第三十節 夢の終わり
「――いよし! 今日の授業終わり‼」
終礼の鐘の音が鳴った途端に叫びを上げたのはリゲル。講師や他の学生が視線を向けるのも気に留めず、大きく伸びをする。……こういったところは、リゲルの強みの一つだと思う。
「いきなり声を上げるな……いい迷惑だ」
「授業は終わってんだからいいだろ別に。帰ろうぜ、黄泉示」
「ああ。……ジェインが――」
「待て。僕もすぐに――」
「いいからいいから。遅い奴はほっといて、先行こうぜ先」
肩を組まれ、強引に引っ張り出される形で外へ出された。――歩きながら待ってるから、と、手を上げつつ教室内に一言を残して。
「――今日はフィアは一緒じゃねえのかよ?」
後ろを気にしつつゆっくりとしたペースで歩く中。頭の後ろにやられた両手。腕にぶら下がる鞄を揺らしつつ、訊いてくるリゲル。
「ああ。なにか、用事があるとかで」
――今日のフィアは珍しく、というか学園に通うようになって初めて、最後の授業の前に早引けしていた。
申し訳なさげにその旨を口にされたときは驚いたものだったが。フィアがいい加減な動機で授業を休むことはないと、それを分かっていたから直ぐに頷けた。済みませんと言って、急ぎ足で帰って行ったあの後ろ姿……。
「……気になると言えば気になるけどな」
「ま、フィアにもそういうときくらいあんだろ。人間なわけだしよ」
そうだな、と。相槌を打ったところで暫し会話が途切れる。夕日に染まった景色の中で、静かな喧噪と共に行き交う人々。……こんな他愛もない日常が、ずっと続いていくのだろう。
そんなことをふと思えるような感覚。それにしても。
「――なあ黄泉示」
ジェインは遅い。筆記具を片付けるだけにしては時間が掛かっているなと、俺が教室の方を少し気にしたとき。リゲルから掛けられた声に、意識を前に向かせた。
「俺が一番幸せな時って、どんな時だと思うよ」
「――え?」
唐突な質問。意味が分からずに、返答に詰まる。……幸せ?
「どういう――」
「いやまあ、んな重い質問でもねえから。気楽に答えてくれねえか? クイズ感覚でよ」
「……」
いい笑顔でそう言われてしまい、少し考える。……幸せか。
「仲間と一緒にいるとき……とかか?」
「あー、惜しい。ちょっと違えな」
ほんのちょっと、と。俺の答えに対し、親指と人差し指とでスケールを示したリゲルは。
「それはな。――ダチが、笑ってんのを見るときだ」
照れもせず、俺ではない正面を向いて、そう言った。
「ダチになった奴が楽しそうにしてんのを一緒に見てる。そいつが俺の、幸せなのさ」
「……」
「――おい!」
恐らくは本心だろう。唐突に口にされた語りに反応を迷った最中、背後から響いてきた声に振り返る。――ジェイン。
「お、早かったじゃねえか」
「ふざけるなこのゴリラマフィアが」
悪態をぶつけつつやや切らしていた息を整える。横を通り過ぎる自転車に一瞬眼鏡の奥の目を遣りつつ。
「――で、何の話をしてたんだ?」
「いや……」
「そろそろ行こうって話だよ。もうじきだろ、時間」
どう言ったものか。言いあぐねた台詞をカバーしたのは、当のリゲル自身。……時間?
