第五節 激闘 窺う機会
「……大丈夫なのか?」
前に出たリゲルの背を目に、恐々とした心情で問い掛ける。それを尋ねたところでどうしようもないことは分かっているが、あれだけの損傷を負ったリゲルを再度戦いに投げ込むという判断には、やはりどこかで捨てきれない抵抗があった。
「ああ。バカは痛みを感じないからな」
間を置かずに返された言葉――。その素っ気ない響きに思わず耳を疑う。二人が犬猿の仲であることはこれまでの体験で身に染みて思い知らされているが、それでも今命を張って男の前に立っているのはリゲルだ。……流石にその台詞を許容することは――。
「……いや冗談だ。済まない。蔭水の言いたいことは分かるつもりだが、今前に出られるのはリゲルしかいない」
そんな想いが表面に現れていたのか、俺の顔を見たジェインは先ほどとは打って変わった真剣さでそう告げてくる。……解り辛い冗談は止めて欲しい。
だが、後半については確かにその通りだと俺も思える。ジェインは運動神経はともかくスタミナがないし、俺の方はまだ足が震えている状態。その中で誰がまだあの男と渡り合えるかと訊かれれば、リゲルと答える他なかっただろう。
「それに考えなくリゲルに奴の相手を任せたわけじゃない。……奴の武器はナイフ。あくまで近接戦闘の域を出ない。それで間違いないか?」
「……ああ」
俺の傷を見つつ言った、ジェインに頷きを返す。まだ隠している手札があるのなら、俺を仕留めようとしたときに使っていたはずだ。
「なら大丈夫だ。あの運動バカなら、援護さえあればあの状態でも持つはずだ。――そら、始まった」
「――ッ!」
――援護。その言葉がなにを意味するのか訊く暇もなく、視線を前に遣る。余りに残酷な光景が広がっていはしないかという不安を胸に、事の顛末を目の当たりにした。
――俺の不安は、思わぬ方向へ裏切られた。
「……ちっ……!」
一撃を受け、止むを得ないという形で後退するのはあの男。両手に短剣を握り、陽炎の如く現実感のないあの挙動。……全力を出している。先に俺やリゲルと戦ったとき以上に。
「オラァッ‼」
容赦なく追撃するのは手負いのリゲル。左腕はもうほとんど動いておらず、ほぼ右手一本で戦っている状態だ。そこまでは俺が予想し、恐れていた通りの展開。
――しかし。
「――」
――速い。先ほどまでとは明らかに異なる速さ。左腕が使えなくなったことでバランスは寧ろ崩れているはずだというのに、この速さは最早異様だ。俺としても目で追うのが精々だろう。繰り出される男の攻撃を全て躱し、素早く拳を叩き込む――戦い方すら変化するほどの速度上昇。
元々リゲルの身体能力は男と同等だった。手数こそ減ったものの素早さが跳ね上げられた今、その動きに対抗する術を男は見出せていないのだ。……これがジェインの援護とやらの効果なのか? これなら――!
「……暫くは心配いらないな」
暫く。届いた呟きに僅かな疑問を覚えながらも、振り返る。
「説明は後だ蔭水。それよりも――」
――フィア。
ジェインが送る視線の先。変わらず動いていない、フィアの姿。
「怪我か? それとも」
「いや、睨まれて腰を抜かしたんだ。……そうだと思う」
覚えている限り、フィアは男の視線を受けただけ。……傷付けられてはいないはずだ。
「――フィア」
駆け寄って声を掛ける――が、どこか様子がおかしい。返ってきて当然のはずの、反応が返ってこない。
「……カタストさん」
ジェインが声を掛けてもやはり反応はない。虚ろな視線はただ、ぼんやりと虚空を見つめるだけだ。ただその場に座り込んだまま、動かないでいる。
「……ショック状態に近いのかもしれないな。直ぐには動けそうにない」
「……っ」
「カタストさんだけでも先に避難して貰おうと思っていたが、無理らしいな」
――ジェインのその台詞に、先ほどの疑問が再び蘇ってくる。
「どういうことだ? あいつなら、リゲルが――」
「いや、無理だろう」
――倒せる。その言葉に重ねられる。
「僕の援護は傷口に負荷を掛ける。今のリゲルにそう長くは使えない」
――なんだって?
