ACT102 田中氏の策【柏木 宗一郎】
あの眼。黄昏の空の色をすべて集め、石にすればあんな眼になるだろうか。
あの時の眼だ。思いがけず田中氏と引き合わされたあの日も、彼はあんな眼をして私を見たのだ。
指定の場は都会の只中に在りながらひっそりと佇む純和風の敷地だった。
『人間をやめる』
そう決意した桜子を連れ、早速に伯爵の指示を仰げば、急ぎこの場に来いと言う。いざ出向いてみればマスターの姿はない。
「ついさっきまで居られましたのが……急に加減が悪うなられましてな」
インターホン越しの声には聞き覚えがあった。中に入れと誘われ、竹を括った門を潜れば苔の覆う和の前庭が開け、点々と続く敷石の先、簡素な庵が我々を出迎えた。陽光の当たらぬ庇の元で待ち受けていたのは和服姿の大柄な男。その眼に柔和なる光を湛え、かつ佇まいは品の良い。あの男だ。マスターとの契りが交わされたあの夜に居合わせた世話役の男。
通されたそこは床の間に白い椿が活けられた簡素な茶室。炉に据えられた黒い釜がふつふつと湯気を立てている。
「用向きはさておき、まずはくつろぎなされ」
亭主自らの手で点てられた茶。その手前は私から見ても素人のそれではない。濃く練られた茶に口をつける真似事をし、桜子ともども他愛もない世間話などするうちに時がたち。白かった障子が赤く染まり……良く良くみれば掛け軸の書、見覚えがあると思えば――
「はははは! この軸、予てより伯爵様に強請り、ようやくに貰い受けた品。驚きましたぞ。聞けば柏木殿、貴殿の作だと!」
何と言う顔をするのだろう。この男、老練なる気配から察するに100を優に越している。時を経る毎に心は荒み、次第に喜楽を忘れるものだ。それが、このような闊達なる笑みを。
それほどの器か。何故これほどの男が年若きあの方を「伯爵」と?
「これを拝見し貴殿がなかなかに大した方とお見受けいたした」
そう言って笑う彼にこの心内をぶつけてみる。彼は一度頷き腰を上げ、茶室の外へと我々を導いた。茂る木の枝、竹の葉が夕陽の赤を柔らかに照り返している。
「真の花より時分の花。そも伯爵様はわたくしなどよりよほど采配に長けておられる。故に身を引いたまで」
またもや首を傾げてしまう。真の花。やはり自身こそ真打と認めているのだ。認めた上で、若い感性を買い、それを押す。それは熟考の上か、500の年月が成せる謙遜か。田中氏は眼前の竹の葉に手を翳したままそれ以上何も言わず、しかしふと決したように口を開いた。
「此度の契り、貴殿の手で交わされては?」
思わずその眼を見返す。冗談ごとの眼ではない。
桜子を同胞に迎える為の儀式、つまり「契り」をこの私が? 伯爵様を差し置き?
しばし沈黙する。田中氏の意図が解らない。
「……そんな眼をされるな。悪い意味で申し上げて居るのではない」
「と申されますと?」
「最近、富に伯爵様の持病とやらが酷くなられる。身を削り励まれる日々が祟っておられましょう」
「いまの伯爵様に桜子を仲間にする力が無いと?」
「そうは申しておりません。ただご負担を軽くして差し上げるだけにて」
「しかしこの私ごときが――」
「いやいや! 解りますぞその器量! 伯爵様に匹敵する、いやむしろ上回る身のこなし。しかも、伯爵様の資質、陽光耐性をも受け継いでおられる」
なるほどそういう事か。良かれと思っての提案であるらしい。しかし……
「お待ちを。それだけはご勘弁願います」
「ほう? この儂の眼を……お疑いか?」
「違います。私は同胞を作らぬと決めております」
「なんと……申された」
夕暮れの春の風が急に陰りを帯びた気がした。さざ波の如き一面の薄雲がどす黒い紅に染まる。照り返す暗赤色の陽光。量の多い長髪がゾロリとなびく。傍に設えられた鹿威しが乾いた音を立てる。
「主ぁ……伯爵様の何や?」
