第四十一節 滅世者
「ぐ――ッ‼」
勢いに押され、振り抜いた終月を取り落とす。……右腕が。手首から先が消えかけ、緩んでいる。
――いや。右腕だけではない。
気付いてみれば全身が。……絶無を受けたためか身体が緩み、崩れかけている。中心にはまだ濃度を保てているものの、四肢や末端はかなり薄い。だが。
――生きている。
そのことに真っ先に浮かぶ疑問。……生命力を全て注ぎ込んだはずだ。命など端からくれてやるつもりで、あの一撃を放ったのに。
もしや、これは。
「……っ」
仕方のない想像を取り置いてどうにか気を取り直す。……【一刀一閃】は確実に命中した。ヴェイグの魔術を切り開いて突き進み、その身を捉えた手応えが確かにあった。この一撃による損傷は治癒不可能。ヴェイグがどんな技法を取得していようとも、防ぐことはできなかったはずだ。
「……」
少しずつ。少しずつ侵食が進み、手足の濃度が戻ってきている。その侵食も食み切っている様子がない。期せずして与えられた思わぬ猶予に、途方にくれた。
「――がァッッ⁉」
その間断を断ち切る強烈な痛み。赤銅に滾る炎の槍が、俺の脚を大地に貫き止めている。
「ッッ――‼」
爆炎の如く迫る闘気に翳した――両腕を削り取る斬撃。重さを感じない風の刃。肉片と血飛沫の飛び散った、その後ろから。
「……しぶといね。【失われし楽園】を受けておいて、まだそれだけの強度を持つとは」
目の前に立ち現われる影、ヴェイグ・カーン。……胸胴へ真一文字に走る裂傷。腕は辛うじて骨で繋がり、深く切り裂かれた肉からは赤黒いモノが見え隠れしている。――両断まで至っていなかったのか。ヴェイグの魔術が威力を殺されたのと同様、俺の一撃も勢いを削がれていた――。
「っ……!」
炎の槍はもう消えている。反撃に手足を動かそうとして――気付いた。
……円環が作動しない。限界を超えるための身体が、余りにも崩れ過ぎている……。
「僕は負けられない。――待っていたよ。君の剣と守りを同時に崩せる、このときを――‼」
電光を帯びた徒手による猛攻。普通なら動かせないほどの深手を物ともせず、身を穿ち抜くような痛烈な打撃を叩き込んでくる。血飛沫が飛び、血と交じり合った汗が飛ぶ。……マズイ。完全に、削り取られて。
――力を失った体躯が、かしずくように頭と腕をだらりと下げた。
「さようなら黄泉示くん」
絶好の機を見据えてヴェイグが構える。それでもなお動けない。繰り出される攻撃を。
「せめて向こうでは、良い夢を――‼」
伸ばされる指先。喉を掻き切ろうとする熊手。……ただ、目にしているだけ――
「――」
――死ぬ。
死が迫る。迫っている、死が。動けない。駄目だ、動かない。動くことができない。俺は、俺が――
……―― 俺 で は。
「……」
……思い出せ。
心の内側で声が響く。俺は、目にしてきたはずだ。
どんな相手だろうと前に出る、――リゲルの。
あの、拳を――‼‼
「――」
――脚が伸びる。
大地を掴む。踏み締める。伝えられた力が腕を押す。擦れる感触。抉るような指と爪が、徐々に逸らされて。
――握り締めた俺の左拳が、ヴェイグの顎元に減り込んだ。
「なっ……!」
クロスカウンター。――脳と共にヴェイグが揺れる。首横から噴き出る血を意に介さず、前へ――‼
「ッッ‼」
右わき腹。強化を受けて抉り込むように撃ち出されたヴェイグの蹴りが、空を切る。驚愕の理由は目線のフェイント。ジェインから学び取った動き。踏み込んだ身体を一息にずらし、逆を突いた。懐に潜り込んだ瞳に映るのは、確かな隙。
……フィア。
体幹に強く引きつけるのは指腹を僅かに曲げた手刀。【一刀一閃】の構え。
……そうだ。
朝日のように輝く魔力が収束する。俺の心身を喰らい焼き尽くしていく、その熱を全て乗せて。
――強化魔術とは、こんな風に。
――誰かと支え合うように、巡らせるのだ。
「――ッッッ‼」
振り抜いた腕が火炎を断ち割る。顕にされた目の前の男へ、ただ偏に。
――渾身でその一撃を、叩き込んだ。
「……ッ」
……耳鳴りが聞こえる。
勢いのままに振り切った腕。覚えた重さは中途で消え、ドシャリとした鈍い音が響く。倒れ込んだヴェイグは動かない。ただ、時間だけがなだらかに過ぎてゆき。
直後に明らかな変化が、場に訪れた。
「……」
……消えていく。
法陣の光が。ヴェイグが生涯を掛けて重ねて来たものの残滓が、少しずつ。
「……」