「あと二分。負荷が重くなる前に援護は解除するが――」
腕の文字盤を見ながら言うジェイン。リゲルと男の戦いは続いている。二分。とてもそれだけの時間では終わりそうにない。
「――奴をどうにかする必要がある。少なくとも行動不能には追い込みたい」
台詞の終わり。共に向けられる、視線の意味。
「やれるか? 蔭水」
それを受け止めて、暫し沈思黙考した。
「……一撃なら」
恐らく持つ。負わされた傷と疲労とは重いが、それぐらいならどうにかなるはず。
「ならその一撃で決めよう。僕の援護は掛けた相手を倍近い速度で動けるようにする。相手の動きも半分の速度で見えるようになるはずだ」
見える動きまで。リゲルの受けている援護とは、そこまで強力なものだったのか。
「不意を突けば一撃でも決められる。充分落ち着いてやってくれ」
「……ああ」
戦況を見据える。今男は速度を取り戻したリゲルへの対応で手一杯。ジェインの言うような援護を受けられるなら不意打ち狙いでも勝算はある。……いや。
状況を省みて思い直す。……決めなければならない。できるのは俺だけだ。しくじるわけにはいかない。ここでしくじれば、なにもかも……。
「――それは本物か?」
割り込んできた問いが、意識を割く。
「……いや」
本物と言えば本物だが、恐らくジェインが訊きたいのは真剣であるかどうか。刃のない終月は一応真剣とは呼べないのでそう返す。
「なら良かった。正当防衛とはいえ、友人を人殺しにさせたくはないからな」
気強い声。その言葉に少しだけ、なにかが楽になったような気がした。
「――ああ」
「チッ、しぶてぇなァッ‼」
再度戦況に向けた視界に映るのは、右腕一本で怒涛のラッシュを繰り出すリゲルの姿。力なく垂れ下がる左腕は流れ出した血液で赤と黒の筋に染まっている。負傷の身とは思えない勢い。その連撃が止められることはない。
「……ッ」
だが、迎える男の対応は既に当初とは違っている。――ダメージを与えられていないのだ。放たれた拳撃の多くは男の身体を掠めるだけに終わり、ヒットしそうな残りの数撃も刃を盾に防がれている。まともな攻防では不利だと察し敢えて守りに徹してきた。互いに決定打を与えられないまま、時間だけが過ぎていく。
「――残り四十秒だ。タイミングは蔭水が決めてくれ。動いてから攻撃に移るまでの間に、援護を掛ける」
「……分かった」
声を耳に受けながら、意識を集中させていく。……まだだ。まだ動くな。一撃で決めるにはリゲルと男、双方が完璧に揃うタイミングでなければ。
――一刻も早く蹴りを付けたい。逸る気持ちを抑え付けながら、その瞬間が来るのを待ち続ける――。
――手強い。
戦いの最中、老人は焦りを感じ始めている自らを自覚する。
自身に出せるトップスピード。常人なら反応するまでに数度は殺せるだろうその速度に、目の前の青年は的確に反応――いや、最早それを上回ってさえきている。
殺気の押し殺しによる初動のずらしも、これだけの集中力を以て正面から向かい来る相手には効果が薄い。そもそも老人が得意とするのは正面切っての交戦でなく不意打ちによる暗殺。攻め入ることは愚か、決着を先延ばしにすることで手一杯という苦境。
どうして予想し得ただろうか。まさか自分の半分の歳月も生きていないような者たちに、ここまで手古摺らされることになろうとは――。
「……っ‼」
渾身の突き。先ほどまでならば間違いなく退避か崩しを強要できたであろうそれを、今の青年は瞬時に軌道を見定め最小限に近い動きで躱してくる。上体を薙ぎ払おうとした刹那、既に拳が間近に迫っていることに気付いて舌を打つ。カウンターを取ることなど叶わない速度の拳撃に、老人の方が回避に徹さざるを得ない。
――速い。端的にその一言に尽きる。多少の粗さこそあったものの、この青年の動きは当初からそれなりに堂に入ったものだった。それが今ではこれまでと比べ倍近いスピードを以て迫ってきている。左腕を封じていて僥倖だったと思うよりない。そうでなければ確実に沈められていただろう。
焦りがないというのは最早嘘だ。朧気ながらも失敗の兆しを見せ始めた使命、本来の時間制限、そして先に垣間見えたあの異変。どれ一つ誤っても致命となる問題が、相互に重ね合わされているこの状況。老人の長い半生においてもこれだけの窮地に立たされたことは数少ない。
だが稀に見るような苦境に立たされているからこそ、焦ればその分だけ自らを追い詰めることになる。そのことを老人は良く理解していた。幸いにして問題群はどれか一つ突破口を開けば機械的に片が付くもの。一度の好機を如何にしてものにするか。そこに成否の全てが掛けられている。……焦っているのは、この青年とて同じことだ。
「――いい加減倒れろっつの‼」
叫びと共に繰り出される右フックを余裕なく鼻先を掠めさせる形で躱す。――目は慣れてきている。クリーンヒットを受けることはないだろう。状況の厳しさは動かずとも相手は手負い。この勢いで攻め立てさせていればどこかで必ず綻びを見せる。遠くないその機を、確実に――。
「――」
――来た。直後の渾身と思しき右ストレート。力んだその所作を逃さず交錯する形で前へ詰める。空を切る拳。歪む眦に、老人が勝利を確信した。
「――下がれッ‼」
覚えのある声が夜を切り裂いたのは、その瞬間だった。




