ACT109 神父の告白【菅 公隆】
風が窓を叩いている。チラチラと白いものが当たっては消えていく。
……雪? さっきまで晴れていたのに、しかもまだ真冬でも無いのにおかしいな。
柏木はと言えば、髪の毛ひとつ乱さず立ったまま。完璧で隙の無い、自信を湛えた立ち姿はまるでギリシャの彫刻だ。
ふと、17年前にあの教会で出会った神父の姿が重なった。身を包む黒い装束。肩に降りかかる粉雪。もの悲しいピアニスティックな音色。この曲はあの曲だ。あの時流れていたシューベルトのピアノソナタ。
感傷に耽りかけたわたしは頭を振り、流れかけたその曲を追い出した。どうして今のこの時に、あの彼と柏木が重なったんだろう。彼も彼と同じクリスチャンだからか?
何処からか風が吹き、細かな雪が舞い上がる。その中に立つ柏木が笑っている。結んでいた口の端を、ほんの少しだけ持ち上げたあの笑い。……似ている。あの時の彼とよく――
さっき頭から追い払った筈のピアノの音が戻ってきて、今度は耳を傾けた。夜が明けるまであの人と話し込んでしまったあの時、ずっとかかっていたあの曲に。
いまだに知らない。その彼が誰なのか。居場所はおろか、名前すら。確たる事はただ一つ。彼が神父だったって事だけ。
あの日も寒い晩だった。着いたのは、日が暮れてだいぶ経ってから。思った以上に寂れてて、明日は日曜日だってのに人っ子一人見かけない。徐々に降り出した雪。積もるそれをサクサク踏むうちに、わたしはその教会に辿り着いた。そう、カトリックの教会にね。別に入信したいとか、そういう目的があったからじゃない。水も受け付けない、とにかく血の欲求を何とかしたい、そんな悩みを打ち明けたくてさ。当時わたしは高等部の学生で、優等生で通ってた。家柄もそれなりだったから、大っぴらに精神科に通う、なんて許されないじゃない。
築50年は経ってるだろう。錆び付いた鉄柵に、白い木枠の郵便受け。街灯もない、エントランスの明りも付いてない。一面を覆う白い景色を見回すと、教会の奥の明りだけが薄ぼんやりと外を照らしてる。ほっとしたわたしは正面の扉を叩いた。しばらくの静寂の後、蝶番を軋ませながら姿を見せたのは、くるぶしまで届く黒い司祭服の男。
すぐに顔を伏せた。たしか懺悔って……お互いの顔を見ないのがルールだよね?
「告解希望の方ですね? 申し訳ありません。今時間、当司祭は留守にしておりまして」
「え? でも貴方は?」
「たまたま留守を預かった者です。失礼ですが、あらかじめご連絡は?」
首を振ったわたしに、彼はむっつりと黙ってしまった。でも事情を話したら中に入れてくれてね。
規則正しく長椅子が並ぶ、質素な礼拝堂だった。酷く寒い。たまらず身震いしたわたしを、彼は奥の間へと通してくれた。炎が揺らめく暖炉のある、温かな部屋に。夕食前だったんだろう。テーブルには黒いパンと具のないスープが手をつけられないまま置かれていた。暖炉脇のスペースにはクラシックレコードがピアノの音を奏でている。初めて聴く、とても静かで落ち着く曲だ。
「小さな教会ですので告解部屋というものがありません。衝立をご用意しますが……その前にお食事でも?」
わたしってば、よっぽど飢えた顔してたんだろうね。慌てて断ったよ。
「わたしは人並みの食事が出来ません。その理由をお話したくて来たんです」
いくらか興奮していた。憂さでも晴らすように捲くし立てたと思う。そんなわたしの言葉に、彼はただ黙って耳を傾けてくれた。
「ヴァンパイアは存在します。おそらく私もその1人。教えてください、わたしは一体、どうすれば?」