走る光の線を追うようにして近付く。戦いが終わっていることは、もう、分かっていた。
「……なぜだ?」
捉えた瞳に映る――歪んだ十字に刻まれた、傷口と打撃痕。上を見る両目は開かれてはいるものの、立つことはできない。俺と同じように精根を使い果たしたその目元には、少しずつ皺が刻まれていっている。
「……僕は見てきた。人の起こす地獄を。人を磨り潰す地獄を。……終わることのない、血と、涙の生誕を」
届くヴェイグの声はしゃがれ、まるで、疲れ果てた老人のようだ。
「誰もが笑い合えるような。……そんな幸せな世界は、ユメだろう」
紡がれるその言の葉を、静かに聞く。
「だとしても、地獄は紛れもない現実だ。僕たちの前には確かに、それがある」
言葉を声にする度に流れ出していく血潮。どこにも染み入らない血液は溜まりを作り、彫られた溝に流れとなって落ちていく。
「彼らが幸せに生きていける世界を作りたかった。……それを諦めることを、受け入れた」
吐かれる長い溜息は、遠い昔の諦めを形にしたようで。
「地獄をなくすことでさえ諦めなければならなかった。……それは耐えられない。受け入れられない。僕には……」
聞こえるのは微かな息。……差し込まれる沈黙が一時、場を空けた。
「……見ない振りをすれば良かったのか? 諦めて受け入れて、そうやって切り捨ててしまえば良かったのか?」
そう呟いて。果てしなく高い空を見ているようだった瞳が、俺を向く。
「……君ならどうした? 黄泉示くん」
「……」
不意の問い掛けにも動揺はない。ただ己の芯から。骨髄から応えられる言葉を探した。
「……俺は、抗う」
見つめる瞳に向けて、語る。……俺たちが出会うのは、問題性一般ではない。
「声を上げる。……手を差し伸べる。俺の前に、地獄があり続ける限り」
「……何も変わらないとしても、かい?」
個々の問題、個々の地獄だ。微かに口元に浮かぶのは、皮肉気な笑み。その一瞬だけ、ヴェイグにかつての生気が戻ってきたように感じられた。
「僕らのなにがどう変わろうとも、地獄は形を変えてあり続ける。だからこその、滅世なんだよ」
「……俺たちがそうだとしても」
できる限りだけ、躱さない為に。
「……変われないかどうかは、分からない」
――いつか、と言う言葉を使うのは卑怯だ。
不可知や奇跡を前提にした語りは、何もかも時に無為にしてしまう。
……だが、それでも。
「俺たちには、抗い続けるしかないんだ」
それでも、言わなければならなかったのだ。
俺の中でこの男に応えられる言葉はもう。……それしか、なかったから。
「……結局は」
静寂にも似た沈黙の後に。
「結局はそこを、捨てずにいけるかどうか……か」
結ばれていた唇が、抉じ開けられるように開く。
「僕にはもう、思えなかったよ」
「……ああ」
その来歴の一部を見ただけでも分かる。俺が出した答えなどには、とっくの昔に辿り着いていただろう。
自分が正しいなどとは露ほどにも思っていない。出会った中にはきっと、そうでないこともあったはずだ。
ただもう、そのようにしか思えなかった。
思えざるを得ない状況に立たされた。それを作り出すのが世界であり、人と呼ばれる俺たちなのだ。
だから――。
「……狂うことによってしか、認められない地獄」
ひたすらに聴く。目の前のヴェイグの声が、擦れていく。
「君の意義付けが、あの中でどれだけの意味を持つか……」
か細くなっていく。確かに俺を見ていたはずの眼の焦点は合わされていず、瞳は虚ろ。
「答えの出る日は、永遠に来ないのかもしれない……」
掛ける言葉は、ない。
俺はただ。……生命尽きていくその姿を、見送っている。
「……さようなら黄泉示くん」
意図的に力を込めただろう声。それさえも既に、死人のように弱々しい。
「せめて、今 だけ は……」
途切れ途切れの羅列が続く。殆んど力は残っていないのだと、傍目にもそれがよく分かった。
「……良 い、夢を――……」
言い切った言葉の終わり。生命を吐き出すような、長い息が。
「……」
――途絶えた。呼吸は完全に止まり、唇は閉じかけたまま一切の動きを見せていない。……沈黙がただ過ぎていく。俺が口を開かない限り、締め括るのは静寂だけ。
「……さようなら」
それを確かめてから、乾いた舌で鉛のような喉を開けた。
「ヴェイグ・カーン」
唇を閉じて何時まで待っていてみても。目の前の死体から、応えは無かった。




