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第四節 激闘開始

 

 ――俺の腕を圧し折ろうとしていた、男の動きが止まる。


 ――っ?


 閉じた瞼を開き、見上げた男の顔。見えたときからそうだったように、一切の感情を浮かべずに押し隠している。……だが今その視線は、どこか……明らかに俺ではない一点に注がれている。


 疑問が脳裏に浮かんでくる最中、これが好機だということを思い付く。……俺にとっても、そして、これを見ている第三者にとっても。


 ――そして今。


「来ねえんなら……こっちから行くぜっっ!」


 夜の街に響く猛りの声。俺が抱いた予感は今、自分にも思わぬ形で現実のものとなった。……隠そうともしない怒気。


 男とリゲルの戦いが始まろうとしている。それを理解しながらも、俺はまだ先ほどの衝撃から覚めることができない。


 なぜ、リゲルがここに――。


 ――いや。


「ぐっ――ッ」


 全霊を込めて立ち上がろうとする。無理矢理に力を込められた手足が震え、訴えてくるのは限界。まだ、立ち上がれるだけの力は戻っていない。


 今はそのことよりも優先すべきことがある。――リゲルは確かに俺と同等の身体能力の持ち主だ。だが、あの男を相手にそれだけで通用しないことは先ほど嫌と言うほど思い知らされた。


 このままではリゲルも危ない。――逃げろ。その一言を絞り出す為に、辛うじて顔を上げた――。


「――!」


 地面から顕になる光景。その展開に思わず、絞り出すはずだった声を失う。


 目で追うことがやっと。残像が残ると錯覚するほどの高速で攻め立てているあの男。眼球、首筋、胴体、手足の健――数ある人体の急所に向けて悉く的確に、手に持つその刃が繰り出される。


「――へっ‼」


 それをリゲルはあろうことか、素手で凌ぎ切っていた。刃と拳が交錯し、寸でのところで切っ先が目標から逸らされる。よくよく見れば刃の側面や男の腕を狙って正確に拳を当て、また腕を捻じ込むことで剣の軌道そのものをずらしているのだ。刃物の優位。


 触れれば切れ、一撃を受ければ重傷は避けられないという事実をまるで恐れていないかのよう。流すだけに留まらず、僅かな間隙を縫っては時折自らの攻撃まで織り込んでいる。傍目から見ていても分かるハイレベルの戦い。戦況は、現状正に互角。


 ……ボクシングが得意だとは聞いていた。驚愕冷めやらぬ中で思い返す。だが、まさかこれほどまでとは思わないだろう……。


「――オラッ‼」


 近距離から一度に投擲された二本のナイフ。僅かに軸をずらす見事な足捌き(フットワーク)でそれを躱して間合いを詰め、返しとばかり鋭いストレートを叩き込む。


「――」


 その返撃を前もって予測していたらしく、既にリゲルの拳をいなす体勢を整えていた男。同時に淀みない動きで更なる至近へと位置を移し、無防備になったリゲルの左胸に得物を突き立てようと――。


「……っ⁉」


 気付いたのは俺とほぼ同じタイミング。男の顔色が変わる。――フェイント。そのままなら虚しく宙を切るはずだったリゲルの拳。それが突如軌道を変えて男の顔面へ導かれる。


 攻撃の為に前のめりになっていた男は咄嗟に飛び退くことでその奇襲を躱そうと試みる。――だが拳の方が僅かに早い。射程から逃れる間も与えずに、リゲルの一撃が男の顔面を打ち抜いた。


「やっ――!」

「んなっ⁉」


 直撃を確信した俺の歓声。それを遮ったのは、他ならぬリゲル自身の驚愕。


 後方へと倒れ込んだ男の身体が突如勢いを以て翻り、弧を描く軌道で蹴りを繰り出してくる。狙いは顎。頭蓋をかち上げ、そのまま頸椎を圧し折るほどの勢い。


「うおッ!」


 その一蹴を咄嗟に退いて躱したリゲルを余所に、男は空を切った脚をそのままバク天の様な所作へと移行させる。躍動により距離を離し、音一つ立てず地面へ着地して見せた。


「……マジかよ。爺さんのくせに恐ろしい動きだな、おい」


 信じられないといった呟き。自身の攻撃が直撃したと思った直後にあれだけの動きで体勢を立て直されれば、誰だってそう思うのが普通だろう。急所を狙うと同時に自身の離脱まで含めた動き。――攻防一体。改めて目の前の男の技量の高さを知らされる。