しばらく答えはなかった。司祭とは言え人間。恐るべき告白に恐れをなし、どうやって逃げようか、なんて考えてるのかも知れない。けど唐突に語り出したのさ。彼自身の身の上をね。
「20年以上も前の話です。秋も深まる未明のことでした」
面食らったよ。告解する側の人間が、司祭本人の告白を聞く事になるなんてさ。
「ふと、烏の啼く声で目が覚めました。そこは屋根裏部屋。前の晩に折檻を受け、そのまま眠ってしまったらしいのです。……胸騒ぎを覚えました。時計は午前3時を回ったばかりでした」
流石は……司祭。誠実な人柄を感じさせる、強い芯の通った張りのある声。決して大きな声ではない、むしろ僅かな声量にもかかわらず明瞭に聞き取れる滑舌の良さ、そして声のトーン。
わたしは両肘を肘掛けに乗せて手を組み、額を乗せて眼を閉じた。情景を思い描きながら聞こうと思ったんだ。
「階下に降りて見れば、父と母の姿がない。そういえば、夕べは夜中のミサがあると聞いていた。ただ事ではない、と子供ながらに思いました。暗いうちは表に出るなという言い付けを守り、東の空の明るみを待ってから、外へと飛び出したのです」
冷たい風が頬を撫でた。建付けが悪いのだろう、白いレースのカーテンがフワリと揺らいでいる。室内の雰囲気は明るく柔らかい。白を基調とした内装と、ピアノの音のせいも知れない。
「履いたはずの靴はいつの間にか無かった。それほど夢中だったのだと思います。乾いた葉に足を取られ、何度も転びながら懸命に走るうち……ようやく丘の上の聖堂が見えました。いつもと変わらぬ天主堂が、朝焼けを背に黒々と聳え立ち、塔頂に戴く十字架の傍らには暁の星が輝いている。つんと鼻をつく嫌な匂いがしました。痛む足を引きずり、開け放たれた正面扉から中を覗いた、その時――」
そこまで言って、彼は声を詰まらせた。手で顔を覆う、そんな影が床に黒く映りこんでいる。
「その時の光景は今も焼き付いて離れない。礼拝堂は死人で埋め尽くされていました。喉を裂かれ、眼を固く閉じた夥しい数の死体。明らかに、ヴァンパイアの仕業に見えました。白かった壁は赤く染まり……素足を浸した血だまりはまだ温かかった」
わたしは思わず衝立越しの神父を見つめた。その告白はあまりにも有名なあの事件の事だと気付いたからだ。長崎は玄界灘に浮かぶ離島のひとつ、そこに建つ大聖堂で起きた大量虐殺事件。
しかし報道では『死者二百余命、生存者なし。遺体はすべて首に傷跡。犯人はヴァンパイアか』となっていたはずだ。政府が本格的なヴァンパイア対策に乗り出すきっかけとなった事件。まさかその生き証人が存在し、しかも出会う事になろうとは――
カタンと椅子を鳴らし、神父が立ち上がる。その足が大窓に向かい、サッとカーテンを引き寄せる。風でガタガタと鳴る窓の音が気になったのかも知れない。窓枠の閂を掛ける左手の薬指に、銀の指輪が光っているのが見える。
「涙など出なかった。家族を探そうと見回し、祭壇近くに動く人影を見つけました。駆け寄って見れば、それは普段わたし達を可愛がってくださっていた神父様でした。おそらくは、誰かの到着を懸命に待ち、意識を保っていたのでしょう」
白いレース越しにじっと外を見つめる神父。その手に握られた銀のロザリオが窓に映り込んでいる。
「誰がと問う私に彼は言った。全ては自分の責任だと、犯人を捜すな、恨んではならないと。その時だけは神を呪いました。汝、敵を愛せ。家族……島の皆……すべてを奪った悪党を……捜すな、恨むななどと!!」
ダン! っとその拳を壁に叩きつける彼。弾みで壁の棚に飾られていた聖母のフォトフレームが倒れる。黒い背中がわなわなと震えている。
