第一節 死闘 前編
――男の右腕が取り出したのは、月明かりを受けて輝く一振りの短剣。
一般に目にするナイフの倍はあろうかと思える刃の長さ。波打つような、炎が揺らめくような奇妙な刃の形状が、ソレが明らかに普通では考えられない用途の為に作られたものであることを教えている。普段の生活の中では決して目にする機会がないであろう、殺しの道具。頭の中で響き渡るのは、一つの日常が壊れる音だ。
「……っ」
フィアと共に数歩後ずさる。……なぜ? 何の目的で――?
脳裏に木霊する疑問群。答えの追求に擬態した逃避は、突き付けられた現実を受け入れまいとする精一杯の拒絶行為。――唐突に。
「――」
男が迫る。音もなく、風と見紛うほどの速さ。一秒にも満たぬ間に間合いを消し去り腕を伸ばした。その切っ先が、向けられているのは――。
フィア――⁉
「ッ‼」
「きゃあッ⁉」
反射的な交錯。俺とぶつかり合った男が飛び退いたのと、フィアの悲鳴が上げられたのとはほぼ同時。傍から見ればそれはまるで、男が悲鳴に弾かれたかのように見えただろう。
「――よ、黄泉示さん‼」
気を取り直したフィアの手が俺を遠ざけるかのようにコートを引く。……応えるだけの気力も俺にはない。今の一瞬を切り抜けられた幸運に、ただ、心臓で息をしていた。
――先の交錯。フィア目掛けて突き出された刃。辛うじて振った腕が持ち手を打ち据えた瞬間、流れるような自然さでもう一方の短剣が俺目掛けて振るわれたのだ。
肌を掠めた回避は正に紙一重。俺を見つめていた感情の無い瞳を思い出す。……不気味さに背筋が凍り付いた直後、男の方が自ら退いた。
無論、この場自体から退き下がったわけではなく、視線の先、現実に男は依然として佇んでいる。……強襲に反応した俺を警戒したのか? 男の眼はどこかこちらの様子を窺っているようにも見える。だが、それが終わったなら――。
「逃げましょう‼ 早く‼」
「……下がってろ」
鼓動が早まる。コートを掴んだままのフィア。背中に汗を浮かべつつ窺うのは、あれを取り出すだけの隙があるかどうか。
「な、なに言ってるんですか⁉ 早く逃げないと! あの人――!」
「……良いから」
……駄目だ。辛うじて答えを返しつつ思う。この視線に晒された状態でそんな行動を取る勇気がない。付け込まれれば一巻の終わり。……そうなれば。
「……フィア」
男から目を逸らさないようにしつつ、彼女に囁くように呼び掛ける。
「バッグから袋を出してくれ。細長い、布の奴だ」
「っ! どうして――‼」
「……良いから。頼む。早く」
仔細を説明している暇はない。ただひたすらに応えてくれることだけを願う。……これ以上ないほどに長い、一瞬の間隙の後。
聞こえるのは震える手でジッパーを下ろす音。なにかを取り出す感触が、次いで背中に伝わってくる。
「……これですか」
「――助かる」
一瞬で鞄を下ろし、急ぎ後ろ手に受け取ったものの感触を確かめる。――間違いない。即座に紐を解いて口を開け、重さで滑り出してきたソレを手に収めた。
「黄泉示さん。それ――」
「……」
フィアが息を呑む。男が眼を細める。構えられたソレを目にした二者の反応は大方の予想通り。腕に伝わる重さを確かめながら、喉元の高さに切っ先を合わせる。黒色で塗り固められた刀身――。
一切の装飾を省かれた柄拵えに鍔と鞘さえ持たぬそれは、紛れもない日本刀。人を切るための道具。千年以上もの昔から殺傷のために生み出された、原始的な武器のカタチをしていた。
「……え? え?」
手渡したものが刀だった事実に理解が追い付いていないのか。
「……危ないと思ったら、すぐに逃げてくれ」
疑問符を連発するフィアにそれだけを言って前に出る。……やるしかない。この男が、こちらを殺しに来ている以上。
――逃亡については先に考えた。あれだけの速さで動ける相手に対し、フィアが逃げ切るのはまず不可能。俺でさえ成否は怪しいだろう。背中を見せるのは自殺行為。
フィアだけを先に逃がす手もある。が、相手に真っ先に狙われたのは俺ではなくフィアの方。足止めの俺が放置されたならマズイことになる。……逃げながら戦うなどという芸当は俺にはできない。フィアがこの場に留まるのなら、少なくとも俺が無事な間はフィアを守ることができる――。
――腹を括るしかない。内心でもう一度自らに言い聞かせる。つまりは俺がこの男を斃さなければ、俺も、そしてフィアも。……殺されるということだ。
「……っ」
――殺される。言葉を思い描いた瞬間、背筋の凍る先の感覚が蘇ってくる。隠された短剣を躱せたのは本当に幸運だった。もし、あれが当たっていたとすれば。
脳裏に浮かんだ鮮やかな情景に手足が戦慄く。……力が上手く入らない。全身が麻痺しているかのような無感覚感。酸欠になったかのように呼吸が早まる。フィアを守らなくてはならない。戦わなくてはならない。それが分かっているはずなのに、息が苦しい。震えが……!
