第二節 賢者たちとの会話 後編
「……」
今の俺には、そんな老人のできた応対を気に掛けている余裕はなかった。目の前にいるのが、予想以上に大したことある人物だった。そのことに対する驚きがあるのは勿論だが、それが原因となったのでもない。
――十年前の、とある戦い――。
今し方目の前の女性が放ったその一言に、俺の思考の全ては向けられていた。先ほどまでのどこか安心させられる様な心持が、今では凍て付く氷河に置き去りにされた放浪者の如く凍て付いている。
「……秋光……さんは」
そこまできても働きを止めていなかった常識が、辛うじて、さん、と言う語句を付け加える。突然話し出した俺に、フィアやリゲル、ジェイン、先輩の視線が集まるのが分かる。目の前に立つ、二人の人間の視線も。
「……」
……落ち着け。
心の中で自分自身に言い聞かせる。……たった二つの単語で何が決まったわけでもない。まだ、決めつけるには早過ぎる――。
「蔭水冥希という人を……知っていますか?」
「――」
訪れる沈黙は答えを待つ時間。――勘違いかもしれない。そうであって欲しい。行動と矛盾したそんな感情が、刹那に俺の中を駆け巡る。
「……」
だが俺の口にしたその一言は、明らかに場の空気に変化を齎していた。いや、場と言うよりは、相手方に、と言った方が良かったかもしれない。
その名を耳にした先輩はどこか疑問の入り混じる表情に変わり、葵という女性は僅かに目を細める。そして俺が言葉を投げ掛け、見つめ続ける相手自身は――。
「……」
――その年月が刻まれた顔の内に。どこか、重く悟ったような表情を浮かべたように見えた。
「……ああ。知っている」
「――」
――初めの一言だけで充分だった。
音が鼓膜を打つと共に身体を駆け巡る激情、その感情のままに硬い床を蹴り飛ばす。全霊の踏込みを受けて一挙に縮まりを見せたのは元々大してなかった老人との距離。その首元に向けて伸ばした手。全てが引き延ばされたような感覚に、時が止まったように感じる。――何も届いていない。周囲の反応も、誰かが制止する叫びも、今の俺には――‼
「……ッ」
――そして世界に再び時の流れが戻ったとき。俺と老人とを収めている構図は、それ以前とは明らかな変貌を遂げてしまっていた。
老人の胸座を掴んでいる掌は、紛れもない俺自身の物。怒りと憎しみが綯い交ぜになっているだろう視線は、静かにこちらを見返す老人の目を睨み付けたまま、外れることがない。
――そしてそんな俺に向けて同時に、横から何かの先端が付き付けられている。
位置は喉元。肌に伝わる冷たい質感からして、恐らくは金属製である何か。目に映らない、目端ですら捉えられなかったほどの高速の所作。その気になれば持ち主は老人の衣服が掴まれるより遥かに速い段階で、俺を床へと打ち伏せることが可能だったのかもしれない。自らの命運がその人物の掌の上であることを悟り、内心渦巻く激情と裏腹に動きを止めざるを得ない――。
「よ、黄泉示さん⁉」
「止せ、蔭水‼」
フィアの驚愕。ジェインの焦りに満ちた制止の声が、そこにきて漸く耳に飛び込んでくるようになる。それでも動かない。動けずに――。
「――動かないで下さい」
突き付けられる扇の先端から喉元をずらそうとした俺に対し届く、冷ややかな声。
「一歩でも位置を変えれば意識を奪います。……そちらの貴方も」
視線がフィアたちとは別の方角を向く。……リゲルか?
「手を上げるなら容赦はしません。大人しくしていて下さい」
「止せ、葵」
女性の勧告を制止する老人。胸座を掴まれたままだというのに、焦燥や狼狽といった情動はその表情には一欠片も見受けられない。
――本来なら感心すべきかもしれない態度。それが今は、どうしようもなく腹立たしかった。
「……あなたは」
そうして沸き上がった怒りの力を借りて、漸く唇から言葉を絞り出す。
「あなたは、父の仲間だったんだろ……?」
「――ああ。そうだ」
目の前の老人はあくまで冷静に俺の言葉に答える。それが尚更、俺の怒りを加速させる。
「なら、どうして見捨てた?」
「見捨てたわけではない」
――見捨てたわけではない?
