第二節 出会い 後編
……
……
……?
――少女の衣服が間近に窺える、その位置まで辿り着いたとき。
不意に、それまで自分に向けられていた複数の視線が外されるのを理解する。不思議に思い周りを見まわすと。
先ほどまで視線を向けていたはずの通行人。それが素知らぬ顔で歩き去っていくのが目に入った。見返されたので慌てて視線を逸らした、のとは違う。
まるで突然俺への好奇が失せたかのような反応だ。その中の一人、カジュアルな着こなしをした青年と目が合ったと俺は思ったのだが、相手は眉一つ動かさずに顔を逆方向へと向けて歩き去ってしまう。……その様子が引っ掛かり、次に自分が立っている位置を確認したところで、気が付いた。
今俺はさっきまで俺が目にしていた場所。なぜか通行人が自然と避けて行くあの範囲の内側にいるのだ。もう一度注意深く周囲の通行人を観察すると、彼らは俺を意図的に見ないようにしているというよりは、そもそも俺が彼らの視界に入ってすらいないというような嫌いがある。
此処に倒れている少女に気付いていなかったように、今の俺もまた彼らの意識から外れた場所にいるというわけなのだろう。
……幸い害はなさそうなので良かったものの、どんな影響があるかも分からない場所に迂闊に足を踏み入れたことをあとから考えてみれば、我ながら軽率どころの話ではなかったが。
「……」
その点では運が良かったことに感謝しつつ、足を踏み入れることになった本来の理由、倒れている少女へと目を向ける。……眩しいような純白の衣服。地面に零れ落ちる長い髪。僅かに身体が上下していることから生きていることも明白だ。
こうして近目に見たところでもその容姿、雰囲気から変わった要素は特に見受けられない。目立った特徴もなく、見た限りでは本当にただ普通の少女が倒れているだけといった印象を受ける。怪我もしていなければ身に纏う衣服も綺麗なままで、倒れるような理由など見当らない。
「……おい」
ひとまず声を掛けてみる。そのまま少し待ったが、何の反応も返ってはこない。
「……聞こえてるか?」
今度はもう少し声量を上げて呼び掛ける。聞き取れないような声の大きさではなかったはずだが、やはり倒れた少女は何の反応も示してはくれない。
というか、先ほどから呼吸以外に目立った動きをしていない。意識がないのか、もしくはこちらの声に反応出来ないほど疲弊しているのか。
……どうする?
俺が次に取るべき行動――近付いて見ても特に何も分からなかったとなれば、今度は直接的な行動に出るしかないのではないか。
素性を知りたければ持ち物を調べるのが手っ取り早いだろうが、いきなりそれを実行するのも躊躇われる。見たところ、少女の周囲に手荷物のような物は転がっていない。服を探るのも当然NGだろう。
「……う……」
「⁉」
――突如少女が上げた呻き声に思わずびくりとする。注視するが、少女は一度身じろぎしただけでそれ以上動く気配はなかった。というより、今の声は……。
「……大丈夫か?」
――苦痛が色濃く滲む声色。耳にした声の響きに不安を感じて声を掛けるが、少女は先と同じように微かな呼吸を繰り返すばかり。俺の声に応える素振りは依然としてない。
……仕方がない。
そう決意すると、倒れている少女の真横に膝を付く。間近で少女を目にしたことで一瞬、これから自分がやろうとしていることに躊躇うが。
先ほどから嫌な予感がヒシヒシと伝わってきているところだ。それを確かめるためにもうつ伏せのままでは手の打ちようがない。
下手なところに触れたり余計な負荷をその身体に掛けないよう、十二分に注意しつつ、少女を慎重に横向きに転がしていく。……触れた身体の柔らかさ、その余りの華奢さに驚かされたものの、どうにか無事仰向けに寝かせることに成功した――
「……っ!」
――瞬間。
――綺麗だ、と思った。
目を奪われた、と言い換えてもいい。少し幼さが残り、だがそれでいて整えられた、驚くほど可愛らしい外貌。一分の曇りもない、完璧としか言いようがない美しさを持つ少女が、俺の目の前に横たわっている。こんな綺麗な人間がこの世にいたのか。そう思ってしまうほどの可愛らしさ。
「――」
……だが同時に、もう一つ意識を奪われる点があった。仰向けになった少女の表情。
その整えられた顔が、今一目ではっきりと分かるほどの苦悶の色に満ちている。――小さな口元から荒く断続的に吐かれる息。整った眉は何かに必死で耐えているかのようにきつく歪められていて、髪の間から覗く額に浮かぶのは玉のような汗……。
思わず取った少女の手は血の通っていない陶器を連想させるほど白く、冷たかった。――ただ事ではない。医学の心得などない俺であっても、そのことだけは理解できる。どうしようもなく──!