 ……だが。


 胸を過る微かな違和感。男の身体能力ならあのバク天で距離を取らず、その場に留まって更にリゲルを追い討つこともできたはず。確かに俺のときは一撃離脱が男の攻撃の基本だったが、リゲルが相手になってからは寧ろ近距離での連続した攻め合いが主になっている。なのにそれをせず、今わざわざ後方に下がったということは。


「……」


 ゆっくりと上体を起こす男。動きの中に含まれた微かな淀み。それを見逃さず捉える。


 ――効いている。見事な運動能力で咄嗟に攻防一体の動きに移行して見せたにせよ、拳の威力を完全に殺し切れたわけではない。今の一撃は確実なリゲルのアドバンテージ。


「……うし」


 リゲルもそのことに気が付いたのか、気を取り直したように再び構えを取っている。リゲルの優勢。それが喜ばしいのは勿論のことだったが、今の攻防で一つ、気に掛かったことがあった。


 ――気のせいか?


 先ほどの一瞬もそうだったが……。


 要所要所。攻撃を喰らう、避けるといった互いのアドバンテージに直結する場面。そうした戦況を左右する重要なタイミングで、男の動きが不自然に鈍くなっているような気がしたのだ。


 疲労が蓄積されているといった感じとは違う。であればあんな曲芸染みた動きができるはずがない。重要な場面が訪れる度、不意に男の動きが鋭さを落としている。


 例えば今の、男がリゲルのフェイントを避ける瞬間。俺の感覚では後方に退いた男の速度はそのままなら、ギリギリで回避に間に合う速さであるはずだった。


 それがなぜか、中途で突如男の勢いが失速した。その遅れのせいで退避が間に合わず、リゲルの拳を受ける羽目になった――ように見えたのだ。


 あれは、一体――?


「……」


 疑問を抱く俺の視線の先で、男が口から血の入り混じる唾を吐き捨てる。――乾いた音。月明かりに照らされた歯が二本、地面に虚しく転がっている。


「大丈夫か爺さん。なんなら後で、腕の良い歯医者を紹介してやるぜ」


 挑発を飛ばすリゲル。形勢を色良しと見たのか、男を焚き付けるような口調で煽っている。……その安い挑発に男は乗らない。口元の血を袖で拭い、変わらぬ目付きで沈黙を貫く。


 傍目から見ても押しているのはリゲルだ。それは間違いない。


 ――だが、なんだ?


 男のあの、落ち着き払った態度は……?


 自身は歯を折るほどの一撃を顔面に受け、リゲルは無傷。間違いなく旗色は悪くなっている。取り乱すまで行かずとも、多少の焦りは見せていいはずなのに――。そのことが言いようのない不安を駆り立てた。


「ッ⁉」


 息を呑む。いつの間に地を這うかの如く身を屈めていた男。一呼吸の間に身体を勢いよく跳び上がらせる。――動きにまるで気付けなかった。殺気を消しさる先ほどの技法――!


「チイっ!」


 弾かれたように上を向く。やはりリゲルの反応も一瞬遅れた。既に男の跳躍は最高点を超えており、リゲルにはその影が掛かっている。回避は不可能。ステップで距離を取ることも間に合わない。


「ラァッッ‼」

「――」


 強襲のときまで沈黙を保つ男が刃を閃かせたのと、気合いと共にリゲルが拳を打ち出したのとはほぼ同時。――交錯する二つの影。擦り抜けるようにして降り立った男を追い討つリゲルの、蹴り――身を沈めたまま胴を滑らせて躱す男。間合いを空け、陽炎の如く立ち上がった。……その身体に新たなダメージの跡は見られない。


 ――対して。


「……」


 静かに。身体の向きを変え、男を見据えるリゲル。強襲にも怖じ気付かず狙ったカウンターだったが、それは失敗に終わらされた。とはいえリゲルも特別なにか喰らったわけでは――。