振り向かずに問う、その声音が一変している。彼は大阪、堺の出であると言う。普段使わぬその言葉を紡ぐ時は、その心中が穏やかでは無い。そう思い知ったのは、ゆっくりと向き直った……田中氏の眼を見た時だったのだ。
気圧される。齢を重ねたヴァンパイアはこうも恐ろしい眼が出来るのだ。
またもや竦む身体。しかしかつての私でもない。見返すこの眼をそのままに、腹に息を深く溜める。そんな私を捉えて離さぬ田中氏の眼。
この膠着を新たな侵入者が破った。振り向かずともその気配、匂い。魁人だ。戦闘員を一人連れている。
田中氏の眼が逸れた隙をつき、マスターの両手首に嵌められた枷を握力のみで砕き割る。短く呻き力なくうずくまる我が主。少し乱暴だったかも知れない。
「やはりあの時……ぬしを始末しとくべきやった」
明瞭に聞き取れる田中氏の言葉。このイヤープラグは高周波よりの音波をカットするもので、彼の低い声音は良く拾う。田中氏の独白は止まらない。
「ぬしが言うた、同族を作らぬ理由というのは解らぬでもない。儂らの道は永劫の闇ゆえに、同じ道を歩ませるは酷だとな? 解らぬでもないが納得は往かぬ。長きも短きも同じ茨の道や、人も儂らも変わらん。唯伯爵様の為にあると答えたは良し、だが一途に見えるその一方で、裏を返せば一族などどうでも良いとも受け取れる。ぬしが縋るものはなんや? 別の何者と伯爵様を重ねてはおらぬか? そう思えてならんのや」
思わず納得してしまう。確かに私は一族の繁栄など考えては居ない。この方を主と認めたのも確かに――
「……今しがたもな、伯爵様をつい詰ってしもうた。この兵器はあんまりや。なんぼなんでも度が過ぎる。せやけど拵えたんはその方やない、ぬしやったんやな?」
それもまさしくその通り。今度は不敵を装い頷いて見せる。
鳴動の鳴りやまぬ議事堂内。背後では魁人とハンター達が状況を確認し合う声。そんな中、魁人が言い放った言葉がやけにはっきりと耳に届いた。
「俺ら免状持ちにはな、てめぇ自身の行為を思い悩む『権利』なんかねぇんだぜ?」
「それは、君達だけじゃないよ、カイトくん?」
言葉を返した、この顔は笑っていたかもしれない。この声で意識が戻ったのだろう、苦し気に顔を上げたマスターが身体を起こした。が、高周波の効果は如何ともし難いらしく、再び座り込んでしまった。申し訳ありません。このイヤープラグは一組しか無いのです。
「伯爵様を渡してもらおか。本気で儂らの破滅を願うとる。そんな者に伯爵様は任せられん」
「その必要はありません」
「なんでや?」
「この方の寿命はじき尽きるからです」
田中氏が驚愕に眼を見開く。急激に鎌首をもたげる彼の「気」。
「この方の発作の原因は云わば次元付きの爆弾。3年前のあの夜、私はこの方の胸内に銀の弾丸を仕込んだ」
「なんやて……」
「詰み、ですよ。もはや幹部と呼べるヴァンパイアはこの私と貴方しか居ない」
「なんぼや」
「は?」
「その御方の余命は……あとなんぼや」
「……じきとしか。3年過ぎて生き延びた個体は居ないと、文献には」
言葉を切った。見えぬ手に心の臓を掴まれる感触があったからだ。両腕を下げたままこの眼を睨みつける田中氏の、その右の手が空の何かを握りこんでいる。
何かとはこの心臓だ。
あの時と同じ。触れぬ手でこの心臓を掴んだ時と。
ゆっくりと「気」の存在を確かめる。すなわち足の先、指の先よりこの胴体に至るその流れに意識を向ける。練った気を自在に操作し、操る。ひと月前、田中氏のその技に畏怖した時より……密かに修練を重ねた操作。
「其方を責めん。人には役目というものがあるもんや」
田中氏は眼を逸らさない。右手に更なる力を籠め、ため息をひとつ。
「ただ一つ言っとく」
「……?」
「儂らは滅びん。滅びたくとも出来ん。その訳がちゃんとあるんや」
「……それは?」
「……そやな。冥土でゆるりと思案するが良かろう」
――パンッッッ!!!!