「――っ!」
この苦しみ方は普通じゃない。……今すぐにでも何とかしなければ不味そうだ。だが、何をすればいい?
「っあ……はっ……!」
そうしている間にも少女はか細く辛そうな声を上げている。その声が、歪められた表情が、何もできない俺を責めるように意識を苛む。――何か――何かできないのか?
……必死で考えを巡らせても、事態を好転させるような術は何一つ浮かんでこない。――何とかしなければ――。
ただその思いだけが頭の中を駆け回り、思考の全てが空回りしている。
――どうすればいい。
俺は、どうすれば――
――誰か――
――誰か――‼
自分ではどうすることもできない激痛に、私は名も知らない誰かに向けて必死に助けを求め願う。
――だが無情にも祈りは届かないまま、無限とも思える責苦だけが私の身を苛み、いたぶり続ける。
――ああ。
……永遠にも感じた時間のあと。最早身を食む苦痛に抵抗する気力すらなくなった私は、ただ諦めの心境から天を仰ぐ。
――空が見たい。
この苦痛に焼かれてどうかなってしまう前に……。ただその一心で首を動かし、堅く閉じられた瞼をこじ開けて目を開いていく。
「っ……」
闇に慣れた目に光が差し込む。その眩しさに眉を細めた直後――、見上げる自分の上に、誰かの影が覆いかぶさっているのに気付く。
――誰?
その人物が倒れている自分を見つめているのだと気付いたとき、私の意識は糸が切れるようにしてそこで途切れた……。
「──ッ」
迷った挙げ句に救急車を呼ぼうとしていた俺の前で。――少女の瞼が、微かに開く。そのままゆっくりと首を動かし、その瞳が一瞬俺の方を向いた――。
「――」
動きが無いと思っていた相手から突然目を合わされた驚き。だが俺の動きを止めたのは、それだけではなかった。
弱々しくも、真っ直ぐに俺を見つめている視線。底知れぬ深みを覗き込んだときのような、惹き込まれるかの如き感覚。澄み切った翡翠色をしたその瞳の奥に一瞬、薄暗い、紫紺色の暗めきが見えたような気がしたが――。
はっきりと分からないうちに再び少女の瞼は閉じ、僅かに上げられていた首も力なく地に落ちてしまう。
――何だ、今のは?
「……っ、おい、大丈夫か?」
何の前兆もなく、不意に少女が行動を起こしたことに意識を取られていた。今はそんなことを気にしている場合ではないことを思い出し、声を掛ける。
「……」
少女からの返答はない。――今ので疲れ切ってまた意識を失ってしまったのだろうか。好転しそうだった事態が即座に引き戻されたことで望みが絶たれたような錯覚に陥る――。
「――?」
と、そこで少女の身に起きた変化に気付く。
――あんなに荒かったはずの呼吸が、落ち着いている?
それだけではなく、あれほど苦悶の色に満ちていたはずの表情も今はただ眠っているだけであるかのように安らかだ。……先ほどまで俺が見ていた光景が全て夢だったかのように、少女は平静を取り戻している。何が起きたのかはさっぱりだが……。
落ち着いた、ということで良いのだろう。念のためそのまま少し様子を見てみるが、今度はただ本当に寝ているだけのようだ。暫く見ていても先ほどのように苦しみ出す気配はない。いつの間にかただ寝顔を眺めているだけになっていることに気付き、視線を逸らした。
「……ふぅ」
大事に至らずに済んだことにひとまず安堵感を覚える。見ず知らずの相手とはいえ、流石に目の前でどうこうなられては寝覚めが悪い。――さて。
「……」
心の内で気持ちを切り替える。異常が見られなくなったことで、状況は振り出しに戻ったわけだが。
安らかな寝顔の少女に今一度視線を落とす。寝ているだけとはいえ、このまま路上に放置していたのでは状況は何も変わらない。せめて起こして、自分で動ける状態にしてから離れるべきだろう。そのくらいの言い訳があれば俺もこの場を去るのに心が痛まなくて済む。
「……」
そう思いながらも、俺は少女を起こすことに踏ん切りがつかないでいた。……起こせば事情を説明しなくてはならなくなるだろう。
顔も見られる。もしこの普通でない少女を起こしたことで、妙なことが起きてしまったなら。
一番良いのは少女が目を覚ますタイミングで俺がこの場から去ることだ。とはいえ少女が起きそうになるのをわざわざ待っているわけもいかない。……一息に揺さ振って、全力で逃げるか。そんな風に考えていた最中──。
……?