「……リゲルっ‼」


 それが見えた瞬間、疲労を忘れて叫ぶ。


 闇夜の中、月明かりに映える銀の煌き。一筋の鋭い短剣が、リゲルの肩に突き刺さっていた。根元から染み出る赤い液体がスーツを染め、伝い、零れて石畳を染めていく。


「……はっ。こんなもん、ハンデにもなりゃしねえぜ」


 肩口から生える刃物を一瞬だけ目に留め、視線を戻す。あの状態で構えが取れることが既に凄い。だが、あの傷は。


「……」


 対する男もやはりそう判断している。取られたポーズを物ともせず、リゲルを眺めるのは涼しい顔付き。弱らせた獲物をどう仕留めるか。品定めするような視線は、そんなことを思案しているようにも思えた。


「……っ……‼」


 ――身体は動く。真っ先にそのことを確認する。リゲルが時間を稼いでくれたせいか、先ほどより疲労は幾許かましなものになっている。動けないことはない。少なくともその程度までは回復した。


 ――だが、駄目だ。


 同時にそのこともまた分かってしまう。……今の状態ではあの男に対抗できない。下手に立てばまた繰り返しになる。それに今の俺が立って向かうより、男がリゲルとの距離を詰める方が圧倒的に速い。


 リゲル――ッ‼






 ――やはりか。


 どこまでも熱を帯びない思考で、老人は自らの目算が間違っていなかったことを追認する。今日という夜は正しく老人にとって驚きの連続だった。


 ……組織の者以外に横槍を入れられたかと思えば、またしても自らに抗えるだけの技量と気概を備えた学生ときている。先の青年といい、このサングラスの青年といい、このレベルの技能者を野放しにしておく失態。区域を任されたはずの人員はなにをやっているのか――。


 そんな極めて健全な理由で敵対する組織を非難している事実に、表には出さずとも老人は皮肉気な感想を抑えきれずにいた。


「……」


 冷ややかに目の前の青年を見つつ、その力の詳細を思い返す。……先ほどまでの戦闘。


 決定的な機会が来る度に自身の身体全体が重さを増すという、不可解な現象が老人を襲っていた。敢えて機会を絞り感覚を掴ませないことを狙ったか、或いは単に持続させられるだけの力が無かったのか。


 その点について判断の余地が残るとはいえ、力の正体を見切った今となっては最早考慮に値しない案件でもあった。重力を操る術とはまた奇特なものだったが、知ってしまえば対処は容易い。重さを利に変えられる上から攻めるか、術のターゲットを増やす、つまりは投擲による多段攻撃が有効。今正にそのことを証明した。


 ――とはいえ厄介な能力であることには違いない。見抜いた弱所を的確に突くと言えば聞こえはいいが、それはつまりこちらの攻め手が制限されていることの裏返しでもある。……倒れた青年にも僅かにだが動きが見える。加勢されたなら面倒だ。先に、こちらを片付けておくか――。


「……おうおう。んな慎重にしてねえで、とっとと掛かって来いよ。爺さん」


 二本。新たに短剣を取り出した老人に対し、青年は構えを保ったまま威嚇を飛ばしてくる。傷を受け左腕が戦闘に堪え得なくなった今でも、未だ戦意を喪失するには至っていないらしい。どころか伝わってくる闘気に大きな変化がないということは、深手を負わせた当の男にとっても予想外の反応だった。


 ――ふざけたものだ。老人は思う。ただの学生如き。平穏の微温湯に浸ったような生き方をしている人間に、それほどの気概がなぜあるというのか? 痛みや恐怖を感じないわけでもあるまい。構え方からして明らかに左肩を庇っている。……理解できない。ならば、片付けるのが上策というものだ。


「――」


 駆ける。敢えて殺すつもりはなかった。元より青年は本来の標的とは違う。こんなわけの分からない相手にいつまでも時間を費やしてはいられない。擦り抜け様に複数箇所を突き刺す。満足のいく動きも出来ない相手には、それで充分だろう。


