第三節 参戦
「――ッッ⁉」
鈍い金属音と共に走る衝撃。直後、自身の世界に正常な時間と光とが回帰する。
鋼鉄の棒に打ち込んだかのような感覚。腕が痺れる。掌に握り締められた終月。視界の端で吹き飛んでいく、銀の輝きを捉える。
まさかという驚愕。……凌いだ。そればかりでなく、相手の武器を弾き飛ばした。だとすれば打って変わって優勢は今、こちらのもの――!
「ガッ⁉」
――思わぬ戦果に勇み立った俺の意識を、強烈な衝撃が弾き飛ばす。
「――」
首を捥がれそうな勢いに抑えも効かず地面に昏倒する。……打ち付けられた固い石の感触と、側頭部に走った熱。舌に苦々しい鉄錆の味が広がる。痛みと衝撃に揺れる視界。考えが、働かない……。
「ぐ……ッ!」
――なんだ? 回し蹴りをまともに食らった。不用意に足を止めていたせいだ。せっかく掴んだはずの好機を――。
――いや。
「――」
足音と気配が戦慄させる。今、そんなことを考えている暇はない。
――落ち着け‼
震え出しそうになる身体に叫び聞かせ、全速で今の自身の状態を確認する。……耳も目も、五感は全て機能している。頭も働く。終月も手放していない。まだ、俺は生きている。
――だが、立てない。
それだけではないことに試してみて気付かされる。――動けない。今の衝撃を皮切りに身体全体がどこか限界を迎えたかのように、力を込めようとしてもそれが根底から霧散していくような消失感が襲うばかり。込めた端から抜けていく孔空きの風船。どれだけ動こうとしても、どうしようもない。
――不味い。
考えるまでもなく――全身でそのことを直感する。この状況は洒落にならない。辛うじて視線を動かした俺の目に見えるのは、ゆっくりとこちらに近付いてくる男の姿。その手に握られているのは新たに取り出したと思しき短剣。それでも充分過ぎる得物だろう。碌な抵抗もできないで地面に伏している、今の俺を殺すには。
「――ッ……ッ!」
――殺られる。恐怖と焦燥。それさえも今の俺を動かす力にはならない。俺の足掻きなど意に介さないかのように、細かく震える手足には一向に力の籠る気配が訪れない。そうしている間にも男の歩みは止まらない足音となって、確かな終わりのときが近いことを告げてくる。
――無理なのか?
もう、どうすることも――。
「――」
手掛かりを求めて動いた――瞳が、捉える。
座り込んだ、フィアの姿を。
「――」
瞳に映るのは確かな怯え。恐怖。俺が死ねば、フィアも――‼
「――ッ‼」
――諦めて、堪るか。
炎が灯る。……思い浮かんでいた一つの可能性。あれならこの状況を打破できるかもしれない。最後にそれを使ったのは十年も前の話。上手くいくかどうか分からないが――。
――やるしかない。今、できる限りのことを。
「――」
目を閉じる。雑念をできる限り取り払い、意識を集中。昔教わった内容、その記憶を掘り起こす。……第一に必要なのは、正しい自覚だ。
普段から流れている全身の血流。それを意識的に捉え、その中に宿っている魔力を喚び熾す。――流れの把握と潜在魔力の喚起。それを完了させる。
次に重要なのは想像力。今喚び熾した魔力の流れ。それを一気に外側に広げるイメージを作り、現実の自分に重ね合わせていく。――解放状態の想起とその用意。ここが終われば後は切り替え。スイッチを入れるだけだったはずだが。
――足りない。ブランクが長いせいか、明確なイメージが作り上げられない。もっと強く、もっとはっきりと作り上げなくては……!
時間がない。男の足音はもう間近にまで近付いている。更に集中を高め、一刻も早く最後の段階を終えようとする――。
……しかし。
――駄目だ。
絶望的な声が頭の中に響く。昔、十年前には確かに掴んでいたはずの感覚。それがどうしても沸き上がってこない。――焦れば焦るほど逆に遠退く。水面に揺れ動く木の葉のように。
強迫に近い焦燥。届かない感覚に悶える、俺の耳に――。
「ッ……‼」
――止まる足音。時間切れを告げる、無慈悲な合図が訪れる。
間に合わなかった。どうしようもない状態でそのことを理解する。数瞬の後に男は手にした短剣を俺目掛けて振り下ろすだろう。……外れるはずもない。その刃は確実に俺の命を断ち、そして――。
――避けようのない終わりを前に浮かんだ情景。かつての父と母、夜月の小父さん。それに……。
……俺のせいで命を散らすことになる、一人の少女の姿だった。
――確かに見ていたはずだった。
瞳を逸らすことなど出来るわけもない。目の前で起きている出来事は、これ以上なく非現実的で、でもどうしようもなく現実で。
あの人がそこで傷付いている。その事実から、目を背けることなど出来なかったのだ。
――なのに、それは余りに一瞬の事だった。
「黄泉示さんっっ……!」
吹き飛ぶように倒れる彼の姿。気付いたときには叫んでいた。黄泉示さんは動いている。まだ生きている。……だけど、立ち上がることはない。
「……」
――倒れた黄泉示さんを感情の籠らない瞳でその人は見つめる。懐に手を差し入れ、取り出したのは新しい短剣――。それを手に持って、目の前のその人が黄泉示さんに近付いて行く。
「……っ‼」
幾ら疎い私でも分かる。あの人は、間違いなく倒れた黄泉示さんを殺すつもりだ。……そしてその後できっと、私のことも。
「っ! っ!」
必死の思いで脚を動かそうとする。――早く、早く助けないと、黄泉示さんが――‼
だけどそんな私の感情とは裏腹に、一度竦んでしまった脚はなおも萎えたまま。全く私の言うことを聞いてくれない。
そうしている間にもその人は歩いて行く。死を運ぶ短剣の刃が、少しずつ黄泉示さんに迫っていく……。
――黄泉示さんが、死ぬ?
