ACT110 共存の道【菅 公隆】
いつの間にかピアノの曲が止んでいる。時計の針が執拗に時を刻んでいる。
「いつ……わたしがそうと?」
「告白を聞くうちに。人前では決して食事を取らぬ風変りなご子息と、貴方のそれとが一致しました。面差しも良く似ている」
足に力が入らない。再び椅子に腰掛ける。
信じられない。父が……潔癖なあの父が……何故?
「遅くに出来た待望の後継者が貴方だ。だが貴方は生まれついての――」
「化け物、ですか」
「……えぇ。これ以上の報いも無いでしょう」
「……報い…………」
何故自分だけが他と違うのか。楽し気に食事をする友人を、家族を何度羨んだことか。露見を恐れるあまり、友人を作らなかった。まして人並みの恋などした事もない。神父の言う事が事実なら――すべてが……あってしかるべき報いというならば――
「殺してください」
「……」
「今すぐ、この場で。わたしなど……この世から消えてしまった方がいい」
「いいでしょう」
「……え!?」
仰天した。
いやいや! そりゃ頼んだのはわたしだけどさ、考え直せと言ってくれる事をどこかで期待していたんだ。
「ご存知ですか? 教会は天敵である貴方方の駆除を奨励し、各教会に純銀製の弾丸を支給している事を」
引き出しを開け、中から何かを取り出す音。何をするつもりかと衝立から顔を覗かせたわたしはギクリとした。彼の手には黒い拳銃が握られていたんだ。祈りのような言葉がその口から洩れ――くるりと彼が振り向いた。慌てたわたしは椅子から滑って落ちてしまった。立ち上がろうとしたけど……ダメだ。膝の震えが止まらない。そんなわたしの傍を、ゆっくりと過ぎる靴の音。背後でピタリと止まり、告げられたその声に、わたしは心底ゾッとした。
「怖がる事はない。救済を求め、来られた方だ。本当はこうなる事を、望んでいたのでしょう?」
穏やかかつ容赦のない宣告だった。ガチリとスライドを操作する音。
「何かの冗談ですか?」
「いいえ」
「でもこれが救いですか?」
「勿論です。ヴァンパイアの救いは滅びにある。床に手を付いてください。そう、そのまま。動いてはいけない」
「ま待ってください! その銃で本当にわたしを?」
「何を今更……と言いたい所ですが、怖気づくのも無理はない」
あくまでその口調は柔らかい。床を軋ませ、そっと差し出された手に十字架のついたロザリオが乗っている。半ば強引にそれを握らせた神父の囁きが耳朶を打つ。
「ご安心なさい。この先永遠に訪れる苦しみを考えれば、一瞬の苦痛など細やかなものです」
直に押し当てられた銃口。色濃く漂うオイルの、よく機械に差す油の匂いがした。思えば昔からこの匂いが嫌いだった。
「お覚悟は宜しいですか、なにか言い残すことはありますか?」
ゴクリと唾を飲み込んだきり、言葉が出ない。あまりにも事の運びが早すぎる。これは本当に現実なのか?
「どうしました? 何も無いならば――」
引き金を引こうとする気配を察し、わたしは慌てて口を開いた。
「残す言葉などありません。ですが、納得のいかない事がひとつだけあるんです」
「未練を残してはいけない、それは何でしょう」
「父がそんな事をした、その理由を教えてください」
「もちろん、怒りの矛先を彼等に向けるためです。あの年に集めた寄付金は10億を超えた」
「しかしあれほどの犠牲が必要とは思えない。絶えず犠牲者も出ているじゃありませんか」
「いいえ、必要だったのです。かの司祭は当時、『ヴァンパイアと人との共存』を謳っていたのですから」
「……共存……!?」
思わぬ単語に絶句した。人とヴァンパイアが仲良くする選択なんて、考えつきもしなかった。
「知りませんでしたか? 彼は熱心に信徒に説いていたのですよ、彼等も同じ神の子、故に共に歩むべしと。バチカンではそれを重く捉え、近く呼びつける気でいたようです。あの事件は彼等からすれば、体のいい厄介払いでした」
「まさか共存なとど……そんな事が可能でしょうか?」
「妙な考えを起こしてはいけない。夢物語ですよ、滅び以外の選択肢などない」
「彼等……我等も同じ神の子……」
煙突から降りて来た突風が、音を立てて暖炉の灰をまき散らした。揺れる衝立。目の覚めるほど冷たい外気が吹き付ける。
「かの神父様はヴァンパイアも人の心を持つ事を知っていた。だからこそ、そう訴えたのではありませんか?」
「……人の……心?」
「彼の元にも、わたしと似た悩みを持つ者が告解に訪れたのかも知れません。だから――」
「まさか……。そんな事をいちいち気に病んでいたら、司祭の仕事は務まりません」
