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※旧版につき閲覧非推奨 彼方を見るものたちへ  作者: 二立三析
第一章 新しい日々の始まり
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第三節 フィア・カタスト

 


「ふう……」


 中から鍵を掛けて一息つく。取り敢えず、これで一つ落ち着いた。


 リビングで背負っていたバッグを下ろし、手洗いとうがいを済ませて、手拭で軽く全身の水気を拭き取ってから戻ってくる。――真新しい寝椅子の上で横になっているのは路上に倒れていたあの少女だ。


 相変わらず安らかな寝顔のまま、俺の耳に届くのは微かな呼吸の音。……この部屋に辿り着くまでに何度か腕の上で身じろぎしてその都度ヒヤリとさせられたが、それでもはっきりと目を覚ますには至っていなかった。余程疲れているのか、動く割に眠りは浅くないらしい。


 幸いにしてというべきか。


 少女が倒れていた場所からここまではそこまで距離がなかったこともあり、少女の方は殆んど雨に打たれていなかった。ここまでして濡れさせるようでは何のために苦労したか分からないので、その点は一応良かったと言える。途中で上着を被せたのが英断だったのかもしれない。多少なりとも濡れていれば色々と手間が増えたであろうことを思えば、尚更だ。


「……」


 それにしても――。


 先ほどまで意識のない少女を抱えて疾走するという、不審者以外の何者でもない姿を晒していた俺。ここに着く途中で何人もの人間とすれ違い、その度に胆が冷える思いをしたが、その中にも誰一人として声を掛けてきたり見咎める態度を取ったりするような相手はいなかった。


 あの姿を目撃されていれば間違いなく一悶着はあったはずなので、やはり少女は通行人から認識されていなかったと考えるのが自然だろう。便利といえば便利だが、それがこの少女の異常性を示しているのだと思うと何とも言えない気分になる。――さて……。


 再び少女の方に視線を移す。……どうするか。


 新居に着いたばかりの忙しない身となってみれば、早々に荷物の確認や整理もしておきたい心持ち。大きな荷物は来る前に送ってあったので、今俺の目の前には〝衣類〟〝食器〟などと書かれた段ボール箱が二つほど置かれているわけだが。


 荷物を出すとなると部外者にいられたのでは具合が悪い。やはりこちらの問題を片付けてしまうのが先だろう。事情の説明には少し手間取るかもしれないが、早く起こして出て行ってもらうに限る。


 そう決めて、少女の肩に手を掛ける。……力が入り過ぎないよう、だが先ほどよりは少し強めに、その身体を上下に揺さ振った。


「……おい」

「……」


 揺すられても、少女は何ら反応を見せない。……一応そのまま十秒ほど待ってみるが、そうしていてもその目が開かれる瞬間は一向に訪れない。


「起きてくれ。おい」

「……んむ……すう」


 更に続けて揺さ振る。……しかし、やはり結果は先ほどと同じ。少女は寝椅子の上で微かに眉を歪ませたものの、直ぐにまた寝息を立て始める。かなり疲労が溜まっているのだろうか。


 思えば道中で多少の揺れは加わっていたはずだが、それでも起きなかったということは揺さ振って大した効果がないのも当然かもしれない。途中で起きられていたら面倒どころの騒ぎでなかったのは想像に難くないので、その点では助かったとも言える。


 ──しかし今この状況で起きないというのは中々に厄介だ。これでは話をすることも、出て行ってもらうこともできない。


 ……無理矢理にでも起こすか?


 一瞬そうした考えが頭を過る。だがそんなことをすれば当然、俺に対する少女の印象は悪くなるだろう。所詮赤の他人。多少でも不機嫌にすればなにを言われるか分かったものじゃない。速やかに厄介事を終息させるには、なるべく余計なことをしない方がいい……か。


「……はぁ」


 溜め息と共にそう結論付けると、俺は持ってきた荷物の方に向き直る。……起こせそうにないと分かった以上、今ゴチャゴチャ考えても仕方がない。


 他人のいる状態でやるのは決して望ましくはないが、見られて問題のない物から始めていけばいいだろう。少女のことは一旦頭の脇に置き、ひとまず届いていた荷物の整理へと取り掛かることにした――。







 ――不明瞭な意識の中。


 気付くと一人。私は荒野(あれの)の上に立ち尽くしている。


 これは――……夢?


