第十四節 拭えぬ恐れ
「――っ」
ガクリと。衝撃に振れていた頭を起こして、眠たい眼を擦る。……今はこの講義の核心部分だ。正直に言えば、このまま突っ伏して寝てしまいたいくらいだが……。
「……フィア」
「っ、……はい」
容易く疎かにするわけにはいかない。同じく隣でうつらうつらしていたフィアに声を掛ける。内心で今一度気合いを入れて、迫る眠気に負けないよう、食い入るように板書を見た――。
「――っ」
唸りと共に頭の真横で止められた左拳。――決着。緊張から解かれた解放感から、リングの上で終月を手に大きく息を吐く。……結果としては敗北だが。
「今のは良かったぜ。大分、慣れてきてる感じだな」
リゲルから掛けられた声に落としていた顔を上げる。これで既に何十回目かになる模擬戦闘。
「だといいんだけどな」
「何言ってんだよ。元から身体能力は俺と同じくらいあんだから、コツさえつかんじまえば直ぐだぜ」
多少は進歩がなければ始まらない。励ますように言って、ほら、もういっちょ! と促してくるリゲル。インターバルの一分が過ぎていることを確認して、既に重たくなってきている腰を上げた。……意識を入れ直し。
「ふー……」
「……」
互いに構えた姿勢のまま対峙する。……ある程度お互いの動きに慣れてきてからは、そう簡単に間合いに踏み込まれることはなくなっている。俺としてもいきなり攻め込むのは難しいが。
「――」
リゲルがそれらしい動きを見せる度に牽制。立ち止まっているのではなく、小まめに位置を変え、ときにはこちらから圧力をかけることで簡単には距離を縮めさせないようにする。リゲルから教わり学んだお蔭で、俺も戦闘の基礎的な駆け引きは行えるようになってはきた。
「……っ」
それでもまだ、勝率は圧倒的にリゲルの方が上だ。土壇場での機転、勝負勘のようなものがずば抜けている。経験からして圧倒的に場慣れしていると言うこともあるのだろうが――。
「――ッ」
――動いた。動きを追って剣先が一瞬右に傾いだ瞬間、急速な踏込みで左へと舵を切るリゲル。懐に入り込んでこちらの間合いの優位を潰す構え――。
「――」
だがその動きを読んでいた俺もほぼ同時に引き下がっている。刀の内側に入られてしまえば技術で劣る俺に打つ手はない。一刀を振るえるだけの距離を稼いだまま、詰め切られないうちに【無影】の構えを取る。リゲルの姿は俺の刃圏の内。捉えた――!
「ッ⁉」
思って放とうとした瞬間、バックステップで間合いを外されたことに虚を突かれる。――フェイント? 振り抜くわけにはいかない。キャンセルしようとした全身に力がこもり、否応なくい付いた身体。
「――」
刹那に爆速で右方からリゲルが踏み込んでくる。俺の一撃が届く前に拳を当てようとする乾坤一擲。突風の如く吹き付けるような気迫に押されるようにして、反射に近しい所作で俺も一刀を振るい出した!
「ッ――!」
「――ッと!」
互いにブレーキを掛けるようにして腕を止め合う。……当たる寸前。
「……引き分けだな」
「……」
鼻先とこめかみ直前とで静止しているそれぞれの一撃。リゲルが拳を引いたのに応じて、俺も終月の刀身を引き戻す。……判定に異論はない。
――ただ、今一瞬。
「いやー、行けると思ったんだがな」
「……」
幻視した光景。突き付けられた裂帛の気迫に引き摺られるようにして思い起こされた感覚が、全身に漲っているはずの熱さを急激に冷やしていく。足が震える。呼吸が――。
「流石の一撃だったぜ。次からはもうちょい――」
「……悪い」
上手くできない。感想戦がしたそうなリゲルの声を遮って、苦しい言葉の代わりに手を前に出した。
「……ちょっと疲れてるみたいだ。今日は、ここまでにしとく」
「おう? そうか――」
不思議そうなリゲルの反応を無視してリングを下りる。――蔭水? と掛けられる声にも応えず、更衣室から着替えだけを取って部屋を出た。……早く。
「――っ」
自室へ。誰にも会うことのない場所へと、それだけを考えて到達した扉。祈るような思いで差し込んだキーを回し、手応えを殴り飛ばすように撥ね開けて中に入る。強引に閉じて後ろ手に掛けた鍵。投げ出した衣服には目もくれず、求めた椅子に崩れるようにして座り込んだ。
「……ッ!」
――恐ろしい。
リゲルと紙一重で一撃を交錯させたあの瞬間。……あの日、男の攻撃を受けた瞬間が蘇ってきた。殺意の込められた瞳と、冷たく肉を割く刃の感触……!
