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第七.五節 死

 

「――くっ……」


 ――漆黒の帳を微かな星明りが照らす中。闇に紛れるようにしてひた走る、一つの人影が懸命に目的地へと向かっていた。……痛みに疼く脇腹を抑えながらも、万が一にも気付かれることがないよう、その目を闇夜に光らせている。


 ――抜かった――。男は自らの失態に歯噛みする。まさか当初予想した以外にも、あのような使い手が対象の周りに潜んでいたとは……。


「……っ」


 気配を殺し、街路を疾風の如く駆ける男の脳裏に過る去り際の光景。……意識が回復した直後の不意打ち。


 自身を倒したことで気が緩んでいるはずの機を突いたつもりが、あの眼鏡の青年にはこれ以上ないほど的確な対処をされた。……あの状態でまだ警戒心を保っていたとは予想外だったが、そのことは最早気に掛けてもやる方ない。最後まで自らの見立てが甘かったのだと、そう自身を叱責するだけのことだ。


 自身にそう言い聞かせながらも、奇襲を防ぐことを可能にした力自体について言うならば。男はそれを気にしないわけにはいかなかった。……全力で投げ撃ったはずの自らのナイフが。


 掴み取られる直前から異様なまでにその速度を落としていた。あの速度なら、多少の動体視力さえあれば問題なく掴み取ることができただろう。そこから推察するに、あの青年の能力は――。


「……時か」


 推測が口を突いて出る。――時、或いは時間。空を飛ぶ物体の速度を低下させるのは単純なようだが、実際は気流を扱う風属性の魔術など一部の魔術にしか成し得ない芸当である。そして更に今回の場合、男が擲った短剣は速度が格段に落ちたにも拘わらず高度を下げないという実に奇妙な状態に置かれていた。


 仮に気流の操作によってそれを達成していたとすれば、恐ろしいほどの精密な力の調整が要ったはずだ。そして気流操作によって投擲を防ぐのにそんな手品染みた真似をする必要はどこにもない。……敢えて速度だけを落として見せたのではなく、速度を落とすことしかできなかったのだと考えてみれば自ずと答えは浮かび上がってくる。


「……」


 男の長い人生の中でもその力を扱う者に出会ったことは未だなかったが、男の知識では状況からして考えられるのはそれしかなかった。扱えるとすれば、禁呪か、はたまた稀代の大魔術師か。あの青年にそれほどの力量があるとは思えなかったが……。


 重力と合わせて、二人の青年の力はどちらも奇特にして強力。敵に回せば厄介なことこの上ない。この先も使命にとって大きな障害となり続けることは確かだろう。


 ――加えて――。


 ……守り手との戦いの最中に感じた、あの感覚。


 あの男に依れば少なくとも半月は掛かるという話だったはずだ。あの男が自分たちを謀ったのか、それともあの男にしても予測し得ない事態が起こっているのか。どちらにしても捨て置けない状況だ。早いうちに対処を考える必要がある――。


 ……何にせよ、今夜は想定外の事態が重なり過ぎた。今は一刻も早く、この事実を伝えることが先決と。


 焦りを感じながらも、男は未だ走る速度を上げることはできないでいた。……あと少し。この先の区画を過ぎれば領域の外に出られる。そこからは多少警戒が疎かになっても大事ないだろう。日が変わる時分には目的の場所へ到達できるよう、急がなくてはならない。


 そう考える男の眼前に問題の場所が映り込んでくる。――此処だ。魔術の心得がない一般人には何の変哲もない、ただの街並みの一角と見える場所。


 だが実際には、多少なりとも心得のある人間ならば一目にして気が付くような、如何にもといった体の結界線が張られている。張り巡らせた罠を隠そうともせず、敢えて見える者には見せつけるようにしているのがあの組織らしい……。常に権勢を誇示し、数と力によって敵対するものを圧殺する。


 そんな下賤な手口が結界一つにも滲み出ているようだった。込み上げる嫌悪を噛み殺しながら、侵入したときと同じように、男は細心の注意を払って、しかし速度は落とさぬまま、その結界の目を潜り抜ける。


