12.5話 時は戻らない
「芹沢さーん、出前何頼みますー?」
道に迷ったというお婆さんを家に送り届けて、交番に戻ってくると、山岡が近所の定食屋のメニューを渡してきた。壁にかかっている時計は、18時半を示している。
(もうそんな時間か)
今日は近くで事件も起きなくて、平和な1日だった。俺たち警察が暇なのは、世の中にとって良いことだ。
「うーん」
休憩に入るために、俺は制服を脱いでYシャツ姿になりながら、出前のメニューとにらめっこを始めた。
「親子丼でいいや」
「ここの親子丼美味いっすよね〜。僕も親子丼にします」
「控え室に俺の財布置いてあるから、出前届いたらそれで払っといていいぞ」
「マジすか!? ごちそうさまでーす」
俺の注文を聞いた山岡は、店に電話をするために控え室に入っていった。
「さてと」
(時間あるし、さっき来てた拾得物届出の処理でもしとくか)
出前を待つ間、事務作業でもしようと机の下に置いてあるパソコンを取り出した時だった、
「邪魔するぞ」
交番の扉が開いて、来客を知らせるチャイムが鳴った。
見ると、制服を着た少女が、自分より小さな女の子をお姫様抱っこのように抱き抱えて交番に入ってきた。
「貴様がこの娘の父親か?」
そう聞いてきた少女は、抱き抱えていた女の子の顔を俺に見せてくる。
「えっ……遥!!?」
完全に力が抜けてぐったりとしている女の子の顔を覗くと、そこにあったのは見慣れた娘の顔だった。顔色が見るからに悪いのに加えて、口元からは血が垂れている。
「一体何が!」
あまりに突然な事で、俺の頭の中は軽いパニックになった。
「安心せい、眠っているだけだ」
その細い腕のどこに遥を抱える力があるのか、息切れすら起こしていない少女は、具合の悪い遥を見て取り乱した俺に、落ち着くよう言ってくる。
少女の目はどこか肝が据わっていて、底知れない落ち着きようをしている。
「芹沢さーん、出前の到着が40分後くらいらしいでーす」
そこに、何も知らない山岡が帰って来た。来客がいるっていうのにこいつはほんとに……
「山岡! 救急箱取ってこい!」
「え? って……その子芹沢さんの娘さんじゃ……!」
「いいから早く取ってこい!」
「は、はい!」
流石に非常事態が起きているということを察したのか、山岡は急いで控え室に戻っていった。
「ん? あぁ、この娘の顔に付いている血か。安心せい」
慌てふためく俺を見た少女は、また俺をなだめると、遥を手渡してきた。俺の腕の中で息をする遥を見ると、だんだんと落ち着いてくる。
「これはこやつの血ではない」
「……? じゃあ、誰の……」
「貴様の女房だ」
「え……?」
「いいから今すぐ家に戻れ……取り返しがつかなくなるぞ」
落ち着いたはずの心臓がまたうるさくなってきた。今……この子なんて言った? 俺の女房? ってことは……
「桜…………?」
「ではな」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「聞こえなかったか? 早く家に向かえと言っておるだろ」
遥を届けて足早に交番を出て行こうとする少女に、俺は爆弾発言の説明を求めようとしたが、少女はさっきとは比べ物にもならない強い語気で俺に家に戻るように言った。
少女のあまりにも堂々とした佇まいに、俺はつい怯んでしまう。
「あなたは……一体」
「わらわか?」
この圧倒的存在感、所々不思議な話し方、
「……ただの女学生よ」
この子は少なくとも人間じゃない。オカルトなんて信じたことはないが、何か俺の本能がそう訴えかけてくる。
「もう……2度と会うこともあるまい」
「っ……」
言葉を失う俺を置いて、少女は今度こそ交番を出て行った。まだ聞きたいことはあったが、彼女を呼び止めることができなかった。
「芹沢さん、持ってきました! あれ? さっきの女の子はどこに……」
救急箱を持って来た山岡は、さっきの少女を探してキョロキョロしている。
「あっ! ガーゼはこの中です!」
その時視界に入ったのか、遥の口元を見た山岡は、ガチャガチャと音を鳴らしながら、救急箱の中を漁っている。こいつは察しが良いのか悪いのか分からないな。
(さっきのことをこいつにどう説明すれば……)
俺は一瞬、山岡にどう状況説明するかを考えた。
「パトカーのキー持ってこい、出動だ」
「えぇ!? なんすか急に!」
「説明してる時間はない、急げ!」
「わ、分かりました〜!」
(そんな説明してる暇があるなら、1秒でも早く桜の安全を確認しに行きたい!)