「人間だって家畜を食べる。いちいちそれを気に病んでなと居られない、とでも仰いますか?」
「……」
「教えてください。同じ心を持つとしても、心の救済は得られないのですか?」
神父の動揺が見なくても伝わってきたよ。だから、どうせならいま思ったことを全部口にしてしまおうと思った。すべてが納得のいく結果になどならない、そんな事は承知している。心の救済が得られないなら、せめて決意の言葉をこの人に聞いてもらおう。何を遠慮することがあると言うのさ。
「わたしはこの国が嫌いではありません。この国の人間は生真面目で不器用だ。でも何の見返りもなく人助けが出来る、そんな気質も持っている。政府に対する批判も多い、しかし意見の食い違いなど当然、出来る限りの捻れの是正も政治家の仕事なら受け入れます。より良く、より豊かで隔てない……そんな社会実現のため必死に学んできたんです。
ご存知の通り、血の味は知っています。生きる為に多くの命を奪いました。人を襲ったことこそありませんが、必ずや避けられない事態も来る、それを恐れ、教会を頼りました。救いの道は無いかと。ここに来て正解でした。目が覚めたんです。自分の境遇を儚む暇があれば、明るい道を自ら作るべきだと。平和的な共存、これが可能なら、これほど前向きな選択は無い。支持します。わたし自らその社会を実現させてみせます」
よろめくように一歩、後退った神父が、背を向けた。大窓から差し込む薄明りで彼の黒い姿が白く霞んでいる。夜が明け始めたのだ。
「……本気、ですか?」
「本気です」
「……汝の敵を……愛せ……恨んではいけない……なるほど、神はご存じだったのでしょう。この場に我らを引き合わせた、その結果がどんなものになるのかを。実は私も初めてなのです。貴方と同じですよ、ここに『かの教会の遺品』がある、そう聞き矢も楯もたまらずやって来た。一晩だけ、静かな晩餐と共に、かの聖体に祈りを捧げる、その許しを頂いた、そんな時に貴方が来た」
ゆっくりと遠ざかる靴音とカチャリと何かが鳴る音。神父がプレーヤーのアームを操作したのだろう。さっきの曲が再び流れ始める。悲し気かと思えば楽し気で、切な気な。転調を繰り返す取り留めのない曲、のようでいて、うかがえる一貫した決意。安らぐ、それでいて勇気が湧く。消えていた暖炉の火が赤々と燃え盛っている。
「ヴァンパイアの衝動を侮ってはいけない。おそらくこの先ずっと……飢えと渇きに苦しむ事になりますよ」
「承知しています」
「簡単なことではありません。それでも決意は変わりませんか?」
「はい……ですが、あの……」
「何か?」
「これが誰の曲か教えてください。聴けばきっと……今のこの時を思い出します。自分を抑える事が出来る気がするんです」
ふっと笑った彼は、司祭服のボタンを外し、隠しからスクエア型のケースを取り出した。
「シューベルトですよ。オーストリアの作曲家です。今のソナタと、即興曲で良ければそのデータが入っています」
差し出された白いケースが、窓から差し込む朝日を受けキラリと光る。受け取りながら、先程渡されたロザリオを差し出す。
揺れる十字架。神父はしぱらくその鎖を眺め、膝をつき、押しいただくようにして両手を差し伸べた。そうやって受け取るのが当然と言った体だ。
急に気恥ずかしさを覚えたわたしは咄嗟に眼を閉じた。神父の顔が見えそうになったと言うのもある。温かな掌がグッとこの手を包みこむ。硬く、逞しい手だ。柔らかな何かが手に触れる。唇か、頬か。何だろう、酷くドキドキする。
どのくらいそうして居ただろう。眼を開ければ耳をくすぐる鳥の囀り。窓から差し込む陽光が幾つもの光の帯となって床を照らしている。
礼拝堂へと続く扉を押し開ける。外へと抜ける温かな空気が鼻先を掠める。
「またお会い出来ますか?」
「神のご意思があればいずれ出会います。行ってください。わたくしの気が変わらぬうちに」
ひとつ頭を下げ、踵を返す。靴音が空っぽの天井に木霊する。ガランとした礼拝堂は、湿った木の匂いがする。長椅子の海を渡り切って教会の正面の扉を開けた時、遠くから声がかかった。振り返れば黒衣の男がさっきの戸口に立っている。
「約束してください! 決して『あきらめない』と! 諦めたときにすべては終わります。欲望に負け、心をそれに委ねた時……貴方は本物の悪鬼となるでしょう。もしも貴方が、人間でなくヴァンパイアとしてわたくしの前に現れるようなことがあれば――――」
彼とはそれっきりだ。今の今まで、そう思っていたんだ。