 ――男が通る際僅かに結界は震えたが、作動するところまでは至っていない。暗殺者(アサシン)として積み重ねた男の技量を以てすれば、最早この程度の結界網を突破することにそれほどの労苦を要することもなかった。


「――」


 してやったという些細な、自嘲気な昂揚感と共に、領域の向こう側へと降り立つ。……難所は過ぎた。後はただ目的の地に向けてひた走るのみ。男は仲間の下へと舞い戻るべく、一段と速度を上げて走り出す――。


 ――はずだった。


「――っ⁉」


 ――壁。一瞬前まで静かな夜の景色が広がっていたはずの男の眼前に、今輝くような真白の壁が(そび)え立っている。


 ――これは――!


 ――強い魔力で幾重にも編まれた、堅固な障壁。そのことを即座に見て取った男は間近に迫っているであろう脅威から逃れるべく、刹那の判断で真横へと跳び退きつつ辺りを見渡し、残されているであろう突破口を探す。


「……⁉」


 ――手傷を押してまで機敏な反応を見せた。男の凡そ最善と言える対応にも拘わらず、状況は無情なまでに閉ざされていた。前後左右の四方向に加え、上方。ただ一点だけ変わらない石畳の地面を除いた五つの方角が、既に男の前に現われたものと同質の障壁で塞がれている。……見事なまでに組み合わされた障壁の間に人は愚か、蟻が這い出る余地でさえ残されてはいなかった。


 ――隔離結界。外界から対象を物理的に断絶させる、捕縛に用いられる魔術の一つ。時遅く自らがその術中にあることを、ここに来ては男も認めざるを得ない。


「……」


 ――誰が――何の為に?


 ……そんな問いで自分を誤魔化すのも、そう長くは続かない。どこかで男はそのことを理解していたし、現実は男のその予想を裏切らなかったからだ。


「……速いな。追い縋るので精一杯だ」


 男を取り巻く結界の外部から、今の男の心情とは凡そ掛け離れた場違いとも言えるような呑気な声が届く。


「っ⁉」


 その声に反応して思わず背後を振り返るものの……輝くような魔力の障壁は、その外側にいるであろう人物の姿を映し出すことはない。


「そっちからは私の姿は見えない。……まずは落ち着いてくれ。こっちとしても何の理由もなく危害を加えるつもりはない。幾つかの質問に正直に答えてもらえれば、そっちの身の安全は保障する」

「――」


 ……その慇懃なまでに丁寧な口調。随所に綻びを感じさせる言い回し。反秩序者たる男が聞き及んでいないはずもなかった。それは自分たち反秩序者が決して捕われてはならない、三つの組織の一つ――。


「……支部長か」


 呟くように声を漏らす。気配隠匿と感知系統の能力に優れた自身の警戒を容易に掻い潜り、対応する間も与えずに綻びのない隔離結界を作り上げる。……ただの一構成員に可能な所業ではないことは明らかだ。この時点で相手の正体は露呈したも同然。


 愚かにも運が良いなどとのたまっていた先ほどの自らを、男は嘲笑う。恐らく戦闘の最中から目を付けられていたのだろう。いずれにせよこうなってしまっては、もう……。


「……今夜は協会の領域で随分と勝手にやってくれたみたいだが、安心して欲しい。私としても争いは好むところじゃないから、先にも言った通り、大人しく質問に答えてくれれば――」


 その先の言葉を聞くことを男は半ば生理的な嫌悪感から拒絶した。――答えなければ、どうするつもりなのか。そんな問いを障壁の向こう側にいる相手に投げ掛けてみたところで、返ってくる答えなど決まり切っている。……いや。場合によっては答えさえ返って来ないのかもしれなかった。