「……ッ……!」
刀の握り。指掌に触れる硬さと冷たさだけを頼りに、握り締める。……皮膚に強く食い込ませた爪。その痛みが、今一歩のところで俺をこの場に引き留めてくれていた。
――俺は、逃げない。
心の中であの日の決意を繰り返す。……もう二度と、見て見ぬ振りをすることはしない。落ち着けとひたすらに言い聞かせながら、フィアを身体で隠すようにじりじりと移動していく――。
「幾許か、覚えがあると見える」
中途。切り込むように届いた言葉に、思わず動きが止まる。……大丈夫だ。俺の動きをキャンセルする意図で声を掛けたわけではない。そうだろうが……。
――見抜かれている。幾許かという、男の発したその一言。応戦体勢を取ったことで少しでも怯んでくれればと思ったが、余りにも甘い見通しだった。
「……何も知らぬ身の上であればとも思ったが」
低い声でそう呟いた、男の気配が一段変化する。夜の冷気が一段と冷たさを増すこの感覚。これは――。
「心得が有るとなれば、是非もなしか……」
殺気。昔父から試しに向けられたモノとは違う、本物の殺意。
「……ッ」
――しっかりしろ……ッ‼
震え上がる歯の根を叱咤する。ここで構えを崩したなら最後、相手に与えるのは絶好の機会。そうなってからでは全てが遅い。なけなしの気力を奮い立たせ、どうにか男の目を睨み返す――。
「――」
瞬時。それまで自然体で佇んでいた男の身体が、前へ傾く。――何を。そんな疑問が生まれたのも束の間のこと。低く前傾を保った不自然なその体勢のまま、地面を滑るようにして突進して来た――‼
「ッ‼」
低姿勢から一切の淀みない運び脚。矢の如く抉るように突き出された切っ先を本能のまま横に打ち払うと同時。
「グッ‼」
――左手を地に付けての回し蹴り。こちらの動きを読んでいたような連撃を咄嗟に引き戻した腕で受ける。肩全体に走る強烈な衝撃。この老人の果たしてどこにそんな力があるのか。両手足に力を込め、何とか体勢を崩さず受けきる――!
「っ!」
痺れる腕で振るう反撃の一刀より、脚は速く引き戻される。全身を躍動させての跳躍はまるで発条。十歩の距離を優に飛び、先ほどと変わらぬ位置に降り立った。――流れるような一撃離脱。手を出す隙がない。だが、なんとか凌ぎ――。
「……刃を持たぬ剣とは、異な物を持つ」
「……ッ!?」
「え――」
男の言葉にフィアが声を漏らす。……意表を突く台詞に、俺の方は声を返すことさえ忘れていた。
――この男の言う通り。
俺が持つ刀。『終月』には、刃が付けられていない。あくまでも鍛錬用の刀なのだ。実戦に用いられる他二振りとは異なり、『雪月花』の中で唯一次代の当主に向けて贈られる一刀。如何なる相手に対しても非攻不殺を本来の心構えとし、技と共に心を磨くためのもの……。
それがこの『終月』だった。本来ならこちらを殺しに来ている相手に対し振り回すようなものでは決してない。……それを見抜かれたということは。
あの男は今の攻防の間に、こちらの得物を観察していた――?
