第十五節 オールド・パル 前編
「……」
俺たち二人の輪にリゲルが加わって、暫く。授業の慣れも進み、昼飯はリゲルと共に。時間帯が合えば途中までは一緒に帰るという、そんな新しいルーティーンが出来上がりつつあった。
――だが問題というのはそんなとき、常に唐突に起こるものだ。
「――おい」
昼休み。授業が十分ほど早く終わったため、リゲルの教室まで迎えに来た俺たちに聞こえてきた声。
「もう一遍言ってみろよ、てめえ」
ただならぬ声色に扉のガラスから教室の中を覗き込む。付き合いのある俺たちでなくとも、聞けばその声の主が深い怒りの最中にあるということが分かっただろう。
「……何の話だ?」
教室の中央に見えるのはリゲル。机の上に置かれた叩き付けられたとおぼしき手。その正面に座っている、眼鏡のあの男は……。
「誤魔化してんじゃねえよ。テメエが俺のことバカっつってんの、はっきり聞こえたぜ」
以前、グループ発表の授業で見た学生だ。リゲルに詰め寄られながらも、眼鏡の奥の瞳は依然として冷静さを保っている。……揺るぎない眼の光。
「悪いな。君がそこまで地獄耳だとは知らなかった」
「え、え~。今日の授業は、ここまで……」
リゲルが絡んでいるからか。授業を行っていた教授は慌てた素振りで終了の合図を出すと、二人を止めることなくそそくさと教室をあとにする。学生たちも各々急ぎ帰り支度を整え、素知らぬ振りで外へと出て行った。
「謝れよ。テメエがどんだけ利口なのかは知らねえが、暴言聞かされて気分の良いもんじゃねえ」
「下らない質問をされると時間の無駄だ、ということだ。今までの授業を聞いていれば分かるようなことを、一々何回も教師に訊くな。真面目に聞いている人間にとって迷惑だ」
「これから真面目に聞こうとしてんだろうが。仮にテメエの言った通りだとしても、他人を馬鹿呼ばわりする理由には――」
「――リゲル」
刃の応酬のような会話を無理矢理にでも割るように声を掛ける。俺とフィアの姿を認めたリゲルは、小さく舌打ちして。
「……次はねえぞ」
凄みを聞かせて踵を返す。教室からの去り際。
「――碌に授業も聞かずに一年を棒に振ったような人間が」
飛ばされてきた声。
「今更真面目にとはな。精々、またの留年がオチだろう」
「――ッ」
追い討ちに、リゲルは一瞬、素早く振り返ろうとしたが。
「リゲルさん……」
「……チッ」
見つめるフィアと俺。掛けられた声に、踏み鳴らすようにして外へと出た。
「――っあー!」
電灯の照らす廊下から日の当たる広々とした外へ出つつ――一息を吐く代わりに、ガス抜きのように声を発するリゲル。
「マジムカつく野郎だぜ。すかした面で見下してきやがって、特待生がんな偉いってのかよ」
「――特待生なのか?」
……確かにあの態度は傍から見ていてもどうかと思ったが、悪態を助長させるのも上手くないので、そちらの方に食いつく。
「ああ。別の授業でもあいつがいる授業があって、そこで他の連中が噂してんの聞いたからな」
リゲルから聞くところによると、入学時に設けられた専用の試験をパスしてきているらしい。学年に二人しかいないということなので、勉強の方は相当にできるのだろうが……。
「〝一人でやれます〟~ってよ。天才だか何だか知らねえが、厭味ったらしいったらないぜ」
「そ、それよりも――」
延々と続けられそうな悪態を、フィアが切ろうとする。
「今度夕飯に行こうって話……お店は決まったんですか?」
「――おう、それな!」
その話を振った途端、打って変わってリゲルの表情が明るいものになった。
「昔っから通ってる一押しの店があんだよ。値段も高くねえし、二人とも洋食が大丈夫ならそこにしようと思ってんだが」
「なら、そこにするか」
フィアも頷く。学園や家の辺りはある程度散策したとはいえ、俺たちが知っている店の数は少ない。昔から地元に住んでいるリゲルお勧めの店があると言うのなら、是非とも訪れてみたかった。