黄泉示さんが――。
――。
「……」
冷徹さを込めた瞳で、老人は地に倒れ伏した青年を見やる。流石に脳を揺らされて立ち上がれはしないようだ。一瞥を最後に他方も確認するが、少女は未だ変わらぬ位置で蹲ったまま。恐怖に見開かれた翡翠色の瞳。視線は斃れた青年に注がれている。震えるその身体からは相変わらず、行動を起こすような素振りは伝わって来ていない。
「――」
軽く息を吐く。結果だけを見て言葉にするならば、老人は今正に垂涎たる使命の達成を目前にしていると言って良かった。
――殺気。人のみならず、全ての生き物は何かを殺そうと試みる際、無意識のうちに鋭利な気を発してしまっている。慣れない内であればそれに竦められ動きを止めてしまうことも多々あるが、男のように殺しの世界に身を置き、それに慣れ切った者たちからしてみれば、殺気とは寧ろ攻撃の機を知らせる警報のようなものに他ならない。
一般的には戦いに精通している者であればあるほど殺気を始めとした気を感知する能力は高くなる。ここにおいて殺気は攻撃を仕掛ける側にとっては実に厄介な邪魔者としての様相を呈し始める。特に暗黙裡に対象を殺害するという暗殺を生業とする者にしてみれば、それは尚更の事。どれだけの対応策を身に付けているかでその者の暗殺者としての格が知れると言っても良いほどだ。
そこで多くの場合採られるのが、殺気の覆い隠し――【殺気隠匿】と言う技法である。自然に発せられる殺気が相手に攻撃を悟らせてしまうなら、その殺気を自覚し、技術でそれを気付かれぬ域まで抑え込んでしまえばいいという発想。
構造として単純であるが故に手堅く、古くから今日においてまでこの技法は暗殺者たちにとって半ば必須のものであるとされてきた。当然半世紀近くを暗殺に費やしてきた老人の場合も例外ではなく、その技術を年月と共に磨き抜いてきた。殺気にて攻撃を対処されたことは数えるほど。暗殺者としてそこまでの修練を重ねてきたことが老人の誇りであり、また自負。自らの生涯として譲れぬ一線であった。
「……」
五指を開き、未だ痺れが残る右手の感触をゆっくりと確かめる。青年の技量が自らと比べて大きく劣っていることを、老人は先ほどから理解していた。
認識において視覚に頼る素朴さ。弾くか受け止めるかしかできない稚拙な守り。判断力は幾分マシと思えるが、決断力の低さからかそれを十全に生かせていない。――未熟で不器用。
それが青年に下した総合的な評価だった。自身の攻撃に耐えているのは不自然に高い身体能力あってのことだが、それでも辛うじて。そう理解していたからこそ、老人は殺気隠匿の技法を解禁し、始動を遅らせることで蹴りを付けようとした。……自らの矜持を、曲げてまで。
――初めの一撃。仕留め損ねたショックから反射的に退避行動をとってしまったのはあからさまな老人のミス。しかし反応を大きく遅らせたにも拘わらず、青年が自身の攻撃を躱した事実もまた確か。その身体能力が疲労と負傷の中でまだ底でなかったことに一抹の驚愕を覚える。
――失敗の赦されぬ二撃目。万に一つの紛れもないよう殺気と気配を極限まで抑え、美学を犠牲に脚を射抜いた。躱す機動力を殺した上で一息に距離を詰め、即死でなくとも確実な致命傷となるよう内臓を損傷させる目論見で胴を狙う。……迎えたのは、これまでにない手痛い衝撃。
「……」
自らの突き。短剣を弾き飛ばした先の一撃について思い返す。
厳密に言えばあの鈍は剥き出しであった為にそうとは言えないのだろうが、男の知識に従えば青年が見せたあれは恐らく、抜刀術と呼ばれる類のものに相違ない。
元は平時に奇襲を受けた際、得物を鞘に収めた状態から即座に対応するための護身術に近いものだったと聞いている。その用途から当然不意打ちに拮抗できるだけの速さ、後手を取ってなお先手に対抗できるような速度を求めていった異色の技法。青年の反応が完全に遅れていたことを鑑みれば場面としては適切な選択だっただろう。そしてそれ以上に、あの一撃はそれまでの動きとは何かが違っていた。
練度が高かった。そう言い換えてもいい。事前の攻防から青年の技量を稚拙と決め込んでいた自分には咄嗟の場で見せられた技に対応できるだけの余地がなく、甘んじて得物を吹き飛ばされる結果を迎え入れるしかなかったのだ。