「――ハッ、ハッ――」
――恐くないのか?
リゲルもジェインも。どうしてあんな平然とした顔をしてられる? ……また襲われるかもしれないという状況を考えれば、今のこの選択が仕方のないことであることは分かっている。だが、それでも。
「っ……!」
震えを止めることができない。……取り返しのつくことではない。次またあの男に襲われたとき、誰かがなにか一つでも間違えれば。
俺が死ぬ。……リゲルが死ぬ、ジェインが死ぬ。――フィアが死ぬ。
間違えればお終いなんだ。俺がこれまでの模擬戦でやったようなことを、一つでもやらかしてしまえば。
それで――。
「……ウっ」
脳と内臓に圧し掛かる、捻じれるような強烈な重圧。込み上げてくる嘔吐感に駆け込んだ洗面所で、自分の物とは思えない音を出しながら胃液を吐く。……恐ろしい。恐ろしくて仕方がない。
俺たちは一体いつ襲われる? 失敗の出来ない局面は、いつ――?
「――ッ」
こんこんと。慎ましやかに叩くノックの音が意識を削ぐ。振り返る余力もない中で、――黄泉示さん、と呼ぶ優しい声を、水の流れ出る洗面台に俯きながら耳にする。
「……済みません。その、少し気になってしまって……」
聞き慣れているはずのその柔らかな声。気遣いと思い遣りの込められているその声でさえ、今は耳にしたいとは思わない。
「……」
なにも聞きたくはない。なにも見たくはない。なにとも触れ合いたくなどなかった。このままずっと一人きりで、部屋に閉じ籠っていてしまえれば……。
「……ああ」
そんな叶えようのない望みを見えない心の淵に沈める。無意味に流れ出す水を止め、顔を拭き、フィアの待っている扉へと歩く。
「……」
「……大丈夫、ですか?」
開けた扉の先。対面した俺の顔を見て、心配そうに尋ねてくるフィア。……それはそんなにも、今の俺がそのように見えるということなのか。
「いや……」
何を言ったものか。
気を塞ぐ余りの鬱屈に、それさえも決め兼ねている自分自身。……湧いてくる自己嫌悪の情を表に出さないよう、どうにか無理矢理に平常の顔を作り出す。
「……大丈夫だ。少し、気分が――」
――フィアに見せるわけにはいかない。
「――っ」
そんな死に体のような俺の思惑を。不意のその感触が押し退けた。
「……」
――抱き締められている。
掻き抱くようにして。……そのことを理解するのに少し時間が掛かる。俺の頭をそっと包み込んでいるのは、細く暖かな両腕と手。顔全体を覆っている柔らかさが視界を真っ白に染めている。……酷く、安心するような感覚と香り。
これは……。
「……黄泉示さん」
常識的な思考を動機に逃れ出ようとしたそこで呼ばれる名前。静かなその声の響き方に、ただでさえ弱々しくあった、俺の動きが止まる。……埋もれるように。
「――逃げちゃいませんか?」
五感をくるむ感触を通じて耳へと伝わって来たのは、敢えて元気を、茶目っ気を纏っているようなその一言。
「どこでも良いので遠くへ。海を越えるところまで行けば、流石にあの人も追って来れないと思います」
「……」
……ここにいる限り、あの老人の恐怖に脅かされる。
ならばいっそのこと、及びも付かないような遠くへ行ってしまえば。……確かに逃れられるかもしれない。この不安と、恐怖から。
何も難しいことではない。小父さんにこのことを話せばきっと直ぐにでも飛んできてくれる。持ってきた私物の殆んどはそのまま捨て置いて行けばいいし、嘘を吐いたなら予定など幾らでも誤魔化せる。なるべく近くで小父さんと落ち合って、そうしてフィアと一緒に日本へ――。
「……フィア」
「……はい」
「……悪い」
俺の頭を包んでいたフィアの手を静かに解く。離した顔を上げ、正面からその眼を見た。
「――済まなかった」
――できるかよ。
「もう大丈夫だ。少し、気分が沈んでただけだから」
「……黄泉示さん」
そんなこと。リゲルとジェインが残される以上。――大丈夫などではない。
発した声が強がりであることは自分でも分かっている。見えないように下ろした掌。握り締めた拳は、込めた力によるのでない事由で震えている。……それでも。