 辺りを見回してみるが周囲に人の気配は愚か、動植物を含めたあらゆる生き物というものの気配が感じられない。


「……」


 普通ならその状況に不気味さを感じて当然――そうであるはずなのに、私にはなぜかそのことが喜ばしく、心地よくさえ思えているような感覚がある。


 ――ふと、目を向けた前方に身の丈ほどもある何かが刺さっているのを意識する。


 ――それは、剣。


 一切の光を通さない黒色。闇が塗り固められたかのような、飾り気のまるでない無骨な大剣。


 私はそれに近付くと柄に手を掛け、躊躇うことなく一息にその剣身を引き抜いた。


 それこそが私の求めたものであると、そう知っていたから……。







「う……」


 ――テンポよく荷物整理を進めていた俺の後ろから、微かな呻き声が上がったのが耳に入る。その声に荷物を整理する手を止めて立ち上がり、少女が寝ている長椅子の方に足を進める。


「……」


 ――どうやら聞き間違いではなかったらしい。長椅子の上で身体を起こし、目覚めたばかりでどこかぼんやりとした視線を漂わせる少女。寝ている時に見たあどけない表情とは違い……。


 その顔つきはどこか疲れているような雰囲気を漂わせている。どれほど長くかは知らないが、あんな環境下での睡眠では疲労を完全に取るには及ばなかったのだろう。――それとも、何か悪い夢でも見ていたのだろうか? 


 とはいえ漸く少女が目を覚ましたわけだ。早く起きないかとは思っていたものの、いざ起きられてみるとどうしたものか対応に戸惑う。こんなとき、果たして第一声で何を言えばいいのだろう。


「……大丈夫か?」


 数秒間迷った挙句、出てきたのはそんな平凡な言葉。……口にしてから気が付いたが、果たして何が〝大丈夫〟なのか。


「……はい。大丈夫です……」


 ――そんな懸念を余所に、全然大丈夫な状況じゃないと思える少女は律儀にこちらの問いに答えを返してくる。少し間が空けられてから――自分が置かれている状況に気が付いたのだろう。部屋を見渡すと、不思議そうな表情を浮かべて俺に尋ねてきた。


「……あの、ここは……?」


 ――至極尤もな質問だ。少女からすればなぜ自分がこんなところに、しかも見知らぬ人間と一緒にいるのか、甚だ疑問なはず。誤解を招かないよう、まずはそのことを説明しなくてはならない。


「ああ――それはだな。つまり……」


 路上に倒れている彼女を見つけたこと、様子がおかしく声を掛けてみたが反応がなかったこと、何度か起こそうとしたが結局できず、雨が降ってきたので濡れないように彼女をこの部屋まで運んできたこと――等々。


 今に至るまでの経緯をかいつまんで説明する。無論、傍から見れば俺は不審者同然だっただろうなどという、どう考えても不利益にしか働かない曖昧な推測は省いておいた。


「そう……だったんですか……」


 静かにそう呟く少女。……こちらの言うことを信じてくれるかどうかという、その段階がまず不安だったが、この分では少なくとも不審に思われているわけではないようだ。


 俺の話に時々頷いていたところを見ると、自分でも倒れる直前くらいまでのことは覚えていたのかもしれない。これなら案外スムーズに事が運べるか……。


「……ところで、体調は大丈夫なのか?」

「?」

「ああいや、大丈夫ならいいんだが、気を失う直前、やけに辛そうに見えたから――」


 つい気になって訊いてみただけなのだが、何のことか分からない、といったような表情を返されて狼狽えてしまう。俺の言葉に少女は少し考える素振りを見せたあと、ああ、と納得したように頷いて喋り出した。


「……はい。とても苦しかったのは覚えていますけど、今はもう大丈夫みたいです」

「……そうか」


 原因が何なのかは今一つ分からないが、本人が大丈夫だと言っているならそれでいいか。……体調も問題なし。意識もはっきりしている。事情も説明したことだし、そろそろ――。