「予約しとくぜ。時間は――」
――すっかり日の落ち切った夜。
「よう!」
事前の約束通り、俺とフィアはギムレットの前でリゲルと合流する。いつもと変わらないスーツ姿は夜でもそれなりには目立つので、見間違えることはなかった。……というか、夜なのによくサングラスを掛けて見えるな。
「この時間でもサングラスなんですね」
「おうよ。基本、外にいるときはずっと着けてんだ」
「遠いのか?」
「いや、割と直ぐだぜ。ちょいと裏道に入って……」
言葉通り。目だたない裏通りに入り、五分ほど歩いたところでリゲルが立ち止まる。
「ここだぜ。俺一押しの店、『オールド・パル』だ」
「ここが……」
言われて外観を見回してみる。年季の入った木製の扉。磨かれたカンテラが古びた木の色を仄かに照らし出している。窓には厚手のカーテンが掛かっていて、中の様子は全く見えない。仮に一見客だとすれば、入らなかっただろうが……。
「――」
今は常連が一緒だ。躊躇いなくドアを開けて中に入るリゲルに続いて。俺たちも店内に足を踏み入れた――。
「いらっしゃいませ。ガウス様」
「……!」
中に入った途端、いきなり会釈する店員に出迎えられる。汚れ一つない真っ白な白衣に、きっちりと首元で締められたタイ。凄まじく丁寧な対応だが、なんだろう。なぜかどこか違和感がある……。
「お待ちしておりました。お久し振りです」
「おお、久し振り。相変わらずごっついな!」
リゲルとは顔なじみらしい。その台詞に顔を上げた店員を見て、わけが分かった。……肩幅が凄いのだ。リゲルも筋肉質な方だが、その倍くらいある。軍人かプロレスラーのような滅茶苦茶がっしりした身体つきだ。
「……凄く素敵な雰囲気ですね……」
耳に入る耳に届いた言葉に目を遣った店内の光景は、外から見た印象と違って明るい。明る過ぎずの際を睨んだと思える絶妙な照明。
各テーブルに置かれた小さな硝子容器の中ではキャンドルが燃え、席に小さくも暖かな遊びのある光を投げ掛けている。床や壁に描かれた簡素な装飾は決して豪奢ではない。だがどこを向いても上品で温かみのある内装からは、この店の居心地の良さが充分なほど窺えた。
「だろ? ここは子どもんとき親父に連れて来てもらった店でよ。確か戦前からあるんだったよな」
「はい。開業して、今年で一〇七年になります」
「……!」
――一〇七。
思わずもう一度店内を見回してしまう。内装は当然変えているのだろうが、そう言われてみれば確かに覗く床壁の一部は古い時代の空気を纏っているような感じもする。それだけの歴史が、この店内に凝縮されているのか。
「凄いですね……!」
「ありがとうございます。――ところで、お連れ様方は……」
フィアの感想に応えつつ。尋ねるように店員が横目で、リゲルを見た。
「ああ。俺のダチだ。二人ともな」
「……!」
一瞬。その言葉にほんの一瞬だけ、店員は驚いたように見え。
「――そうでしたか」
直ぐに元の様子に戻り。それから、一際大きく顔を綻ばせた。
「挨拶が遅れまして申し訳ありません。私、料理長のアレンと申します」
「あ……蔭水です。よろしくお願いします」
「フィ、フィア・カタストです。よろしくお願いします」
「二人ともんな硬くなんなっての」
畏まっている俺たちを見てリゲルが笑う。そうは言うが、まさか料理長だったとは。てっきりガタイの良い給仕かと思っていた。よく見れば確かに普通なら着ていそうな上着を着ていないし、白い服装はコックのそれに見えなくもないが。
「今夜は是非楽しんで行って下さい。席はあちらを用意してあります。どうぞ」
そのまま料理長直々に案内される。……床は木造りだ。学園の物とはまた違って感じで響く足音、質感が心地いい。
「こちらです」
示されたのは四人掛けのテーブル。それぞれの席の前には立てられたナプキンとワイングラスが置かれている。どう座れば……。
