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第十六節 順調な風 前編

 

「……」

「えー、つまり、これまで述べたような当時の時代状況を併せて考えてみると――」


 慣れた椅子の感触。重複する箇所は聞き流しながら、スライドに映しだされた文字をプリントの空白に書き加えていく。授業に出なければ完全な形にはならない仕組み。


 共同生活を始めてから今日で十日目。新しい生活の様式にも、徐々に大分慣れてきた。互いの協力が上手くいっていることもあるのだろうが……。


「……」


 ――あの一件を経たあとも、ときたまどうしても思ってしまうこと。


 こうして学園に出て、授業に参加していても。……いきなりあの扉が開きはしないか。老人が入って来るのではないかと、そんなことを考えてしまう。考えても仕方がないのだと言うことは、分かりつつも……。


〝それぞれのカリキュラムから、各人がどの時間どこにいるのかは把握できる〟


 ジェインと話したことを思い出す。……もし仮にあの老人が現われるようなことがあれば、携帯で直ぐ他のメンバーに連絡を入れる。頭の中に浮かぶのは落ち合う場所まで事前に話し合って決定してある逃走経路。やれることは全てやっている。


「……」


 ――そのはずだ。壇上から視線を移した先。隣でフィアのペン先が止まっている様子を目にする。……珍しいことだ。フィアもやはり何か、思うところがあるのだろうか。


 とはいえ――。


「――以上だ。では、次のテーマに移ろうか。プリントの七ページ目を――」


 こう物思いに耽っていては学園に出てきている甲斐がない。不毛な想像をどうにか振り払い、壇上にいる講師の話に意識を集中させた。




「……ふぅ」


 ――昼休みの屋上。食べ終えたサンドイッチの包装を丸めて、ごみ箱代わりの紙袋の中へ投げ入れる。くしゃりと立てられる小気味いい音。


「どした? 溜め息なんか吐いちまってよ」

「いや……」


 リゲルの問い。直ぐには答えられずに。空を見る。冷涼な空気の中、どこまでも晴れ渡っている空と雲――。


「……いつ、終わるんだろうなと思って」


 零すように呟いた台詞。思っていたのと同じくらい迅速に、その言葉が場の空気を変えていくのが分かった。


「……」

「今の生活が、か?」

「……この状況が、かな」


 フィアの沈黙。ジェインの問い掛けに答える。ジェインたちと共同で営んでいる、今の生活に不満はない。


 初めてのバイトは良い経験だし、子どもたちと遊ぶのも嫌いではない。フィアと二人で暮らしていたときよりも忙しく、疲れるものではあるが。互いに協力し成長していく楽しさと充実感がある。それは素直にあり難いことだとすら思う。


 それでも無視しては通れない事柄。この生活を始めることになった切っ掛けを考えると、思ってしまうことがあるのだ。……いつ、俺たちはあの老人の不安から解放されるのか。


 そもそもこの状況に、終わりがあるのかどうか。対策が功を奏しているのか、これまであの老人が俺たちの前に現われることはなかった。現われない限り不安は続く。この生活も、容易に止めることはできない。今は不満を感じていなくとも。