あれ以来一度も訪れなかったくせに、何もしなかった連中が、何を――!
「ふざけ――‼」
「彼の下を訪ねなかったのは、彼自身がそれを望んだからだ」
「――っ⁉」
その一声で、留め金が外れたように跳び出していた言葉たちが止められる。……父が、望んでいた――?
「あの戦いの後。私たちに向けて、彼は暫くの間一人にして欲しいと言ってきた。これからのことについて、考える時間が欲しいからと……」
変わらず俺の目を見つめたまま、老人は淡々と言葉を紡ぎ出す。
「私たちはそれを聞き、彼は立ち直ろうとしているのだと思った。彼は再起の道を探している。紛れもない強い意志の力によるものだが、それには時間が必要となるだろうと。……彼と雖も、長い時間が」
言葉の終わり際に僅かに情感を滲ませて、老人は俺に向けて語り続ける。
「そして我々は時を置くことにした。いつか彼が再び、私たちの前に姿を見せる日を信じて」
「――」
言葉に詰まる。……目の前の老人が語る中身。……彼らは、父を見捨てたわけではなかったのか?
老人の胸元を掴んでいた両手が、気づけばどこか緩んでいる。……なら、父は――。
「……ッ」
心の奥で燃え盛る、炎。脳裏に浮かぶのは、あの日の光景。
――そうだ。離れ掛けていた腕に力が籠る。それでも、父は――。
「……それでも」
激情に突き動かされるのとは違う。心の奥底で燻る火に押されるようにして、俺の口から言葉が出る。
「それでも父は、死んだ」
目の前の相手に、飛び切りの情念が伝わるように。
「あのとき誰かが手を差し伸べてくれれば……死ななかったかもしれないのに」
「……」
俺の言葉を聞き、老人は目を閉じる。黙祷を捧げるように。向けられた情念に身を浸すように。
「――私たちは、彼を信じた」
その目が開かれたとき。……老人の声に感じる響きは、それまでとはどこか違っているように思えた。
「だがあとになってその先に起こることを考えたならば……あのとき無理にでも、押し掛けているべきだっただろうな」
「なら――!」
「彼を信じたことを、過ちだったとは思わない」
その言葉が俺の言葉を詰まらせる。一瞬老人の目と言葉に、先ほどの勢いが戻った気がした。
「だが、私たちは……」
そのあとに続く、悲痛な面持ちと声。嫌でも理解してしまう。目の前に立つ、この老人は――。
「……彼を、信じ過ぎたのかもしれん」
あのことを、悔やんでいる。
父の死を心から悼み、苦しみとしているのだと。そのことを理解してしまっていた時点で。
「……」
俺の手は最早、老人の胸座を掴むだけの力を無くしていた。……滑り落ちた手が宙に揺れる。放されて自由になってなお、老人の双眸は俺の瞳を逸れることがない。
「――彼の遺志は、私たちが引き継ぐ」
その一言を言って、老人の眼が俺の後方に、フィアたちの方に向いた。
「君たちの件に関してもそうだ。……必ず。彼が守りたいと願ったものを、守ってみせる」
静かな言葉の中に秘められた、強い決意。それを前にして、俺は完全に言うべき言葉を見失う。……最早。
「……」
「……黄泉示さん」
いつの間にか女性の持つ扇の先端が喉元から離されていたと知ったのは、後ろから声掛けと共にフィアに手を引かれた、そのときだった。
「……すみません。最後に一つ、いいですか」
俺たちの遣り取りがひとまず終わりを見たと判断したのか。居住まいを正す老人の返事を待つことなく、ジェインが尋ねる。
「先ほど、僕たちを殺そうとしているのが誰なのか分かっていると仰っていましたが……それはどんな相手なのか、教えてもらっても構いませんか?」
「……」
「それは――」
「……そうだな。命を狙われているとなれば、相手の素性を知りたくなるのも当然のことだろう」
答えようとした女性を手で制し、老人が言葉を紡ぐ。