「俺が手前に座るから、二人は奥に入ってくれよ」
「分かった」
疑問に思ったタイミングでリゲルがそう言ってくれたので、有り難く乗っかる。並び順で俺、フィアと入り、俺の対面にリゲルが腰を下ろす。座り心地も良い。丁度良い硬さのクッションだ。
「どうぞ」
手渡されたメニューは両開きで、捲るページはそれ以上ない。飲み物のメニューか。
「お決まりになりましたらお声掛け下さい」
では、とにこやかな表情で去っていく料理長から目を移し――。
「取り敢えず水は一本入れとくとして……酒とかいってみるか? 記念によ」
「お、お酒ですか?」
言われてみれば。確かに飲める年齢ではあるが。
「あんまり気が進まないな。悪いけど」
「私も……」
「そうか。ま、一応訊いただけで俺もそんな好きなわけじゃねえから、素直にソフトドリンクにしとくか」
フィアは正確に言えば年齢不詳だし、危険を冒すことはないだろう。各々手元のメニューと睨めっこする。少ししてから。
「……この、ハーブティーにしてみるかな」
中は暖かいが、外は寒いし。水も頼むなら暖かい飲み物の方が良い。
「俺はコークにするぜ」
「私は、林檎ジュースで……」
「よし。なら頼むぜ」
手を上げるリゲルにウェイターが寄ってくる。注文を聞き、代わりに手渡されたのは黒皮のより重く分厚いメニュー。
「次は料理の方だな。アラカルトで適当に頼むって感じで良いか」
ページを捲りつつリゲルの声を聴く。パスタ、ピザ、その他にメイン……割と見覚えのあるものもあるし、名前の下には主な原材料、一行ほどの説明が載っているので大体は分かるが。
「――意外と安いんだな」
何よりもまずその値段に驚く。流石にいつも食べているような店よりは高いものの、驚くほどの値段はない。店に入ったときの雰囲気からして結構高いことを覚悟していたので、ほっとした気分だ。
「〝そこそこのお値段で上質な料理を〟ってのがここのモットーだからな。昔からそこまで値段も変わってねえし、その辺には拘りがあるらしいぜ」
「へえ……」
頷く。結構良心的な店なのかもしれない。
「……えっと、何がお勧めなんでしょうか」
手に取ったメニューをパラパラ捲りつつ、そんなことを訊く。……色々あるみたいだが、常連と思しきリゲルに訊くのが手っ取り早いだろう。万一外れを頼みでもしてしまったら目も当てられない。
「この店はどれも旨いからな。好きに頼んでくれて大丈夫だぜ」
「……そうなのか」
そう言われると初めてくるこちらとしてはチョイスに迷う、というのが本音だが……。
「――パスタでしたら、ボロネーゼは特別お勧めですよ」
「っ」
何時の間にか近くに来ていた、料理長。ごつい身体ににこやかな笑顔で。
「お飲み物をお持ちしました。――ピザでは名物特製チーズのピザ、肉料理では本日はカモとシカ、魚料理でしたら――」
流れるような台詞と共に頼んだ飲み物がそれぞれの前に静かに置かれていく。淀みのない所作。料理長でありながらウェイターのそれより素早く堂に入っている辺りがまた感心させられる……。
「――じゃあ俺はその、ボロネーゼで」
「私はスズキのムニエルをお願いします」
「俺はシカにするぜ。美味そうだしな」
「畏まりました」
それぞれ一品ずつメインの品を注文。サラダなど他に幾つかのサイドメニューを頼み、軽く乾杯してハーブティーを口にする。……複雑で芳醇な香りだ。多くのハーブが使われているだろうに、風味がきつくなくて飲み易い。隣のフィアは。
「美味しいです、この林檎ジュース……!」
「飲み物の素材についても拘ってるみてえだからな。このコーラもうめえよ」
想像を超えていたのか何やら感動した様子のフィアに、グラスに注いだコーラを飲んでいるリゲル。いや、それの素材に関しては拘りようもなにもなくないか? 一応、ちゃんと瓶で出てきたとはいえ。
「……ふう」
「……」
「それにしても……」