「っ――」
その事実に戦慄する。防ぐだけで手一杯だった俺とは違う。男は今の一撃で事を決めるつもりなど毛頭なく、端からこちらの手の内を見定める意図で動いていたのだ。つまりはここまでが小手調べ。ならば――。
「戦いに、慣れていないな」
――マズイ。過る直感。俺では勝てない。――どうする? せめてフィアだけでも、先に。
「刃を持たぬ鈍など、棒切れにも劣る――」
忍び寄るような嗤い声。フィアに合図を送ろうとした俺の前でほんの一瞬、男が奥に視線をずらした。
「ひっ――!」
――しまった。背後で尻餅をつく音に自らの失態を悟らされる。フィアを射竦められた。ばかりか位置変えも封じられたことになる。自衛の術を持たないフィアにとって俺が唯一の盾である以上、この場から俺が動くことはフィアの死に直結するからだ。
「ッ走れ‼ フィア!」
遅いと分かりつつも叫ぶ――が、背後からフィアが動き出すような気配は伝わってこない。動けないのか? 返事もないことから最悪の場合失神してしまった恐れもある。……それでも後ろを振り向くことはできない。今目を離したなら確実に殺されると、そんな危機感がこめかみにヒシヒシと伝わってきている……。
――くそッ……!
男が向けたのはあくまでも視線だけ。だがフィアにはそれでさえ充分過ぎるほどだったのだろう。たった一つの所作でこの場における自身の優位を確立してみせた。なにもかも、違い過ぎる――!
「――是非も無い」
発した言葉を置き去りに男が駆け迫る。月明かりを受けて輝くのは逆手に握られた短剣の白刃。突進と分かっていても避けることはできない。この場で迎え撃たなくては、フィアが――‼
「――ッ⁉」
衝突。衝撃を覚悟した刹那、眼前まで差し迫っていたはずの男が不意に消え失せる。上――ッ⁉ 弾かれるように見上げた目に映り込む影。捨て身とも言えるその強襲を躱すという選択肢は有り得ない。振り下ろされる刃。刀身を盾に身体ごと受け止める――。
――それもフェイクだったのか。体重を預けられて動きが止まった俺の首筋目掛け、男がもう一方の短剣を振り下ろしてくる。――防げない。この体勢ではどうあっても――‼
「ッ‼」
絶望より前に身体を動かしたのは本能。首元に迫る刃をただ遠くへ。その一心で男に肩をぶち当てた。
「っ! ぬっ……!」
――衝撃。数瞬遅れて耳に届いたのは、なにかを咎めるような舌打ちの音。軽くなった身体に勢い余りたたらを踏む。……辛うじて間に合った。あと少し反応が遅ければ、短剣が背後から俺の首を貫いていただろう。
「……」
まともに体当てを受けながら音一つない着地を決めた男。その双眸に焦りはない。身のこなしも、雰囲気もまるで衰えていない。避け難い疲労感を振り払いながら、俺が再度終月を構え直した――。
「――よ、黄泉示さん――!」
恐怖に震えた声が意識を遮る。……フィア。異様なほど震えたその声に、安堵に先んじて覚えたのは一瞬の疑問。
「っ⁉」
直後。背筋に走る刺すような痛みが、震えの意味を教えてくれる。
「ち、血が……‼」
ヌルリとした感触。――凌いだと思っていた今の強襲。咄嗟に体当たりをかました俺に対し、男は空振りに終わるはずだった短剣を俺の背中に突き立てようとした。吹き飛ばされて中途で体勢を崩したせいで失敗に終わったのだろうが、それでもその刃はコートを貫き、皮膚を浅く裂くまでには及んでいたらしい。
「惜しい、惜しい……」
届く男の声がぞっとするような不気味さを孕んで夜に響く。常に先を行かれている。……このままでは。
――駄目だ。頭の中で響く声。守りに徹しているだけではジリ貧。手遅れになる前に反撃の糸口を見付けられなければ、今度こそ。
思考も直感も頑としてそう訴えてくる。……俺とこの男、彼我にある能力の差は歴然。縋りつくだけで精一杯なのに、どう先手を取れと言うのか?
――分からない。
どうすればこの状況を打破できるのか。俺とフィアが、生き残れるのか。
「……ッ」
痛みで呼吸が荒れる。血が染みだしていく感覚。恐怖に足が震える中で。
ただ俺は。自分の手の内にある得物を、必死で前に構えていた。