「残念だが、私たちには余り時間の余裕がない。詳しい事は彼女から聞くと良い」
そう言うと、老人は話は終わりだというように俺たちに完全に背を向ける。……無言のまま、そのあとに続くようにして反転した女性と共に、俺たちの下を去って行った。
「――どう見た?」
通路を歩く秋光が、横に立つ女性に尋ねる。先ほど別れ、千景が個室の方へ誘導したのを見計らってからのことだ。
「悪意は誰からも見られませんでした。リゲル・G・ガウス、フィア・カタストの言動は内心と一致していますし、蔭水黄泉示の怒りも本心からのものです」
「……そうか」
それを聞いて秋光は安堵すると共に悲しみのような、不可解な感情を覚える。……まさかこの歳になって自らの過去、その断片と向き合うことになるとは。
時の流れにおける未来というものは、往々にして予測不能である。そのことを、秋光はまたここでも重々に思い知らされた。
「ただ、気になる点が」
「彼か?」
とはいえ、それは個人の感傷としての話だ。同時に四賢者として彼らを眺めていた秋光の問いに、葵は頷きを返す。
「あの四名のうち、ジェイン・レトビックだけは読むことができませんでした」
「――」
葵の言葉に秋光は眉を顰める。眼鏡をかけた理知的な青年――ジェイン・レトビック。
魔術を扱う者としても凡そ普通でない事件に巻き込まれ、得体の知れぬ組織から保護を申し出られることになったにも拘わらず、終始落付いているように見えた。言葉の中身を冷静に分析し、観察からなるべく多くの情報を引き出す――学生とは思えない彼の態度に、秋光も少なからず感心したものだ。
「【加護】の類か?」
「はい。恐らくは」
秋光の予想に、葵は首肯を以て返す。
「壁に阻まれたような感触でした。当人としても無自覚のものかと」
「……なるほどな」
微かに息を吐く。永仙と凶王派に命を狙われているというだけあって、一筋縄ではいかないか。
そんな秋光の様子をどう思ったのか。
「事実なのでしょうか?」
前を向いて淡々と歩を進めている葵が、一泊の間を置いてから話し掛ける。
「ん?」
「あの四人のうち、フィア・カタストを除いた三名が……」
その言葉に、秋光は心中を察したというように大様に頷く。
「事実だ。千景の報告と下の調べを合わせての情報だからな。俄かには信じ難い話だが、さもあれば、というところだろう」
「それと、彼女自身についても」
「ああ」
短く秋光は答える。千景からの報告があった際、秋光は協会員に命じて凶王派に狙われているという四人の情報を可能な限り集めさせた。経歴、家族構成、学園内での成績、最近の動向など。協会の調査力を以てすればそれらを集めることは然程難しいものではなかったのだが――。
「彼女だけは、蔭水黄泉示の家に引き取られるまでの足跡が一切追えなかった。千景によると記憶喪失ということらしいが、それらしい事件の情報も入って来ていない」
「……そのことが、何を意味するのでしょうか」
「さてな。まあ何はともあれ、詳しい調べは明日からだろう。今日は彼らの保護者への連絡と、組織に対する弁明が残っているからな」
――支部長である千景から報告を受けたのが、先日の事。
学園の新入生の中に、技能者が三名。しかも彼らは凶王派の反秩序者に命を狙われながら、信じ難いことにそれを撃退してみせたという。
全くの無名。協会としてもノーマークだった技能者が凶王派の反秩序者を退けた。それだけでも充分に驚きに値する出来事だが、直接的に秋光の注意を引いた点はそれとは異なる。
――凶王派に、それも命を狙われていたという、その一点。
小物染みた犯罪者などとは違い、凶王派に属するのは反秩序者の中でもそれなりの矜持とプライドとを持った実力者たち。相手が敵対組織の関係者であるならいざ知らず、無名の技能者など特別な事情がない限り殺害しようなどとは考えないはず。