「――ありがとう、フィア」
そう言わなければならない。……気が付いていたからだ。
「……はい」
俺の言葉を受け止めて、小さく微笑むフィアが。俺を包んでいる両腕が、微かに震えていたことに。そのまま――。
「……」
「……」
なんとなく。何をするでもなく、見つめ合ってしまっていたのが気恥ずかしくてお互いに目を逸らす。……何とも言えない空気。少し、気まずいな。
何というか、結果的には弱っていたところをフィアに見せてしまったわけで。……大体さっきまで顔を埋めていたのは、その……。
「……」
自然とそっちに行ってしまいそうな視線を辛うじて押さえ付ける。……駄目だ。とにかくまず、この空気を何とかしなければ。
「……フィア、その――」
「――す」
話し出した直後。未だ目を合わせないままのフィアの紡ぎ出した言葉に、流れを切られる。
「済みません。急に、こんなことをしてしまって――……」
やや早口で。斜め下方向を向いたフィアの語調はいつものような適度な音程と声量を保ったものではなく、意識が散らばっているように落ち着きを失った振れ幅のあるもの。
「変でしたよね。――その、忘れて下さい。私も、忘れますから」
「フィ――」
呼び止めようとした声は掛からず。言うだけ言って背中を向けたフィアは、開け放しのドアから外へと走り去っていく。一歩遅れてドアを跨いだ俺の視線の先で廊下を曲がり、角の向こうへと姿を消して。
「……」
敷き詰められた絨毯のせいか、もう足音さえ聞こえては来なくなる。……とにかく追い掛けようかとの考えも、一瞬頭の中に浮かんだが。
気恥ずかしさとどうしたら良いか分からない煩悶の混ざったようなあの表情。顔を合わせたくなくて逃げたのなら、追ったところで逆効果になるだけだと。
そう考えて。自責の溜め息と共に、俺は自室へと踵を返した。
「……っ……!」
闇雲に。ひたすらに廊下を走ってきた先。トレーニングの部屋からも自分の部屋からも遠く離れたその場所で、私は立ち止まる。……なんで。
「……」
――なんで、あんなことをしてしまったのだろう。
黄泉示さんが、苦しんでいると思った。
リングの上で見せていたあの態度。扉を開いて顔を合わせたときに真っ先に感じたのは、これまでに見たことがないくらい、光の欠けた黄泉示さんの瞳。
――どうにかしたいと思った。
黄泉示さんを。苦しみに耐えているこの人を。どうにかして、助けられればと。だけど……。
「……っ」
――なにも、突然あんなことをする必要はなかったはずだ。
他の方法があったはず。それこそ幾らでも。……あのときは思い付かなかったけれど。
黄泉示さんを胸に抱きしめなくとも、きっと――。
「~~っ」
今更ながら自分の仕出かした行動に身悶える。――あんなこと、あんなこと。
変だと思われなかっただろうか? 引かれてしまわなかっただろうか? おかしいと思われなかっただろうか?
本当に、気が付いたときには身体が動いてしまっていたのだ。何もあんなときではなく、前の戦いのときに動いてくれていれば。
「ッ――」
……そうだ。
思い出したそのことに思い当たる。……私は前回の戦いで、何もできていなかった。
ただ黄泉示さんに、リゲルさんに、ジェインさんに守られていただけ。それが負担を掛けていることは明白だ。実際に黄泉示さんとリゲルさんは怪我をして、特に黄泉示さんはあそこまで追い込まれてもいたのだから。
――変わらないといけない。
何もできないままではなく。……せめて、せめて黄泉示さんたちの負担を少しでも減らす。
恐怖で立てなくなってしまうことが無いように。誰かの背中に隠れたまま、出られないことの無いように。その決意を今一度改め――。
「……ふぅ」
……それはそうとして。
次に。夕飯時に黄泉示さんと顔を合わせたときに。
「……どんな顔をして、会えばいいんでしょうか……」
呟いた独り言は答えを出さないまま。私を取り囲む壁たちに、沈み込むようにして消えていった。