「――リゲルッ‼」


 ――だからこそその行動を目にしたとき、男はまたしても奥歯を噛んだ。


 大きく老人との距離を詰める青年。コンマ一秒で彼我の間合いに入る勢い。――特攻。その文字が脳裏に浮かぶ。玉砕を覚悟した捨て身の攻撃。


 ――こちらの意識の薄まりを見抜いたのか? 推測に一瞬驚嘆し掛けるが、直ぐに気付く。やはりあの左腕はやはり相当に悪いらしい。紅に染まる黒地を見れば明らか。攻め手を失うことへの恐れが、決着を付けようとする心を急き立てた――。


「――シッ‼」


 それでも大したものだ。迫る拳撃を捉えつつ思う。身を捨てたせいか気迫は先に勝っていると言って良いほど。威力についても申し分はないだろう。だが精緻さで言うならばぶれがある。それだけは気概では如何ともし難い。


 ――腕を止めるか。


 対処の余地は充分と見て取った老人は袖口の短剣を軽く握り、最適なタイミングを計りに掛かる。――問題はない。


 この一撃に反撃を合わせる形で次は右腕を奪い去る。雰囲気からしてどうやら青年もそのことは承知の上。反撃より早くこちらを仕留めるつもりらしいが、精彩を欠いた動きでその選択は格好の餌食でしかない。ここに来て、その勇壮さが仇となった――。


 そういえば先刻受けた一撃の意趣返しにもなる。意外にも子ども染みた部分が年老いた自らの中に残っていることを知り、男は苦笑いを覗かせる。――機は整った。


 二者の影が交錯する刹那。街灯に照らされた白刃が、夜の闇中に一瞬の閃きを残す――。






「――リゲルッッ‼」


 叫んだときには、全てが手遅れだった。


 どこかに勝機を見出したのか。駆け迫る男に猛然と突貫を仕掛けるリゲル。あの男は手負いの状態で仕留められるほど甘い相手ではない――‼ 相対するその眼が、処刑人の如く怪しく輝いた気がした。


