9.5話 2つの勿忘草
遥ちゃんに恋をするまで、1秒もかからなかった。
一目惚れだった。
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1年前の7月26日
(ほんとに熱いな)
高2の夏休み、母さんのお見舞いに来ていた俺は、病院の受付横にある自動販売機で飲み物を選んでいた。既に左手には、母さんに渡すためのスポーツドリンクを持っている。
朝に見たニュースの天気予報によると、今日の最高気温は36℃。こんな蒸し暑い日は、乾いた喉に炭酸飲料を流し込みたくなる。
俺はガタンッ! と大きな音を出しながら落ちてきたコーラを取り出し口から取り出す。
「神楽坂翔さーん」
「っ、はーい」
ちょうどペットボトルの蓋を開けた時、受付のおばちゃんが俺を呼んだ。喉が渇いていた俺は、急いで一口だけコーラを飲んでから、受付に顔を出す。カラッカラに乾いた喉が、炭酸で刺激されるこの感覚がたまらない。
「お待たせしました。定期検診が終わったので、もうお見舞いに行っていただいて大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
いつも通りの会話だ。日曜日の昼過ぎ、母さんの定期検診を終えたことを知らせる受付のおばちゃん、それに笑みを浮かべながら礼を言う俺。いつも通りだ。
案内を受けた俺は、母さんの病室がある8階へと向かうためにエレベーターに乗った。
「すみません。乗ります」
ただ、この日はいつもとは少し違った。8階のボタンを押し、扉を閉めようとしたその時、1人の男の子が閉まり始めていた扉に、手を割り込ませて入ってきた。
(中学生か?)
男の子の見た目は若いけど、何故か髪の色は白だった。体も細身で、なにより……目が死んでいる。まるで、魂が抜けてしまっているかのようだ。失礼な言い方になるけど、病院が似合う。
「遥、こっち」
「……うん」
そんな男の子の呼びかけに、消えていくような声で応え、遅れてエレベーターに入ってきたのは、これまた白髪の女の子だった。
「っ……!」
小走りでエレベーターに入ってきた反動で、ふわりと揺らめく耳にかかったショートヘアは、艶がありすぎるからだろうか、1本1本が細かく煌めいて見える。その様子は本当に一瞬だったが、思わず言葉を失ってしまった。
女の子は、作り物かと疑ってしまうほどの左右対称な整った顔をしていたが、目元を見てみると、ピンと上を向いて綺麗に生えそろっているまつ毛や、くっきりとラインの入った二重といった、ぱっちりとした明るい目元の印象とは真逆に、真紅の瞳が曇っている。
「綺麗だ……」
ただ……俺はその姿さえ美しいと思ってしまった。
「っ! あ、急にごめん! 決して変な意味じゃないんだよ? その、なんというか……あはは」
(年下に何言ってんだ俺は……)
思わず出た言葉を取り消すように、俺は女の子に笑ってみせた。すると……
「……どう……して」
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「月が綺麗だね~、遥ちゃん」
翔さんに連れられて境内に来ると、翔さんは夜空を見上げてそう言った。
「そうですね……」
翔さんの言葉から、「月が綺麗ですね」というフレーズを連想してしまった私は、頬を少しだけ熱くした。
翔さんの言う通り、今日の夜空は本当に綺麗で、雲一つない夜空に星がちりばめられている。そして、そんな星々と私たちをひっそりと照らす三日月、満月とはまた違う良さがあって私は好きだ。
「ごめんね、急に2人っきりにしちゃって。まだ、2人っきりは怖いかな?」
振り返って、心配そうな声で私にそう言った翔さんに対して、私は首を横に振る。
確かに私は翔さんの前だと怯えてしまう。
「いや……私は翔さんのこと……怖いって思ったこと……ないです」
「え……?」
私は翔さんの問いに首を振った。私は翔さんに怯えていたわけじゃない。
翔さんの目を見て私がそう言うと、翔さんは私に見せたこと無いような、間の抜けた顔を見せた。なんだか、してやった気になった私は少し微笑んだ。
「い、いや、そんな訳ないでしょ……? だって、俺の前だといつも不安そうな顔して……」
そんな私とは反比例して、私の言葉を信じられないのか、翔さんはうろたえだした。いつもの、爽やかで頼りになる翔さんからは、考えられないような姿だ。
「私は……あのことがあって……から、人を……信じるのが……怖かったです」
6年前から私の記憶に深く刻まれているトラウマ、それは呪いのように、私に人を信じさせることを怯えさせた。と、さっきまでは思っていた。
「俺もそのことは知ってる。だから、俺のことも怖がってるって思って……! 俺は今まで!」
「でも!!」
「っ! 遥ちゃん……?」
取り乱す翔さんを見た私は、辺り一体に響くほどの大きな声を咄嗟に出していた。久しぶりにお腹から出た声は、少し裏返って、震えていた。反動で息が切れる。
混乱していた翔さんも、聞いたことないような私の大声を聞いて少し我に返ったのか、私の目をじっと見つめてキョトンとしている。そりゃそうだ、間違いなくここ6年で一番大きな声を出したのだから。翔さんは、言葉を詰まらせて話す私しか見たこと無いから、尚更驚くだろう。
「……今思えば、私は人を信じることが……出来なくなったんじゃないと思います。私があの事件以来出来なくなったのは……恋だと思います」
「恋?」