 時が経てば変わるかもしれない。……長く続けば、それだけ変わることもある。いっそのこと忘れてしまえれば楽なのかもしれないが……。


「……そうですね」


 それができるまでにどれくらいの時間が掛かるのか、今のところでは見当もつかないのが実情だ。静寂を思い切って切るようにフィアが言う。


「もしこのままあの人に遭わなければ……いつかは、止めても良いと思いますけど……」

「この状態もどの道、続けられなくなる時が来る」


 変わらない。フィアの言葉を受けたジェインの口調は、どこまでも普段の冷静さを保っていて。


「早い話、学園を卒業してしまえば今のようにはいかなくなるだろうな。お互いやることも増えるし、それぞれの生活が濃さを増してくるはずだ」

「――へっ、先の事なんて分からねえよ」


 尤もだと言えるジェインの話を、リゲルが不敵に混ぜ返す。


「だから後悔の無いように、今を精一杯やってくんだろ。まあ、目標は持っとくとしてな」


 少し気を抜くように笑って、そこで息を吸った。


「――あの野郎なんかに俺たちは殺されねえ」

「――ッ」


 キッパリと言う。その台詞の強さに、驚かされる。


「全員で戦って、今を守り抜くだけだ。――そうだろよ」

「……」

「――当たり前だ」


 応じるジェイン。――確かに、先の事は分からない。


 あの老人が再び俺たちの前に現われるのかどうかも。……だから、今はこの生活を続けて行くしかない。状況が変わるときまで……。


「――そうだな」


 二人に続くように、努めて明るめに。


「今日の模擬戦じゃ、勝ち越させてもらうとするかな」

「――ほう」


 宣言を受けた――リゲルが俺の目を見て、ニヤリと笑う。ブルーの瞳で。


「言うじゃねえか。簡単には行かねえぜ?」

「怪我には注意して下さいね? 二人とも……」




「――シッ!」


 学園から戻ってのトレーニング。いつもの通りに一時間のストレッチを終え、臨んだ模擬戦闘。


「……っ!」

「まだちょいと怯んでるとこがあるな」


 先に取った一本を――取り返すように取ったのはリゲル。俺の側頭部に拳を突き付けたままで言って、ふいーと汗を払う所作で腕を戻す。


「俺みてえに殴られ慣れてりゃ早えんだけど、そうもいかねえからな。――なに、もう目は開けてられるようになってんだし、今の調子ならんな時間も掛かんねえさ」

「……そうだな」


 励ましに頷く。……実際の戦闘に慣れていないせいか、顔面を狙われるとつい恐怖から首を引いてしまう。意識してはいるのだが、中々に克服し辛い……。


「そういえば……」


 自分とリゲルの動きを思い返し。ここのところ、気になっていたことを尋ねてみる。


「見ないでも俺の攻撃を避けるときがあるよな。リゲルは」

「ん? ああ、まあな」

「どうやったら分かるんだ?」

「あー……」


 俺の問いにリゲルは考えるようにあらぬ方角を向く。――視界の外。たまにまぐれで完全に死角を突いたと思った攻撃であっても、リゲルはまるでそこが見えているかのように対応してくるのだ。……そのコツが分かれば。


「説明し辛えんだけどな。音とか、こう、肌に来る空気の感じとかで、何となく分かんねえか?」

「……いや、さっぱりだ」

「――そいつに訊いても無駄だぞ。蔭水」


 お手上げとばかりに上げた両手に、ランニング中のジェインから声が飛んでくる。


「ゴリラはただ感覚的に体得しているだけだ。自覚に基づいた論理的な理解がない以上、訊かれても他人に説明することはできない」

「御解説どうも。で、そろそろ十キロくらいは走れるようになったのかよ、モヤシくん」

「――ああ。四捨五入すればな」


 論理的な理解を経ずに身に付けているというのは凄いことだと思うが、俺自身の上達には繋がらない。学ぶことは諦めて、気持ちを切り替えるように見た――。


「――あっ!」


 先で。フィアが丁度縄跳びを足に引っ掛ける。途切れていなかった靴音のリズムが急遽破綻し、響くのはずれた足踏みの音。縄を戻しつつ体勢を立て直したフィアに。


「何回目だったんだ?」

「今ので丁度、百回目だったんですけど……」


 少し悔しそうな顔をして足元を見ると、落ち着かせるように息を吐いてまた跳び始める。……着実に回数は増えて行っている。最初の頃、十回程度で躓いていたことを考えればかなりの進歩だ。縄を回すペースも早くなっているし……。


「――フィアも大分跳べるようになってきたじゃねえか」

「……俺たちも頑張らないとな」


 軽く笑みを交わして構えを取る。馴染みになった相対。牽制し合いつつ、隙を窺い――。


「……」


 突如、一気に流れの緩やかになる視界。これまでの訓練で、不意にジェインの能力を掛けられても戸惑うようなことはなくなった。働いている加速を利用して、前へ――!


「――っ!」


 頭上から重りが圧し掛かるかのような感覚に横へ跳ぶ。リゲルの重力増加。ジェインの加速が掛かった勝負では能力を使って良いことになっている。指定されていると思しき範囲を避け、的を絞らせないように位置を変えつつ接近。構えを取り――。


 解除の瞬間に全てのモノの流れが元に戻る。不意に相手の動きが速くなったかのような感覚に妙な感覚を覚えつつも、一刀を放った。


「――ッ」

「……一本だな」


 ギリギリ。拳より僅かに早く止められた終月を下ろして止めていた息を吐く。今のはジェインの援護があったので、俺の実力ではない。基本的には加速を受けた側が有利なのだ。


「ちっ……やっぱ加速が掛かるとやり辛えな」

「対処できるのは凄いと思うけどな。俺なんて、リゲルに加速が掛かったときは殆んど何もできてない」

「まあ、目で追うのはキツイときもあるからな。感覚でビビッと――」

「――そろそろ、全員での動きの練習をしておいた方が良いかもしれないな」


 ジェインから飛ばされた声に、互いの遣り取りを中断して意識を向ける俺たち。フィアも縄跳びを中断する。


「全員で……ですか?」

「ああ。もし実際このメンバーで戦いになった場合に、どう動くか。事前に決めておいた方が行動も判断も早くなる」

「確かにな。取り敢えず、俺と黄泉示が前ってことは決まりだろ」


 リゲルに言われた台詞に心臓がドクリと跳ねる。……大丈夫だ。


「そうだな。僕とカタストさんは基本的には後衛。狙われないよう、孤立しないように立ち回ることになる」

「は、はい」


 ――以前のようなことにはならない。今の俺ならば、きっと。


「隙を見て僕は例の力で援護をしていく。リゲルの力の使い所としては――」



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