「――納得していただけたようで何よりだ。ではまず、一つ目の質問。あんたがなぜあの四人を襲ったのか、それについて答えてくれるか?」


 此方のその沈黙を肯定の返事と受け取って、姿の見えぬ相手は男の意志を確認せずに一人で質疑を始めていく。その傲慢へ向けて――。


「――協会の犬に、答えることなどない」


 嫌悪を込めて言い放った言葉。障壁一枚を隔てていても向こう側にいる相手の雰囲気が変わったのが伝わってくる。


「……そちらが抵抗するなら、こちらも相応の対処をしなくてはならなくなる。どうか落ち着いてくれ。私は別に、あんたに危害を加えようとしているわけじゃ――」

「ならばなぜ問い詰める? 危害を加えないというのなら今すぐにこの結界を解いて、私を自由にしてもらいたいものだ」


 男のその言葉に、結界の外に居る相手は暫し沈黙を守る。そして――。


「……それはできない。あんたは今晩、私たちとは無関係なはずの学生を襲った。それがどういう理由で為されたものなのかを知らない内は、あんたを野放しにするわけにはいかない」


 ――その物言い。統制者気取りの言葉の随所に滲み出る、〝自分たちが格上〟とでも言わんばかりの傲慢さ。男は。


「……何も知らぬ走狗の分際で、我らを管理でもするつもりか? 協会は余程良い教育を施してくれると見える。……その愚かしさ、同じ技能者として却って羨ましいほどだ」

「……」


 その言葉に最早相手から返ってくる答えはない。……ただ、結界を通してでもその向こう側にある魔力が一際高まりを増すのが分かる。魔術で拘束した後、支部に連れ帰って情報を引き出すつもりか――。


「……何もかもが、貴様たちの思い通りになると思うな‼」


 怒号と共に男は今の自身にできる最速で懐から得物を取り出す。――男の挙動に応じて、外の魔力もまた、応じるように更にその密度を増加させる。


 ……一瞬にしてここまでの魔力を収束させるとは、流石は支部長。結界を破壊する素振り一つでも見せようものなら、直ぐにでも男の動きを止める魔術が飛んでくるだろう。


 ――だが、もう遅い――!


「――ぐッ……ッはッ‼」

「⁉ 何を――⁉」


 結界内に響く不意を打たれたというような声に胸の空くような想いを感じる。……自ら短剣で胸を刺し貫く者を見れば、その反応は当然だろうが。


「これで……いい」


 自らの失態故に、情報を仲間たちに伝えられずに逝くこと……。


 それは心残りと言えば心残りだが、協会に情報を握られるよりは遥かに良い。男がここに来ていることは、既に他の仲間たちも知っている。男が戻らないとなれば異変を察して別の者が送られてくるはず。……そのときこそ、我らの使命が果たされるとき……!


 自身を閉じ込めていた結界が解除されたのが分かる。――最後に憎き支部長に嘲りの一瞥でもくれてやろうか――。……そう思ったものの、薄れゆく男の意識はその視界に滲んだインクのように映る人影を、既に判別することが出来なくなっていた。











「くそッ――!」


 心の臓に刃を突き立て、夜空を仰ぐ形で倒れているその男を支部長は見遣る。……防げなかった。


 支部長にとっても初となる凶王派の技能者の捕縛。慎重を期し、話の内容に気を回していた余りに対処が遅れた。僅かでも息があれば治癒魔術で命を繋ぎ留めることもできただろうが……。


 心臓を正確に貫いたその短剣は、支部長にその間を与えることなく男から生命を奪い去ってしまっていた。……遣る瀬ない思い。抜かった自らを殴りつけたくなる思いを抑え。


「……弱ったな……」


 声を絞り出す支部長。初めは単なる未確認の技能者の監視、場合によってはその排斥か、若しくは勧誘という任務のはずだった。一度に三人と言う数には驚きを隠せなかったが、難易度的にはそこまで困難なものでもない。いつも通り適切に終わらせられる、そう思っていた。


 ――その予想が覆されたのが、先刻の事。


 本来の仕事の方に目が行っていたためか、この反秩序者の侵入を許したことは支部長の失態だった。――凶王の一人、『冥王』の派閥に属する反秩序者。


 暗殺者としてはかなり年季の入った方であり、これまでに協会の構成員と接触したことも一度や二度ではない。これほど容易に捉えることができたのも彼らとの戦闘で少なからず余裕が失われていたからだろう。男を発見したのもただの偶然。監視対象である彼らを付けていたが故だった。大分上手く気配を隠されていたから、仮に彼らとの接触が無ければ男の存在には気付けなかったかもしれない。