説明ができないほど切羽詰まった事態が起きた、これが俺なりの山岡への説明だ。
「桜……無事でいてくれよ」
とにかくそう祈ることしか、俺にはできなかった。
ーーーーーー
「んっ…………山岡さん……?」
目を開けると、そこには山岡さんがいた。
「遥ちゃん……! 芹沢さん! 遥ちゃんが目を覚ましました!」
なんだか頭がズキズキする。
「っ! よかった……」
前を見ると、お父さんが運転をしている。ここは……パトカーの中? なんで私はここにいるんだろう。……ていうか、私さっきまで何してたっけ……? うまく頭が回んない……
「山岡さん、私なんでここに……?」
「ほら、セーラ服を着た長い黒髪の女の子が、遥ちゃんを交番まで抱きかかえてきたんだよ。遥ちゃんを置いた後、すぐにどっか行っちゃったけど……」
「え……? セーラ服? ……誰のことですか?」
「え? あの子遥ちゃんの知り合いじゃないの……?」
山岡さんが何を言っているか分からない。私は誰かに連れてこられたの……? 一体誰に?
ていうか、今このパトカーはそもそもどこに向かってるんだろう。
「あの」
「……遥、起きたばっかりで悪いんだけど1つだけ質問に答えてほしい」
「質問?」
どこに向かっているかを聞こうとした私の声に、お父さんが声を被せてきた。よく見ると、ハンドルを持つ手が震えている。
「母さんは……桜は無事なのか?」
「お母さん……? あっ……ぁ」
お父さんにそう聞かれた時、頭の中がぐちゃぐちゃになった。
「うぁぁああああぁああああ!!!!」
「遥ちゃん!」
「うぁ……はっ……! はっ……けほ! けほ……!」
喉が千切れそうになるくらいの声を上げた私を、山岡さんはなだめてくれる。
息が苦しくなって、大きく咳が出る。はっきりと……あの瞬間を思い出した。
「ゆっくりでいい。大きく深呼吸してからでいい」
「遥ちゃん無理したら駄目だよ?」
「っ……あ、あの……」
お父さんに言われて深呼吸をした私は、なんとか何があったかを2人に説明しようとするけど、
「竜胆くん……を……竜胆くんが……」
言葉が上手く出てこない。
「竜胆ってのは、朝に言ってた奴か」
「一緒に……帰って……家で……一緒にご飯食べる……ことになっ……て」
お父さんの言葉に頷いた私は、頭の中で言葉をまとめながらゆっくりと説明をする。多分、ゆっくり説明してる場合じゃないんだけど、今の私に早く説明する余裕なんてなかった。
「そ……そしたら……ご飯の用意してたお母さんを……お母さんを……!」
……ほんとに急だった。直前までお母さんが使っていた包丁で、竜胆くんは背後から……
「っ……うっ……ぁ」
「もう……それ以上は言わなくてもいい。説明してくれてありがとう」
私が言葉を詰まらせていると、お父さんが説明を止めてくれた。私はこれ以上説明するのが辛かったし……お父さんもこれ以上聞くのは辛かったんだろう。
「……このタイミングで着いたか」
窓の外を見るとそこには……我が家があった。
「芹沢さん、応援呼びますか?」
「いや……まだいい」
「まだ?」
胸につけたトランシーバーみたいなもので連絡を取ろうとした山岡さんに、お父さんはストップをかけた。なんで連絡を止められたのかが分からないのか、山岡さんは首を傾げている。
「……ちょっとだけ俺に時間をくれ。5分……いや、3分俺が戻ってこなかったら、応援を呼んでくれ。その間、遥を頼む」
「……分かりました」
私と山岡さんを置いてパトカーを出て行ったお父さんは、腰にかけてあった銃を持って家の扉の前に立った。いつも見ているお父さんとしてではなく、警察官としての姿をこんな形で見たくなかった。
どうしてか分かんないけど……私はそんなお父さんの背中を目に焼き付けたいと思った。