手の甲に落ちてきた冷たい何かが、それまでの思考を中断させる。……まさか。
嫌な予想に思わず空を見上げたその顔を、一滴二滴と雲間から落ちてきた水滴が濡らしていく。見れば先ほどまで晴れていたはずの空にはいつの間にか厚い灰色の雲が立ち込めており、その変化を目にした通行人たちも蜘蛛の子を散らすように銘々の方向へと駆け出していくところだった。――必然的に、その場には俺と少女だけが取り残される形になる。
「……雨か」
周囲に誰も居なくなったせいか、そんな呟きが口から漏れ出す。雨脚は少しずつではあるが徐々にその強さを増し、俺と少女の身体を濡らそうとしていっている。コートがある俺は多少濡れたところでどうということもない。最悪傘を差せばいいだけの話だが。
意識が無いままの少女はそうもいかない。地面に密着した状態でのこの雨は少女にとって随分と堪えることだろう。夜気への野晒しに加えて雨曝しとなれば体調が悪くなることは必至。冗談でなく、そのまま凍死一直線ということも夢ではなかった。
……これじゃ、選択肢なんてあってないようなものだな。
頬を雨が濡らしても少女は目を覚ます気配がない。色々と思うところはあったが、ぼんやり突っ立っている場合でないことは確か。決断が遅れればその分事態が悪化するだけだ。
「……」
横たわったままの少女の身体の下に少し苦労しながら両手を入れ、持ち上げる。
「……んっ」
「――!」
抱え上げた瞬間、衝撃が伝わったせいか少女が呻き声を漏らす。その声に一瞬硬直して少女の様子を窺うが……。
目を覚ます気配はないようだ。安堵感に胸を撫で下ろすと共に、持ち上げた少女、その重みに想定していたものとの差異を感じて驚く。──ここまで軽いものなのか。下手に扱えば壊れてしまうのではと不安になるくらい、その少女の身体は軽く、華奢だった。伝わる感覚に速まる鼓動を抑えながら。
「……っ」
なるべく少女が濡れないよう、その身体に負荷を掛けないように心掛けて走り出す。……雨脚は更に強さを増してきている。今は一刻も早く、雨を凌げる場所に少女を移動させなければならない。
頭の中で幾つか候補をリストアップするものの、今日異国の地に着いたばかりの俺に思い付く場所はごく僅か。この少女の抱える特殊性を加味すれば尚更だ。結果的に浮かんだ場所は、一つしかなかった。
次第に強くなる雨に背中を押されるようにして人がめっきり減った通りを走っていく。――状況に押されて面倒を背負い込んでしまったが……。
それもこれで最後だ。用が済めばこの少女ともおさらばだし、以後二度と会うこともないだろう。……それでいい。
――どうか厄介事にだけは、ならないでくれ。
頭に浮かんでくるそんな思いを意識しながら、俺はひたすらに目的の建物に向けて駆け進んだ……。
「――ほう」
上げられた声。驚きと警戒の響きは確かにその中に含まれてはいるものの、声の真芯から滲み出る喜色を隠し切れていない。――第一関門はクリアした、といったところだろうか。
そう男は相手の心情を読む。周囲を囲む気配からして、歓迎されていないことだけは明白だった。
「これはまた大層な客が訪れたものだ。一応は尋ねておくが、なにをしに来た?」
期待も露わに投げ掛けられたその問いに、男は取り繕うことなく自らが此処に来た目的を告げる。
「……なんだと?」
――案の定と言うべきか。
期待一辺倒とも言えたその表情から一転。警戒するような面持ちへと変貌する。……鋭さを増した目付きから投げ掛けられるのは、男を値踏みするかのような冷厳な視線。
ある意味無邪気と言えた先ほどまでとは打って変わった、威厳あるその気配。正式な称号を得ていないとはいえ、この相手もまた王の名に恥じない器を持った人物の一人である。そのことを肌で捉え、男は安堵と共に緊張を覚える。
――駄目だったか?
ここまでに熟慮と熟考を重ねた末として、最も可能性のある相手を選んだつもりだ。だがこれが通らないとなれば、残る手段は――。
「――いいだろう」
時間にして十数秒。男にはその何倍とも思われた時間の後で下された宣言に、そんな考えが途絶される。
「だが、条件がある」
当然なにごともなく事が進むなど有り得ない。そのこともまた男は充分理解していたし、それを承知していたからこそ、此処を訪れたのだった。
「今この場で俺と死合え。貴様に望みを通す力があるかどうか……話はそれからだ」
「……はっ、はははははっ‼」
二分にも満たない戦闘ののち。広間に響くのは、狂気にも似た高揚を孕んだ笑い声。それと、周囲を囲む者たちから発せられるどよめき。
「――いいぞ。救世の英雄と謳われたお前の力、存分に味わわせてもらった」
口の端から一筋の血を流しながら、男は喜色に満ちた面持ちで言う。
「力を示した以上二言はない。このネメシス、確かにお前の頼みを聞き容れよう」
宣言に達成感を覚えつつも男が気を緩めることはない。……これは切っ掛け。これから自分が為すべきことの、始まりに過ぎないのだから――。