「許す!? まさか! 許されるものか!! 何の罪もない――敬虔な信者だった彼らを!! それを……!!」
束の間、ピアノの音が鐘の響きとなって鳴り響いた。
彼は深いため息をつき――
ぐっと握りしめた拳をそっと壁から離し、もう片方の手をフレームに伸ばした。
『……お許しください。神の代理であるべきわたくしが……こうも胸の内を吐き出してしまった』
小さな声で呟くのが聴こえた。神父が胸の前で右手を動かす仕草をしている。十字を切ったのだろう。
踵を返したその影が、再びこちらに向かい腰を下ろす。足を組み、背もたれに寄り掛かる様子が、うっすらと透けて見えている。
「あまり驚かれていませんね。事件の事をご存知でしたか?」
「……え、えぇ、有名な事件ですし。というか、こう見えて驚いてますよ、確か救助隊は生存者を見つけられなかったと」
「そうでしょう。あの直後、わたしは皆の後を追うつもりで崖から身を投じたのですから」
「え? でもこうして今」
「えぇ。死ねませんでした。漁をしていた船に助けらたのです。己の罪深さに慄きました。自殺などという卑劣な行為を神が許さなかったのです」
ギィと椅子が鳴った。神父が足を組みなおしたようだ。
チリンと何かが音を立てる。手にするロザリオが触れ合ったのだろう。
「ならば、せめて拾った命を亡くなった皆の為に使おうと思いました。生きて、事の真相を突き止めようと」
「真相? ヴァンパイアの仕業ではないとでも?」
「えぇ。政府がそうと決めつけたに過ぎません。報道もそれに従っただけです」
「確か、『住民同士の小競り合い』や、『集団自殺』などと書き立てる記事もあったはずですが」
「それは全くの見当違いです」
「何故です?」
「キリスト教では争い事を禁じています。まして殺人など最大の禁忌。自ら命を絶つ『自殺』すら『殺人』と見なされます」
「ではどこの誰が?」
「解りませんか? ……人間、相手があまりに身近だと逆に見失うものです」
「焦らさずに教えてください。首謀者を突き止めたのですね?」
「えぇ。首謀者は『この国』でした」
「……いま何と?」
「首謀者はこの国、つまりは『政府』と申し上げました。当時の内閣ですよ。指示したのは官房長官。貴方も良く知る人物です」
「まさか!!!」
乱暴に椅子を蹴って、立ち上がったわたしにしかし、彼は少しも動じない。
「考えてもみて下さい。ヴァンパイアが遊びで人を殺す事はありません。彼らに取って、吸血とは神聖なる行為のひとつ。これと定めた獲物は時間をかけ丹念に吟味し、その上で狩る、つまりは相当の美食家。無差別の殺戮などしない。多くが自尊心高く、潔癖症だ。現場を血で汚し、剰え血溜りなど残す……ハンターとの戦闘ならそんな事もあるでしょうが、獲物相手にそんな不始末は絶対に犯さない」
「ですが……!」
「あの現場は不自然だった。争った形跡も、逃げようとした痕跡もない。何かを決意したかにも見える……硬く閉じた瞼。脅されたのかもしれません。互いの首を掻き切れと。さもなくばお前たちの大事な神父を殺すと」
ふたたび神父が立ち上がった。暖炉へと向かう靴音が遠ざかる。
「……突き止めるまで、苦労しましたよ。幸い政府はわたしの存在を知りません。子のない老夫婦に引き取られ、別の名と戸籍を手に入れていましたからね。目的の為、神学と並行し諜報や格闘技、あらゆる関連分野の技術を身に着けました。証拠は掴めず仕舞いでしたが……たった今溜飲が下がりました。彼はいわば最大の報いを受けたのです」
「その彼とは、菅官房長官のことですね……」
「えぇ。菅隆臣。貴方の御父上ですよ」