「……」
思考を整理し終え、老人は再度青年を見遣る。加減なしの蹴り。身体は動かせないものの死んではおらず、意識もあるらしい。その指先、柄を握る腕を含め僅かに身じろぎしているのを見止める。――立ち上がろうとしている。戦うために。
その姿になぜか、清々しさを感じている自分がいることを老人は自覚していた。理由は分からない。有終の美を飾るはずの仕事にて手間を取らされ、暗殺者としての矜持を損なわされた。そのことへの憤りがあっても良いはずだが。
自分の抱いている感覚が何なのか。この歳に至るまで人を殺め過ぎた老人には分からなかったし、分かる必要もなかった。ただふと、歳を取ったものだ、と思う。数十年の昔だったなら、自分は何の躊躇いもなくこの青年を手に掛けていたことだろうに。
不明な感情を受け入れつつ、老人は思う。……使命の意味を考えれば確かに必要はない。元より障害になるのなら消した方がより確実というだけのこと。ならば問題は青年に意識があり、立ち上がる意志があることだろう。事が済むまでに不用意に動かれては困る。時間がないことを踏まえてもこれ以上のロスは避けたい。
――骨を折るか。
左脚を折れば足が潰せる。利き腕を折れば得物が潰せる。どちらにせよ、それは青年を舞台から退場させることに繋がるはずだ。そうと決めれば話は早い。
「……ぐ……ッ」
まだ刀を握っているその腕を掴み上げ、肩を踏み付けるようにして固定する。後遺症を残さぬように折るのは案外に面倒だ。慣れない所作。指に伝わる微かな抵抗を感じながら、探り当てた方向に力を込めた。
――その際、だった。
「……ッ⁉」
首筋に走る強烈な悪寒。思考がその意味を解すより先に、経験に裏打ちされた直感がその正体に目を向けさせる。腕を離し、構えた白刃が月光に煌めく。
「……」
正体を捉えた、男の動きが止まる。……一語たりとも発してはいない。
純真さに溢れた雰囲気。混じり気のない翡翠の瞳。崩れ落ちた身体はそのままで、小柄な体躯のどこにも人を脅かすだけの力は込められていない。先ほどまで恐怖の色を浮かべながら青年を注視していた少女は、何一つ変わることなくそこにいる。そのはずなのに。
恐怖。そう形容するしかないなにかを老人はヒシヒシと感じていた。歯の根を震わせるような恐れではなく、心臓に刃を突き付けられているかの如きそれ。自身が間違えるはずもない。これは、純然たる死の恐怖だ。
違う。変わらないように見えていても少女は明らかに違っている。なにが?
――目だ。凍り付いた時間の中で回答に至る。あどけなさの残る顔付き。その視線に込められた色の無さが、自分をここまで恐怖させている。
――これは、まさか。
縫い付けられるほどの恐怖。その理由に、朧気ながらも答えを見出した――。
「――ッ」
老人が動きを取り戻したのは、自らを取り巻く状況の変化に気付かされた、次の瞬間。
「――っ⁉」
突如として視界に映った影に本能が警鐘を鳴らす。彫像のように凍りついていた意識を強引に引き剥がし、真っ直ぐに顔面目掛けて放たれた拳をあわやというタイミングで躱し切る。二の句も継がぬまま伸ばされた腕に向けて短剣を振るう――が、襲撃者の放った第二の拳。それが刃よりも早く老人の鳩尾を打ち抜いた。
「……ぐっ……っ!」
鈍い痛み。体躯を捻りつつ後方へと跳んで衝撃を緩和。決定打を避けると共に距離を取り、襲撃者の姿を見定める。
「今ので沈まねえか。……タフだな」
口惜しそうにそう言い放ったのは、サングラスを掛けた青年。齢は若いのだろうが、その出で立ちからは一概に青年とは呼べない雰囲気が漂っている。荒事に慣れた者独特の威風。
「……リゲ、ル?」
倒れたままだった青年から、声が漏らされる。疲労の中にもはっきりと表れている、驚きと戸惑いの様相。
「……」
その問いにリゲルと呼ばれた青年は口では答えず、倒れたままの青年、その後ろの少女を一瞥して。
「人のダチをこんなにしやがって――」
男に向いた視線の奥。サングラス越しにも分かる、燃えるような瞳に滾る怒気。
「落とし前付ける覚悟はできてんだろうな? ――爺さん」