自分の中でも整理しきれていない言葉が口から出てくる。6年間考え付かなかったこと……いや、考えないようにしていたことだ。
「……お母さんを殺したのは……私の初恋相手だったんです」
目の前で初恋相手にお母さんを殺されたあの日から、私は感情を押し殺している。そうでもないと、私は毎日泣くことになるだろうから。
「……幸人から聞いたよ」
翔さんの言い方は、全てを知っている人の言い方だった。
「だから私は……恋をするのが怖いです」
私は、今の自分の感情が分からなかった。
悲しみ、怒り、不安、緊張……安心、好意。
「っ……!」
そんな色々な感情が混ざりに混ざったからか、私は涙を流した。
「わっ……! 翔さん?」
「ごめん……ごめん」
私が泣き出した瞬間、翔さんは私のことを優しく抱きしめた。夜風で冷えていた私の体が、少し暖かくなる。
どうして翔さんが謝るのか、私には分からなかった。どうして翔さんも泣いているのか、私には分からなかった。
「次は絶対助けるから。もう悲しい思いはさせないから」
私を安心させる前に、自分を安心させようとしているのか、翔さんがかなり深く呼吸をしていることが体越しに伝わってくる。
「? 次ってどういう……」
「……この後ね、神様が6年前に時間を戻すんだ」
私が翔さんの言葉を聞き返すと、翔さんは一呼吸置いてそう言った。
「それって……!」
今から翔さんたちがやろうとしていることが、私にもようやく分かった。
「そう、遥ちゃんのトラウマを排除しに行く。もちろん、彩ちゃんのお姉ちゃんも助けに行くよ。俺と幸人が絶対に助けてみせる」
翔さんたちは、運命と喧嘩をしようとしているんだ。
「どうして……翔さんはそこまで」
「遥ちゃんを愛してるからだよ」
「あい……!?」
私が言い切るより早く、耳元で言われた翔さんからの言葉に、私は不意をつかれた。
「あはは、重いかな?」
半分本気で、半分冗談で、翔さんはそう聞いてきた。やっぱりこの人はずるい人だと思う。
「そんなことは……ないです……けど」
翔さんからの質問に答える代わりに、私は1つ質問を返した。
「その……翔さんにとって……愛ってなんですか?」
色んな歌や小説で簡単に聞く愛という単語。その意味はなんだろう、恋との違いはなんだろうと、私は考えたことがある。結果的に、私の自問自答では、どれだけ時間をかけてもハッキリとした答えを出せなかった。
その答えを、今の翔さんなら知ってるような気がした。
「どんな形であれ、遥ちゃんに幸せになってほしいって思うことかな」
頬を赤らめて言葉を詰まらせながら質問をした私とは違って、翔さんはノータイムで、当然と言わんばかりにさらっと返答してきた。
「だから俺は、君を笑顔にすることに命をかけれる」
どうしてこんなにも真っ直ぐなことを、この人は言えるのだろう。目を合わせながらこのセリフを言われていたら、きっと顔どころか、体全体を赤くして照れていたと思う。
「私……翔さんに何もできてないです」
「そんなことないよ。俺は初めて遥ちゃんに会った日から、たくさん救われてるから」
卑屈になってしまう私を、翔さんは認めない。
「俺さ、2年生までサッカー部だったんだ。10番背負ってエースやっててさ、周りとか親父とかにも期待されてたんだよ」
そして、これ以上私に卑屈な言葉を言わせないために話題を変える。こういった気遣いが出来るのが、翔さんの凄さなんだろう。
「……でも2度とサッカーできなくなるような怪我しちゃったんだ。周りの目が一気に冷めるあの感覚……あの目で見られたくなくて、結構無理して元気に振る舞ってたんだけど」
『……どう……して……悲しいのに……笑うん……です……か……?』
「初対面で遥ちゃんにそう言われた時はビックリしたけど、その言葉で肩の荷が降りたっていうか、自分らしくいようって思えたんだ」
笑っているのか、泣いているのか分からない声で、翔さんは私に救われたと言う。
「遥ちゃんからすれば何気ない一言でも、俺からすれば人生を変えてくれた一言なんだ」
その言葉に私は救われる。こんなに素敵な人に愛された私は、
「改めて言うね。好きだよ、遥ちゃん」
間違いなく幸せ者だ。
「わ……たしも……翔さんのことを……好きになりたかった……です。でも……できないんです」
大粒の涙を流しながら、私は翔さんからの告白の返答をする。力が抜けて崩れ落ちる私を、抱き抱える形で翔さんは私のことを抱きしめる。
こんなにも幸せなのに、こんなにも悲しいことがあるのだろうか。私は目の前にいる、本来ならば想い人である人を抱きしめ返せない。あの日の呪いが、それを許してくれるわけがない。
「この世界の私は……恋を諦めました。……だから、その世界の私には、愛を教えてあげてくださいね」
「…………うん。約束する」
涙を押し殺して、翔さんは私に笑いかけながら、深く頷いた。この人が振られるなんて、これが最初で最後だろう。
「……翔さん」
「ん?」
抱きしめ返すことはできないけど、抱きしめてくれている翔さんの胸の中に顔を埋めた私は、下を向いて泣き顔を隠しながら、1つわがままを言った。
「この世界の私からの、最後のわがまま……です」
「何?」
優しい声で翔さんはそれを聞いてくれる。
「……この世界の私のこと、忘れて欲しくないから……もっと強く抱きしめてください」
「っ……忘れられるわけないでしょ」
この世界の私という存在を自分の胸に刻むように、翔さんは私を強く、強く抱きしめた。私も翔さんも、泣き止むことなんて出来なかった。
私はいつかきっと、この人のことを愛するんだろう。