胸内の破裂音は、心臓を握りつぶされた音ではない。
私は田中氏が言葉を紡ぐ、その隙に気を練り、心の臓を内側から固めていた。その気で一息に田中氏の気を押し返したのだ。
肺の諸所が破れる痛み。しかし我々は肺による呼吸を必要としない。皮膚呼吸で十分。
田中氏が唸る。彼の朱色の瞳に、私自身の深紅の瞳が映り込んでいる。
出力、及び感覚器の感度、最大。
一足飛びに田中氏の懐に飛び込み、その腹に両掌底を押し当てる。胴体、手足のすべての伸筋群に力を籠め、その力を放出する。どんな感じかと問われれば、バレーのボールをレシーブする感覚に近いだろうか。気を練れぬ者でも鍛錬により発動は可能。中国武術の「発剄」がこれに相当するかも知れない。
――――――ドンッ!!!!
まともなる衝撃を受け、田中氏が背後に飛ぶ。が流石は熟達。彼もまた内部より障壁を張っていた。背後に飛んだはおそらくは自らの意思。肩幅より広く足幅を取り、右掌底を前方に尽き出す田中氏。腕周りの空間が歪む。
尋常ならぬ殺気を感じ、上に飛んだ。間髪入れず、彼の手から放たれた圧縮気体の塊――気弾とでも言おうか。初めて見る現象だが、いちいち驚いている場合ではない。狙いはこの足元。つまりは彼の意図に乗った格好だ。ならば次なる攻撃はこの軌道上。
右腕を下方に伸ばす。体内の気を螺旋に伸ばし、掌に集める想起。発剄とはまるで違う初めての試み。だが上手く行くだろう。砲を撃つイメージ、田中氏に出来て私に出来ぬ事もあるまい。
初めての気弾は予想以上の威力をもって床に当たり、その反動がこの身体を更なる上方へと押し上げた。田中氏が放つ気弾はうまく逸れ、宙にて霧散。気弾の射程は思った以上に短い。せいぜいが2ないし3m。
着地し、ふと田中氏を見ればふらりと揺らめき壁に手をつく仕草。急激に気を練った反動か。
そういえば伯爵が居ない。
と眼をやれば、大隈像の袖に居た。何故か佐井医師と総理の遺体を抱え込んでいる。こちらの視線に気づき、一度だけ眼を合わせ、佐井医師の額にそっと唇を触れられた。
こんな時に何をしておられるのか。伯爵なりの義理立てか。まあ加減が戻られたようで何より。
背後の魁人達は動かない。こちらに狙いすらつけぬのは賢明と言えよう。
「仲間割れはほんま……不毛やな」
壁に背を預ける田中氏の息が心なしか荒い。
「儂らの弱みは銀弾や。どんだけやっても消耗するのみ、とどめは差せへん」
チラリとこちらを見た眼が人のそれに戻っている。
「降参や。奥の手まで往なされた。思った通り、ぬしは戦の天才や。儂のこの手でどうこう出来へん」
発散していた気がその体内に集束していく。体表すべてを鎧の如く覆っていたそれが消失する気配。
消耗?
違う。その言葉とは裏腹、蓄えは減らず、むしろ充実。こちらの蓄えこそが底を尽きかけている。おそらく彼はここに来る直前に吸血している。
しかし何故? 決して不利ではないこの時に、なぜ白旗を?
ここに至って私は気づいた。田中氏は現在、気の操作をしていない。にもかかわらず高周波のダメージを受けている様子がない。伯爵もだ。いつの間にか地の鳴動が止んでいる。今しがたの田中氏の攻撃とこの私の攻撃の影響か。それとも田中氏が意図的にあの振動を打ち消す波動を送ったか。悟るべくもないが、問題は今だ。彼は私より先にその変化を知った。
つまり私は――先手を取られた。
「すまんな柏木。ぬしの虎の子……使わせて貰うで」
田中氏が私の肩越しに視線を送り、ほくそ笑む。
まさか。
そんな事が可能なのか?
背の左右それぞれにピタリと当てられた硬い感触。慣れたガンオイルの匂い。持ち手から立ち昇る汗の匂い。見ずともわかる。私はこの10年間、彼ら二人を鍛えて来たのだ。
「……司令……」
絞り出される魁人の呟き。そのもう一方の銃口は、彼自身の米神に押し当てられていた。