「――わ」

「あ、あの……」


 出て行ってもらうよう言おうとしたところで、思わぬ声掛けに出鼻を挫かれる。


「……助けていただいて、ありがとうございました。……えっと……」


 何を言われるのか予想できずに身構えていた俺に、丁重に礼を述べ、頭を下げてくる少女。顔を上げ、固まっている俺を前に言葉を続けようとして――そこで詰まってしまう。


 どうやら俺の名前が分からず困っているようだ。助けを求めるような視線がこちらに向けられている。


「……蔭水黄泉示だ」


 その視線に同情したわけではなかったが……名乗らないのも不審かと思い、そう口にする。どうせ直ぐに別れることになるのだ。一々名乗るのも無駄だとは思うものの、このまま黙られていても空気を悪くするだけ。


「は、はい。黄泉示……さん」


 そんな風に思っている前で俺の名前をもう一度繰り返すと、彼女は気が付いたように付け加える。……なぜか名字でなく名前で呼ばれたのが少し気に掛かる。どの道すぐにいなくなる相手なのだから、どうでもいいといえばいいが――。


「ええと、それで……あっ!」

「っ⁉」


 少女が挙げた声に不意を打たれる。――何だ? まだ何かあるのか?


「……すみません。私、フィア・カタストと言います。よろしくお願いします」


 またのお辞儀と共に、大切な作法を忘れていたかのような慌てがちな態度で告げられた名前。……正直なところどうでもいい。少女の名前を聞こうという腹積もりは全くなかったし、尋ねるのを忘れていたくらいだったのだが。


「……よろしく。カタスト――」


 慣習というものはどうしようもない。――さん。と続けようとして止まる台詞。その言い慣れない響きの苗字に違和感を覚えたせいか、何にせよ、尻切れトンボで台詞を止めるのは良い状態ではなく――。


「フィア、でいいですよ」


 そんな俺の様子から察してか、今度は彼女の方から出された助け舟。……ここは素直に受けておくとしよう。


「……分かった。よろしく、フィア」


 そう答えると少女――フィアは、俺に向けて軽く微笑んだ。暗闇の中に咲く一輪の花のような笑顔に、一瞬意識を惹き付けられ。


 ……何をやっているんだ、俺は。


 こんなことをしている場合じゃない。早く出て行ってくれるように言わなければと内心頭を振る。言葉を交わして人となりを知れば知るほど、そのことを告げ辛くなるのは目に見えている。このまま会話が続けばそれは益々顕著になるだろう。


 だが、目の前の少女。その美しさ、可憐さと共に、彼女が身に纏うどこか儚さを感じさせる雰囲気が。俺にその宣告を口にすることを躊躇わせている。迷いを重ねた挙句に。


「……いいのか?」

「えっ?」

「親や友人は、今頃心配してるんじゃないか?」


 絞り出した言葉は。親しい人間が心配していることを仄めかせば自分から出て行ってくれるだろうという、そんな情けない算段から出されたものだった。潔さの欠片もない。だが、ともあれこれで。


「――」


 ――そんな淡い期待が崩れ去ったのは、フィアの表情を目にした瞬間。


 不意を撃たれたように、いや、まるで意識していない急所を突かれたかのように、その愛らしい笑みが強張り、凍りつく。先ほどまでとは余りに掛け離れた虚無的な表情。


 彼女にとって何か決定的な質問を投げ掛けてしまったことに気付くが、言葉を紡ぎだすだけの余裕がない。ただフィアのその顔に眼差しを向けたまま、変化が起きることを待っている自分。僅かな沈黙のあと――。


「……思い、出せないんです……」


 ――開いた彼女の口から発せられたのは、俺の予想の斜め上を行く回答だった。


「母の名前も、父の顔も、親しい友人のことも、……何一つ……」


 胸に(つか)えていたものを吐き出すように。唖然とする俺の前で、フィアは更に言葉を重ねていく。


「……そもそもどうして私は町を歩いていたのか、……その前に、私が何をしていたのか……全く思い出せません」


 有り得ないほど澄んだ声で語られるのは自己の物語の不在。普通の人間であれば、誰もが持っていて当たり前なはずの、その極々有り触れたはずであるものの、決定的な欠如。


「私は、……誰、なんでしょう?」


 それが俺の目の前に立つ少女。フィア・カタストが自分は記憶喪失だと告げる、決定的な台詞だった。





「――つまり、自分の名前以外には覚えていることがない……と」

「はい……」


 ソファーに座り話を聞く。あのあとで彼女、フィアが話してくれたことを纏めると、大まかに言って次のような内容になる。


 胸の奥に酷い痛みを感じながら町をふらふらと歩いていたが、途中で耐えきれなくなって意識を失ってしまった。途中で一旦目が覚め見上げたときに、誰かと目が合ったような気がする。そしてまたそのまま意識を失い、次に目覚めたときにはこの部屋でソファーに寝かされていた。