「……はぁ」


 支部長は溜め息を吐く。……単なる監視の案件に、まさか凶王派が絡んでこようとは思いも寄らなかった。


 凶王派が関わるとなればこれは最早自分一人の管轄下に収まる問題ではなくなる。四賢者へ通達の後、指示を仰がねばならないだろう。それまでは監視を続けるしかない。今まで通りの動きを続けていくことになるか、それとも別の行動に出るかはそのときに決まるはずだ。何にせよ、今夜が忙しくなることは最早確定した事項であるようだった。


「……」


 ――それにしても。支部長は思う。見たところ、なぜかこの男は自分が追っている彼らを標的(ターゲット)としていたようだった。それも自分と違い勧誘などと言う生易しい目的でなく、その使命が彼らの抹殺にあったことは明白だ。


 一見してもそれがなぜなのかは分からなかったが……この男が戻らないとなれば、送り込んだ側に新たな動きがあるかもしれない。何はともあれ、まず優先すべきなのはこの事態の処理。特別な外傷があるわけでもなく、遺体の始末は一般の警察に任せても構わないだろう。


「……ふぅ」


 仕事が増えたことへの微かな溜め息を付いて、支部長は再び男の死体に一瞥をくれる。……苦々しい思い。


「……」


 今になって反秩序者たちが三大組織に対する敵意を燃え立たせていることに、支部長はどうしても割り切りを付けられないでいる。他の組織なら兎も角として――。


 魔術協会は九鬼永仙が先代の大賢者となって以後単体の組織としては反秩序者に対する風当たりを弱めて来ている。以前のように無闇矢鱈と彼らを敵視・排斥するのではなく、出来得る限り平和的な関係を築こうと努力しているのだ。……三大組織側に大きな損害があったことも勿論理由の一つではあるが、それでも行ってきた取り組みは本物だ。凶王派に話し合いの呼び掛けをしたことだってある。そのことは相手側も分かっているはずなのだが……。


「……」


 ……相も変わらず、三大組織の領域を侵犯してくる反秩序者はあとを絶たない。どころか、最近に至っては協会の支部を襲撃する者まで出てくる始末だ。つい数日前には、自分と同じ支部長の一人が命を落としたと聞いた。……噂では他の二組織にも凶王派の組織的な襲撃を受けたところがあるらしい。小競り合いや直接的な戦闘が減ったのは事実だが、活動の方向だけを見れば明らかに悪化している。これでは何のためにこちらから手を出さずにいるのか分からない。


 極めつけは今回の同盟だ。現四賢者筆頭である秋光からの通達を受け、支部長には既に凶王派と九鬼永仙が手を結んだとの情報が渡っている。度重なる襲撃も、支部長の暗殺も、この男の行動も。恐らくはそれに沿ったものに違いない。


 当然その二組織も含め、協会内部にも反対する者は根強く残っているが……この支部長もまた、そうした取り組みに尽力している一人だった。どんな事情があるにせよ、理想を言えばやはり争いは出来る限り少ない方が良い。そう思い、協調派として活動を続けてきた。だが、今回のような事態を見せ付けられてしまうと……。


「……」


 ――自分たちのやって来たことは、全て無駄だったのだろうか。


 虚しい思いが支部長の胸中に渡来する。協調派として協会を引っ張ってきた九鬼永仙は離反し、凶王派はその永仙と結んでこちらとの開戦に備えている。……事態は近年でも稀に見るほどに悪い。正面衝突などということにでもなれば文字通りの最悪だ。男の死体が憎しみと断絶とを突き付けているような気がして、目を逸らす。


 ……できることから、やっていくしかないか。


 拭い去りがたい感情を抱きつつも、支部長は自らの携帯を取り出した。




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