8.5話 クローバーの花は咲かない
「ふぅ……」
大きく深呼吸した私は、スマホの電話帳から遥ちゃんの連絡先を探す。私の電話帳には、何十というテレビ業界関係者の連絡先が入っている。今老若男女問わず人気の若手俳優や、時代を作ったテレビ番組のプロデューサーの名前もあるが、その中でも『芹沢遥』という文字は、とても輝いて見えた。
(絶対……絶対大丈夫)
そう自分に言い聞かせて、私は遥ちゃんに電話をかけた。
ーーーーーー
「……っ」
私が泣き止むと同時に、さっきから降っていた雨も止んでいた。窓には雨が残した跡として、水滴がたくさんついている。
「……静かだなぁ」
体育館の中でやっていた部活も休憩にでも入ったのか、校内は1学年600人ぐらいいるマンモス校とは思えないほどの静けさだ。
誰もいない廊下、そこにあるベンチでぽつりと1人座っている私が、なんだか浮いてしまうほどには、人気がない。
(放課後だし……そうだよね)
窓の外から聞こえる、雨が上がったことを同胞に伝えるカラスの鳴き声、遠くの廊下から聞こえる、水を踏んだスリッパが床を擦っている『キュッキュッ』っていう音、普段はそこまで気にならない音も、今は鮮明に聞こえてくる。
「わっ! っ……? ……電話か」
そんな、少し心地よくもあった静寂を破ったのは、私の携帯電話の着信音だった。大きな音とバイブレーションのせいで、普段出さないような声が出てしまった私は、ちょっとだけ恥ずかしくなった。
(おにぃかな……?)
そう思って、携帯電話の画面を見た私は「えっ……」と驚きの声を漏らした。
「るーさん……!?」
そこには、『小山瑠璃』と、るーさんの名前が映し出されていた。見間違いじゃないかと、目元を少し擦ってからもう一度画面を確認しても、そこにはるーさんの名前がある。
「……急にどうしたんだろ」
電話番号を交換して以来、るーさんからの初めての着信に、私は困惑しつつも喜びを感じていた。
(何かあったのかな……?)
とりあえず電話に出てみると、
「も、もしもしっ!」
るーさんは、なんだか緊張している? ような、少し震えた声をしていた。
「……もしもし」
静かな廊下に私の小さな声が反響して、自分の声をイヤホンで聞いているかのような感覚になる。
「そ、その……急にごめんね。今大丈夫?」
「うん……大丈夫」
「そっか! えっと、は、話すの久しぶりだね!」
「そう……だね」
久しぶりに話すからか、お互い何だかぎこちない。これが電話でよかった。もし、直接会って話した時に、こんな風に話してしまうと、とてつもなく気まずくなっていただろう。
「…………私が避けちゃってたもんね」
「え……?」
「その……ごめんね……」
るーさんはさっきまでの、震えながらではあっても、元気な声とは打って変わって、唐突に今にも消えそうな声で私に謝ってきた。
「るーさん……なにかあった……?」
初めて電話してきて、いきなり謝りだしたるーさんを、私は、何か大きな悩み事でも抱えてしまってるんじゃないかって心配してしまう。
(芸能界にいると、きっと大変だよね……)
誰にも言えない悩みを抱えて、藁にもすがる思いで、るーさんは私に電話をかけてきたのかもしれない。
(それなら私は、どれだけ小さな力でも……るーさんの役に立ちたい)
「ううん、なんにもな……かったわけじゃないけど……」
「……? 何があったの……?」
るーさんのどこか含みのある言い方に、私は違和感を覚えた。るーさんがハッキリとものを言わない時は、絶対に隠し事をしている時だからだ。
「えぇ!? なんていうか、えーっと、何があったかは言えないんだけど……」
何があったか聞いてはみたが、るーさんは内容を濁した。人には言えないことなんだろうか?
「…………色々大変だと思うけど……無理はしないでね?」
「……うん、大丈夫だよ」
何があったかを言ってくれないるーさんに対して、私が絞り出した言葉は、あまりにありきたりだった。
(……久しぶりに話すせいで、言いたいこともまともに言えない。るーさんもそうなの……かな?)