「……ああ、なるほど」
そうだなと言いつつ、ジェインがポケットから取り出した懐中時計を見た。シャラリと鳴る金の鎖。俺は特に何も聞いていなかったが……。
「なら、あとはカタストさんに任せるか。それが適任だろう」
「ま、そだな」
「……何か用があるのか? 二人とも――」
「――諦めるなよ、蔭水」
何気なく訊いた事柄に、言われた台詞は脈絡もなく。
「終わる世界なんてない。君たちのお陰で、僕も少しはそんな気になれた。手前勝手な話だがな」
「……ジェイン?」
「いや……なんとなく言いたくなっただけだ。済まないな」
「おいおい……んなときだけ下手糞かよ。眼鏡のくせに」
「お前に言われたくはないし、眼鏡は関係ないだろうがこのグラサンが」
「丁度いいぜ。――俺のグラサンとテメエの眼鏡。どっちが上かここで決着を付けとくか?」
何だか分からないが、やはり用があるらしい。いつもの調子で言い合いガンをくれ合った二人は、どちらからともなく舌打ちをして顔を背け。
「――じゃあな! 黄泉示」
郷愁を覚えさせるような茜色の光に染まった景色の中で。俺とは別の方角に足を向けたリゲルが、大きく手を振り出す。石造りの道路に伸びた影。
「フィアが待ってんだろ? 早いとこ帰ってやれよ」
「相手を待たせるのはいけない。君と、カタストさんの仲でもな」
「……そうだな」
尤もな指摘に息を吐く。今日はもう予定もない。真っ直ぐ家に帰るとするか……。
「さらばだ、蔭水」
「ああ、また――」
違う道を歩み出した二人が遠ざかっていく。手を振る俺に答える、二人の表情は。
笑顔のはずなのに。……いつもより少しだけ、淋しさを含んでいるように見えた。
「……ただいま」
家に着き。玄関に入ったところで声をかけ、靴を脱ぐ。うがい手洗いと滞りなくルーティーンを済ませたのち、鞄の重みを感じながら歩いていく廊下。リビングへ。
「――あ、黄泉示さん」
入った俺に振り返るのは、フィア。立っていたテーブル近くから慌てたようにパタパタと駆け寄ってくる。その素振りが少し気になったが。
「お二人はどうしました?」
「?……ああ、なにか、用事があるとかで」
少しおかしなことを訊いてくる。違和感を覚えつつ答えた俺に、フィアは黙って頷いて。
「そう……ですか」
「ああ。それで……大丈夫だったのか? 用事は」
「あ、はい」
切り替える話題は、授業中もずっと気になっていたこと。
「大丈夫です……。――黄泉示さん」
居住まいを正したフィアが途端に悪戯っぽい表情になる。……なんだ?
「今日が何の日だか、分かりますか?」
「……何の日?」
いや……と言いつつ思わず壁にぶら下げられたカレンダーを見る。誕生日……ではない。俺の方は違うし、フィアの誕生日は不明のまま。リゲルやジェインのとも当然違う。早くも候補が尽きてしまった俺に。
「覚えてないんですか? 今日は――」
少し拗ねたような口調で言ったあとで、フィアが、祝福するように優しい笑顔を見せた。
「――黄泉示さんと私が出会って、一年になる日ですよ」
――。
「……そうか」
――一年か。
「はい。だから、ケーキを用意したんです。ちょっと、不格好ですけど……」
思い起こすのは一年前の今日。――それで早引けか。恥ずかしそうなフィアの後ろから現れる、一つのケーキに目が行く。一見してフルーツケーキのように見えるそれは、確かに土台と盛り付けのところが僅かに崩れていて――。
――いや。
「……珍しいな」
言いつつ違和感を覚える。……フィアは、料理が得意だったはずだ。
これまでに失敗をしているところを見たことがない。自分でも分からないのに作れるのだと、そう言っていた。
それなのに……。
「本とかを読んで勉強したんですが、ちょっと、失敗してしまって……」
「……そうなのか」
それも初めてだ。味の方は大丈夫ですからと言うフィアに、どこか腑に落ちないものを感じながら頷いた。
――
……ケーキを食べ終え。
「――美味しかった」
吐き出すのは満足の息。……言葉通り。
「いつもとはちょっと違った感じだったけど……凄く」
「っ……ありがとうございます」
二人して食器を片付ける。……大分、思い出話に花が咲いてしまった。
――思えば、色々なことがあった。
フィアと出会ってから、これまでに。そのことを二人で確かめ合い、反復し、淡くなっていた色を新たにする。一層フィアとの結びつきが強くなった感覚。……記念日を祝う人の気持ちが、正直俺には分からなかったが。