 今は頭痛もなく、意識もはっきりしているのだが、どうして町を彷徨っていたのか、それ以前に何があったのか、どこでどんな風に生活していたのか……などの記憶が、頭からそっくり抜け落ちてしまったかのように思い出せない。


 ――何度聞き直しても、記憶喪失と呼ぶしかない症状だった。日常的なこと、常識的なことなどは忘れていないようだが、個人的な情報の殆んどを覚えていない。自分について分かるのは、僅かに名前のみ……ときたものだ。


「本当に何も思い出せないのか?」

「……はい。ごめんなさい……」


 暫し懸命に記憶を探るような表情を見せたあとでそう告げられる。声に表れているのは不安そのもの。到底嘘を吐いているような感じには思えない。やはり名前以外に何も、彼女の素性を探る手掛かりがないということか。


 ――どうしたものか。


 やはり自分自身のことが分からないというのは相当不安なものなのか、いつの間にかすっかり項垂れてしまっているフィア。そんな彼女を視界の端に捉えつつ、俺は改めて考えを巡らせる。どうにかしようにも、名前しか分からないのでは――。


「そうだ。携帯とか、身分証なんかは持ってないのか?」


 俺の言葉にフィアはハッとしたように顔を上げると、すぐに服のポケットを探り始めた。なにも記憶だけに頼る必要はない。それらの品さえあれば、そこから彼女の身元を知ることができるはずだ。


「……あ、あの」


 そんなことを考えていた俺の前で、フィアがおずおずと何かを差し出す。――この国のものと思われる数枚の硬貨。見ただけで大した額でないと分かるようなそれが、電灯の光を受けて精一杯のくすんだ輝きを放っていた。


「……なしか」

「はい。……すみません……」


 一段と沈んだ声音。一瞬射し込んだ光明を即座に奪われたことで、ますますフィアの気持ちが沈み込んでいるよう。さっきから繰り返されている謝罪もそんなフィアの心情を示しているのだろう。記憶喪失という点から見ればフィアはただの被害者で、謝る理由など一片もないのだが。


「……」


 ――被害者。頭の中に浮かんだそのフレーズを反芻する。


 まてよ、これは、もしや……。


「……」

「あ、あの……」


 ――いつの間にか顎に手をやり、考え込む姿勢を取っていた俺に向けて。不意に、それまで沈み気味だったフィアから声が掛かる。


「……どうした?」


 向けられた呼び掛けに一旦思考を中断して受け答えする。落ち込んだ様子の彼女から声が掛けられるとは思っていなかったので、少し意外だ。見れば……。


 今もその表情には不安そうな感情が表れていることには変わりがないものの、先ほどまでとは違って何かを言い出そうとして迷っているような気配が見て取れる。……何か思いついたことでもあったのだろうか。


 自分に関わることを思い出した、というのなら大歓迎だが、様子を見るにそう言ったわけでもないらしい。


「そ、その……こんなことを頼むのは、本当に申し訳ないんですが……」


 そう言って更に声のトーンを下げるフィア。記憶喪失だということを言い出したとき以上に深刻なその口調に、身構えていなかった俺も真剣に彼女の言葉を聞くことを余儀なくされる。……何を言おうとしているんだ?


 まるで見当が付かない。ただ、彼女が口にした〝本当に申し訳ない〟というフレーズにかなりの不安を覚えつつ、フィアがその先を言葉にするのを待つ中で。


「……っ」


 ――更に数秒を掛けた逡巡のあと、意を決したように彼女は顔を上げると、はっきりと聞こえる声でこう言った。


「わ、私を、――ここに置いていただけないでしょうか?」



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