「……っ」
お互いが空気を読み合いすぎているのか、なんとなく気まずい空気が流れる。私も、るーさんも、喉を少し鳴らすのが精一杯だ。
「あ、あのさ!」
「……? どうしたの……?」
流石にこの沈黙に耐えられなかったのか、るーさんが話を切り出した。
(正直、私も耐えられそうになかった……けど)
「きょ、今日は! 明日のお仕事に備えて、ちょっとしか話せないんだけど! 明日の夜はゆっくりできるから……その……明日いっぱい話さない……?」
「っ……! もちろん……!」
所々しどろもどろになりつつ、最後は少し照れながら誘ってくれたるーさんに、私は精一杯答えた。
「じゃ、じゃあ、明日の夜に電話するね!」
「うんっ……待ってるね……!」
「おーい、遥〜」
るーさんと明日の夜に電話をすることを約束した、ちょうどその時、廊下の向こうからおにぃの声が聞こえてきた。きっと、彩さんとの話し合いが終わって、私を迎えに来たんだろう。
「今の声、幸人?」
「うん……呼ばれてるから……行ってくるね」
「そっか……」
久しぶりの会話が終わることに、私とるーさんは名残惜しさを感じている。この電話を切りたくないのは、私もるーさんも一緒なんだろう。
「でも、明日も話すもんね!」
「そうだねっ……!」
少し寂しいけど、受話器の向こうから聴こえてくる、るーさんの声に励まされた私は、明日のことを考えて元気を出した。
「じゃあね! また明日!」
「……ばいばーい」
最後に、話していた中で1番元気な声でるーさんが別れの挨拶をすると、ツーツーと、携帯電話から通話が終わったことを知らせる音が聞こえてきた。
「あ、いたいた〜。……ん? 電話してたのか?」
携帯電話を耳に当てている私の姿を見たおにぃが、そう聞いてきた。
「うん……! ……してた」
「なんか、嬉しそうだな」
「えへへ……そう……かな?」
どうやら、自然と私は笑みをこぼしていたらしい。
(それくらい……るーさんと話せたことが嬉しい……)
「あぁ……好きだなぁ……」
「好き?」
「はわわ……! な……なんでもない……!」
思わず口にしていた好きという言葉。そんな言葉がポロっと出てくるのも仕方ない。
(だってるーさんは、私の……大切で大好きな友達だから)
「遥が嬉しそうで、俺も嬉しいよ」
そんな私を見て、おにぃは微笑んでいる。何があったかをおにぃが聞かないのは、私が本当に嬉しそうだからなんだろう。おにぃは、私に今の喜びを噛み締めて欲しいんだと思う。
「そういえば、今から神社に行くことになったから、行こっか」
「うん……!」
何か用事でもできたのか、おにぃは神社に行くことを私に伝えた。それを聞いてベンチから立ちあがろうとする私に、おにぃは手を差し伸べてくる。
「……ありがと」
こうやって、小さな仕草でもおにぃは手を貸してくれる。そんなおにぃの優しさに、私はいつも甘えてしまう。
ーーーーーー
「っ〜!!!」
(よくやった! よくやった! 私!!)
遥ちゃんとの電話が終わった後、私は人目を気にせずに大きなガッツポーズをした。
本当は、家に帰ってから遥ちゃんに電話しようと思っていたけど、帰り道に遥ちゃんへの想いが昂った私は、我慢できずに道端で電話をかけていた。
「はっ……はっ……」
今になって、大きな緊張が遅れてやってきた。息を荒くして胸を押さえる私を、周りの人が心配そうな目で見てくる。だけど、そんな周りの人の心配をよそに、私の胸の中は今、幸せでいっぱいだ。
「ふぅ……。あれ……? 雨止んでるやん」
その場で深呼吸をして落ち着くと、さっきまで聞こえていた雨音が聞こえなくなっていることに、私は気づいた。
(雨降ってないのにずっと傘差してたんか、なんか恥ずかしい……)
まあ、雨が止んだことにも気づかないほど、遥ちゃんとの電話に集中していて、周りが見えていなかったんだろう。
(明日も話せるし、幸せやなぁ……)
「あぁ……ほんまに好きやわぁ……」
思わず笑みをこぼしてしまう。遥ちゃんへの想いが溢れているんだろう。
「ふふっ、早く帰って明日からの用意しよ」
そこら中に浅い水溜りが出来たコンクリートの帰り道を、私はスカートを履いていることも忘れて、スキップをしながら進んでいった。