過ぎ去った時間を振り返り、思い出し、再び彩り直すという意味でなら。その行為は大切なことになるのかもしれない。自分たちが過ごしてきた歴史、一瞬一瞬を大切にする、そんな感覚。忘れずにこの先へ持っていくという意味でも、できる限り零れ落ちるものをなくすという意味でも……。
「――黄泉示さん」
不意に。そんな物思いに耽っていた俺に、隣から声が掛かる。……彼女も同じように感じてくれているのかもしれない。きっと――。
「――っ」
――そんな不確かな予感を以て振り向いた俺の目に、予想外の光景が飛び込んできた。……フィアが。
「ごめんなさい……」
泣いている――? 嬉しさと悲しさが入り混じったような表情で。その唇から零れるのは何についてか定かではない謝罪の言葉。翡翠色の瞳から溢れ出るその涙を。
「本当はもっともっと、……自分の手で、黄泉示さんに作りたかったんですけど」
最後に見たのは、果たしていつだったか。……忘れるほど久し振りに目にするその雫が。
何かを引き裂く予兆のような気がして――背筋が竦む。これからならいつでも作れると。
「……フィア」
「……終わりにしましょう」
そんな台詞を口にすることさえ憚られる俺の前で。涙を拭いながら俺を見つめた、フィアが言った。
「このまま此処にいたら、黄泉示さんまで死ななくてはならなくなりますから」
「――」
ガツンと。
頭を何かで殴られたような衝撃が走る。……痛い。頭の中が、割れるようだ。
「覚えていますか? 黄泉示さん」
心地好いはずのフィアの声が脳に突き刺さる。割れた硝子の破片を突き入れられているように、頭の奥が裂かれていく。……開かれて。
「私、フィア・カタストは――」
「……止めろ」
予想できないはずのその続きを聴くことが、恐ろしい。思わず声に出したのは否定。
「……言わないでくれ。フィア……」
「――もう、死んだんです」
懇願を無視して続けられたその最後の台詞に、俺を包んでいた、忘却が砕けた。
「――ッ……」
……思い、出した。
蘇ってきた感覚に掌が震える。俺は、この手で。
フィアを。……フィアを。
「……済まない」
――助けられなかった。胸を衝く情動。罪悪感に口を突いて出た言葉。
「済まない、済まない……ッ‼」
「……いいんですよ。黄泉示さん」
近づいてきたフィアが、そっと俺を抱く。どこまでも優しく。
「もう全部、終わったことですから」
「……ッ」
慈しむような感触。それでもなお、胸の内に湧く思いは途切れてくれない。……途切れるはずもなく。
「……ありがとうございます」
俺を抱いたまま。あの優しい声の響きで、フィアが言う。
「私を愛してくれて、私に愛されてくれて――」
語り出される言葉と柔らかさが俺を包む。……このままずっと、こうしていられたら……。
「それだけで、私は幸せでした」
「――」
駆け抜ける予感。背筋を走り抜けた震えに、思わず預けかけていた身を離した。
「――私、やっと分かったんです」
逆らわずに放された両腕。目の前のフィアが、儚げに微笑む。
「誰かの幸せの為に、自分の全てを捧げられる気持ちが」
目を閉じる。次に開かれた眼には、確かに光る意志があって。
「――幸せになって下さい。私のことは――」
微かに言い淀んだあとで、わざとらしい笑みを浮かべたフィア。その表情。
「忘れちゃっても構いません。ちょっと、寂しいですけど……」
「フィ――!」
言い掛けた唇を、柔らかい感触が塞ぎ留める。埋め尽くされる世界。……暖かく仄かに甘い、その感触。
「……あなたがこれから行く道に、少しでも幸せが多くありますように」
息継ぎながら唇を離したフィアが、少しはにかみながら言う。
「私からの、最後の贈り物です」
最後。その言葉に見た俺を、どこまでも悲しげな笑みで突き放す。一瞬だけ見つめ合い。
「――じゃあ、もう行きますね」
ふわりと。軽やかに、地を踏みしめるための重さを感じさせない足取りで、フィアが舞い上がった。
「待ッ――‼」
「さようなら黄泉示さん」
遠ざかっていく。フィアではなく、俺の方が。段々と、少しずつ、速くなり――。
「最期まで、本当に――」
「――フィアッッ‼‼」
伸ばした手は届かない。必死に込めてさえどうしようもない強さで引かれていく自身。瞳の先の姿が、次第に白の光の中へ沈み込み。
「ありがとう、ございました」
最期に一つ、心に焼き付くような輝きを俺に遺して。
――フィアは。フィアが、……消え去った。