「――ッッ‼」


 駆け出そうとした努力も虚しく、男の手にした刃が閃く。一瞬の後に飛び散る鮮血と、苦悶の声。そんな情景をイメージし、血が凍り付く。


 ――だが。


「……なに?」


 素朴な感情の込められた声は、男から。ここにきて初めてその心情を表に出している。その理由(わけ)は、同時に光景として俺の目に映し出された。


 男によって振り抜かれた刃の軌跡。過たずリゲルを切り裂くはずだったその僅か数ミリ手前。全体重を乗せて拳を突き出した正にその体勢で、リゲルの身体が静止している。


「――下がれ! リゲル‼」


 倒れている俺の後方。フィアがいるだろう更にその後ろから、誰かの声が飛ぶ。……いや、誰かではない。それは俺だけでなく、フィアも、リゲルもよく知っている――。


「ッ‼」


 声に従う形で大きく後退するリゲル。斃れた俺のすぐ目の前まで戻り、構えを取りながらも僅かに振り返る。共に俺の視線が向けられた先には。


「……」


 眼鏡を掛けた理知的な面立ち。見間違えるはずもない、その姿。


 ――ジェイン・レトビック。俺たちのクラスメイトであり、友人。その――。


「……また手酷くやられたな。立てるか? 蔭水」


 悠々と近付いてきたジェインはそう言って手を伸ばしてくる。差し伸べられた手に戸惑うより先、手の平を掴まれ、起き上がらせられる。


「眼鏡野郎。なんでてめえが……」

「……どうしてここに?」

「嫌な予感がしてな。君たちを見失って困ってたんだが、あの馬鹿の声が聞こえる方に進んできたら辿りつけた」


 ジェインが答える。予感? だが、助かった。


「おいてめえ、無視してんじゃねぇぞ」

「全く、何処まで行ってもバカはバカだな」


 リゲルの台詞をどこ吹く風で聞き流し、更に火に油を注いでいくジェイン。


「……もう一遍言ってみやがれよ、ジェイン」

「あとで気が済むまで言ってやるさ。お前こそどうして此処にいる?」

「けっ。俺もなにか嫌な予感がしやがるからな。黄泉示たちの行った方に走ってったら、あいつがいたんだよ」


 ……そうだったのか。虫の知らせというか、予感というのは、凄いんだな。


 ――じゃなくて。


「ジェイン。今は――」

「そうか。ついでに言っておくが、僕は眼鏡野郎じゃない。次言えばテムズ川に放り込むぞ」

「やれるもんならやってみやがれ。返り討ちにしてやるよ」

「――その身体でか?」


 また普段のような遣り取りが始まってしまっている。窘めようとした矢先の冷ややかな切り返しに一瞬、言葉に詰まったリゲル。それを見て一つ溜め息を吐くと、ジェインは更に言葉を続けた。


「考えなしに突っ込むのはバカのすることだ。僕があと少しでも遅ければ死んでいたぞ」

「……ちっ」


 返すのは舌打ち。お喋りは終わりだと言うように踵を返すと、再度男へと視線を戻す。今は言い争いをしている場合ではないこと、気に食わないながらも今回は自分が助けられた――そのことを承知しているようだった。


「――援護する。そう長くはない。相手を頼めるな?」

「……ふん。任せときやがれ」


 振り向かずにそう告げ、リゲルが前へ出る。俺の視線の先に映るは、手にした白刃を煌かせる男の姿――。











「……」


 ――信じ難い思いで、老人は目の前の光景を見つめていた。


 あろうことか自分という敵を前にして、仲間内でなぜか口論を始めたこと。それがどういう神経の下で行われたものなのか。仔細まで問い詰めたい心持だったし、それだけでも既に老人の理解を超えたものであることは明らかだ。


 しかしそのことも、今の状況と比較すれば吹き飛ぶほど些細な問題。


「……へっ」


 老人の前に立つのは先ほどと同じ、リゲルと呼ばれたスーツの青年。短剣の突き刺さった肩。左腕は辛うじて構える姿勢を保ってはいるものの、明らかにそれで限界といった体。先の無理も祟ってか、とても攻防に耐え得るとは思えない。


 そんな状態の仲間を、躊躇いなく前に立たせる?


 納得がいかなかったのはそのことだった。全ての重荷を負わせた捨て駒であり、その隙に逃走を選ぶとでも言うのなら理解できる。犠牲を厭わぬ判断もときとして必要であり、それならばあくまでも至極真っ当な兵法の範囲内に収まるからだ。


 だが――。


 負傷を押して構えを取る青年。その後方に立つ、ジェインと呼ばれた眼鏡の青年に視線を遣る。……脳裏に蘇るのは先ほどの光景。――必中の必然を以て放たれた一撃が空振りに終わらされたあの瞬間。


 あのとき果たしてなにが起きたのか。答えはまだ掴めていなかったし、予測も付けられてはいない。見通しようのない五里霧の中。


 ただ一つ確かなのは、あれを引き起こしたのはあの眼鏡の青年であるということ。それだけは疑いようのない事実で、だからこそ老人は不用意な行動に出られないでいた。……なにより。


 相手が捨て駒のつもりで仲間を前に立たせてはいないということが、老人には余りに明白に分かってしまっていたからだ。眼鏡の青年は死を省みないだけの気概を以てこの場に現われたわけではない。恐怖の中、それでも命を懸けて友を護ろうとして姿を晒したわけでもない。


 そんな理由で動かないだろうことはあの眼と立ち振る舞いを見ればよく分かる。先の青年と違い、此度老人にはその考え方が極めて良く理解できた。あの青年の思考回路は恐らく自分たちと同じ。つまりは、確たる勝算があって姿を現した。


「……おいおい、何処見てやがんだよ?」


 ――先に比べれば抑え気味。だが明確な戦意の込められたその声に、老人は注意を向けざるを得なくなる。気迫だけでどうにかなるほど易い怪我ではない。血を失い続けるその左腕には力が込められておらず、今や構えを保つことすら厳しくなってきているはず。だがそれでも、あの青年は――。


「てめぇの相手は……俺だろうがッッ‼」


 咆咻にも似た叫びと共に迫り来る。今自らが見据えるべき青年に対し、老人は、両の手に携えた刃を構えた――。



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