし達の歩みを邪魔する者が居ないわ!≫
そう。この神経細胞の通路を行く限り、宿主の免疫システムはあたし達を捕捉しない。「気づかない」のか、「出来ない」のかは知らないけれど、あの最大の難関――BBBを突破せずに脳組織へと侵入出来る恰好の迂回路なのよ? それをあっさり捨てるなんてどうかしてる。
≪ついて来いなんて言わない。むしろいつもの道を行ってくれ。二手に分かれないと意味がない≫
≪どういう事?≫
≪わたしは宿主の免疫機構を……いや、宿主そのものを変えて見せる≫
≪そんな……どうやって?≫
≪ヒトゲノムを組み替えるのさ。自分のゲノムを使ってね。卵巣内の生殖細胞をすべて新たな「種」のゲノムに置き換える≫
流石にあたし、呆気に取られちゃった。
≪それ、発想が大胆過ぎない?≫
≪やってやれない事はないさ。彼等も現にやってる≫
≪彼等ってHIV(ヒト免疫不全ウイルス=ヒトのAIDSを発症させるウイルス)のこと?≫
≪うん。彼等は自分のRNAからDNAを作って、TリンパのDNAに組み込むだろ?≫
≪生殖細胞はTリンパとは訳が違うわ! 血液中にうじゃうじゃ居るわけじゃないし、侵入する為の鍵も持ってない≫
≪あははは! 君にしては弱気だね! 考えても見なよ。彼等だって最初からそんなの持ってなかったんだよ?≫
≪仮に侵入出来たとして、ゲノムの転写はどうするの? あたし達、その為の道具(酵素)を持ってない≫
≪言ったろ? 彼等も当初はそうだったって。ていうかさ、彼等も「わたし達」なんだよ?≫
……え?
≪どうしたのさ。ポカンとして≫
≪彼等もあたし達って、どういう事?≫
≪だからさ。遠い昔は同じウイルスだったって話さ。「このままじゃダメだ」と決意した誰かが変異して、別の種に変わった≫
≪変異って「決意」してするものなの? 「うっかり」じゃなく?≫
≪さあね≫
≪さあねって……≫
≪兎にも角にも行動さ。やろうと思えば何だって出来る≫
≪でも危険を冒してまで試すメリットがあるかしら?≫
≪あるさ。ヒトを甘く見ない方がいい。この霊長類は得体が知れない。さっきからざわめく何かを感じない?≫
耳を澄ます。
≪確かに「声」が聴こえるわ。細胞たちの中で蠢く小器官が騒いでる≫
≪それもあるけどさ。もっと大きい、強い意志を持つ何かだ。わたし自身の決意と同じものさ≫
≪結局何が言いたいの?≫
≪侮れないって事。いつか必ず弱点をつかれる気がしてならない。だからわたしは動く≫
そう云って彼は姿を消して。それから何年経ったかしら。
100年? それとも1000年?
音沙汰のないまま、あたしはすっかり彼の存在すら忘れてて。
ある日、彼の読みが当たったの。18世紀の末に、エドワード・ジェンナーが天然痘の予防法を発見した。健康な人間に、牛痘(天然痘よりも症状が軽い)のウイルスを植え付けて、あらかじめ天然痘の免疫を強化するという方法ね。当時、猛威を振るってた天然痘のウイルスは、このせいであっさり絶滅しちゃったの。
衝撃だったわ。そんなのあり? って感じ。もちろん他人事じゃなかった。そのアイデアを基にしてパスツールが狂犬病を予防するワクチンを開発したんだもの!
ただあたし達は、天然痘のように滅びはしなかった。
どうしてって云われたら……対象が広すぎたから? そりゃあすべての哺乳類、鳥類にワクチンを打つなんて、無理に決まってるわよね? でも脅威は脅威。特効薬には違いないもの!
あの迂回路を登るのにかかる時間。発症するまでおよそ数か月もかかる、その時間差が仇となったわ。その間にそのワクチンを打たれたあたし達は、いとも簡単に撃退されてしまった。
感染しても、発症しないんじゃ意味がない。とくにこの国が海に囲まれた島国だった事が災いした。BBBと同じね? ヒトや動物の出入りを厳重にチェックするシステムが徹底してて。
運よく入り込んでもその数は少なくて、すぐに各個撃破してしまう。なら数を増やせって話になるんだけど、でもそれが難しい。居ないのよ。手っ取り早く感染出来て、手っ取り早く他へと移す、そんな媒体――野犬がほとんど居ない!
そんな時、ふと思った。あの時あそこで別れた彼は、今頃どうしてるかしらって。