今回の様にそれなりの力を持った者たちであれば尚更の事。三大組織が無所属の技能者を傘下に組み入れようとしていることを考えれば、彼らにとって排斥より実力ある技能者を仲間に引き入れることが益となる。如何なる勢力も他人を抜きにしては成り立たない。
事実正面切っての衝突が影を潜めてからは、より有望な人材を確保するという点での争いが行われているのも確かだ。……どちらにせよ、初めから殺害を意図するとは通常考え辛い。
それらの益を差し置いて凶王派が彼らを殺そうとしたというならば、そこには必ず何か理由がある。――そしてその事由は恐らく、凶王派と手を結んだ永仙にまで繋がっているはずだ。
「……」
向かいながら秋光は考える。……永仙が自分たちを裏切ったわけ。凶王と同盟を結んでまで自分たちと敵対する意味。その目指すところに繋がる手掛かりを、漸く得られるかもしれない。
必ず凶王派が彼らを狙うわけを見付けてみせる。それがこの現状を打開するための、大きな一歩となってくれるはずだ。
そう言って歩き出した秋光に……そのあとを着いて行くべき葵は、なぜか動かない。
「……どうした?」
「……」
そう問われた葵は、それでもまだ何かを躊躇っているような素振りを見せたが……。
「――秋光様」
何かを決意したのか、その双眸を秋光へと向ける。
「先ほどの蔭水黄泉示への言動。あれは、行き過ぎだったのではないでしょうか?」
「――」
「《救世の英雄》の関係者とはいえ。彼に秋光様があれだけの行為を取る理由は、どこにもないかと」
「……それは」
己の内で処理しきれない思いを投げかけてきた葵に、秋光は問う。
「賢者筆頭である、私の補佐官としての言葉か?」
「――はい」
「……」
――確かに。
現状で協会を束ねる身であるということを自覚するならば。あのような発言は適切ではなかったかもしれない。秋光自身がどう思っていたとしても、口にしてはならない台詞と言うものはある。ただ……。
「……私は、かつて友の家で、まだ幼かった頃の彼に会ったことがある」
先の発言についていうならば、それは違う。まだ若く、誇りを抱いているだろうこの相手に、どう言って聞かせたものか。
「よく笑う子だった。幼いながら気力に満ち溢れ、父や母の背中に追い付くための努力も欠かさなかった。彼があそこまでの怒りを抱いていることに、敢えて理由を求めるのなら……」
それを考えつつ秋光は話す。自らの行いと、それの齎した一つの結果について。
「その答えは、一つしかあるまい」
「……」
此度の沈黙は葵。……一端だけでも分かってくれただろうかと、そう思いつつ。
「――私は」
見やる秋光の前で、葵が言葉を発する。先ほどまでとは少し異なった語調で。
「先ほどの話を聞く限りでは、秋光様は、決して間違ってはいなかったのだと思います」
「――」
告げられた、意外なその言葉に戸惑う。彼女を補佐官に任命して以来、このような反応を向けられるのは秋光としても初めての経験だったからだ。こちらを見つめる瞳に込められた、単に理知的とも言えぬ光……。
「――ああ。ありがとう」
「……いえ」
だが彼がそれまでに歩んできた浅からぬ人生経験の数々は、例え初見にして戸惑うような反応を見せられたとしても、致命的となるだけの間が置かれる前にそれに相応しい返しを行えるだけの対応力を彼に齎していた。執り成した秋光に対し。
「……お手間を取らせました。申し訳ありません」
「謝る必要はない。――行こう」
「――はい」
恐縮したように言い。いつもの調子へと戻った葵を先導して、秋光は通路を進んでいく。……そんなことができるようになってしまった自分を。
――心の内でどこか、寂しげに見つめ返しながら。




