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第二十八節 苦痛

 

 ――痛い。


 辛い、苦しい、辛い。


 息をするのが辛い。動くことが辛い。耐えることが、何かを考えることが苦しい。置かれている状況を捉えることが、何をしなければならないのかを思うことが、苦しくて堪らない。


 苦しみで人が死ねるなら、それはどんなに慈悲深く楽であることだろうか。


 ――諦めれば何もかも無駄になってしまう。


 ■■■の叫びも、■■■の覚悟も、■■■の涙も。全部全部。だから、耐えなければならないのだ。


 頭の中で諦めてはいけないと、ただそれだけを繰り返し叫ぶ声が響いている。鳴り響くその頑迷に突き動かされるようにして、身体を無理矢理苦痛の中に留め置いている。


 ――いつまでこれを続ければいい?


 浮かんでくる問いを苦痛で殺して。内外から食い潰し磨り潰されていくような感覚にただ耐える。力の限り踏み締めた足裏の感触が、次第に無くなっていくのを感じながら……。


「――」


 ――もう、駄目だ。


 もう持たない。持たない。持たない持たない持たない――‼


 ――これ以上は。


「――」


 ……まだだ。


 死にそうな弱さで発したその声を嘲笑うように、張り裂け砕け散るような峻烈な痛みが全身に走り渡る。吐き出された生温かい何かが胸を濡らす。感じたことの無い激痛に、悲鳴を上げる力さえも残されていない。……『破滅舞う破滅者の円環』。


 俺を壊しながらもどうにか支えてきたその道具も、死に体の身体から最早これ以上の力を引き摺り出せはしない。……限界だと、混濁する意識のどこか、黒い靄の掛かる視界でぼんやりとそんなことを考えた。


 傷が、一瞬一瞬の瞬間ごとに増えていく。――死ぬ。そのことがやけにはっきりと感じられて。


「――」


 纏っていた魔力の消える瞬間、特大の衝撃が、脳を揺らした。


 …………

 ……

 …


 ……音が聞こえない。


 前が見えない。身体が重い。意識が重い。息をするのでさえ億劫になるほどに、全身が辛い。……俺は。


 ――なんのために、此処に立っているのだろう。


 ……腕を上げなくては。


 どこかでそんな声が聞こえた気がする。応えて上げようとした両腕は鉛のように重く、ピクリとも動いてはくれない。


 ……そもそもどうして、腕を上げなくちゃならないんだっけ?


 分からない。思い出せない。ずっと遠くの方で、誰かが何かを叫んでいるようなくぐもりがする。


 ……でも、なんて言ってるのか判らないんだ。


「――」


 強い衝撃が全身を殴打する。受けてよろめいた膝が、ガクリと落ちる。……死ぬのか。その思いが浮かんできても、抗うような叫びは聞こえてこなかった。


 ――それも悪くないのかもしれない。


 ふと、思う。……なんでこんな苦痛に耐えているのかも思い出せない。この苦しみに終わりが来るのなら、それで。


 ……もう、疲れた。


「……」


 ……世界が消えていく。


 自己が、俺が。全てが離れ解け、ばらけた糸くずになる。その出来事をありのままに受け入れようとしたときに――。


「――黄泉示さん?」


 誰かの、声が聞こえた気がした。


 ……いや。


 誰かなどではない。……それは俺がよく知っている、忘れてはならない、命を懸けて共にありたいと思った相手。


 ――何よりも大切で、愛しい――。


「……」


 酷く暖かく、懐かしい。その記憶に促されるようにして。


 ただ縋るように、動かなくなっていた手を伸ばした。


「――」


 ――瞬間。


「……っ」


 指に伝わってくる感触。掌の振動で、それが掴んでいた終月の柄だということを思い出す。眠気を覚ますようなその自覚に、世界全体が戻ってくる。


 ……なら、これはなんだ?


 今終月から俺の腕へ伝わってきている、……微かな震えと、脈動。


「……」


 立ち塞がる重石を退けるように瞼を上げる。少しずつ、少しずつ明らかになっていく光景。俺の目の前に、立っているのは。 


「……フィ……ア?」


 見覚えのある姿。名前を口にした瞬間、小さなその身体が崩れるように倒れ掛かる。受けた胸元に伝わってくる重み。支え止めようとして、手に付く別の感触に気付いた。


「――」


 ヌルリとした液。暖かく鮮やかな色を纏い。鉄錆の匂いを発しているそれに、覚えがあり。


「……」


 向けた視線に映る右腕が握り締めている刀。……伸ばされた先。少女の背中の向こうに見える黒い刃は、紛れもなく俺が握っているその刀で。


 ――血塗られている。止んだ鼓動。刀身を伝って、緋が目の前の身体から溢れ出していることを理解した瞬間。


「あ……」


 ……分かってはいけなかったのだということを、手遅れの状態で感じ取った。


「ああ…………あああああああああああああああああああああああッッッ⁉‼」


 ――叫び。己のものとは思えない絶叫が喉を焦がし。


「――――」


 自分の奥底のどこかで、何かが砕け散る音がした。
















 

「――おーい!」


 見慣れた学園の敷地。耳慣れた呼び掛けに、俺は振り返る。


「っ悪いな、……待ったか? 講義が長引いちまってよ」

「いや」

「大丈夫ですよ、リゲルさん」


 二人して答える。走って来たのか、息を切らしているリゲル。こういうところは相変わらず律儀だ。


「全く、二人とも甘いな」


 並んで立っていたジェインが眼鏡を上げる。奥の瞳をキラリと光らせ。


「遅れは遅れだ。言うべきところできっちりと言っておかないと、この手の奴はどこまでも付け上がる」

「端からお前には謝ってねえよ。ジェイン」

「ほう? どういう了見か……聞かせてもらおうか」

「その辺にしとけって」


 相変わらずの二人。この光景をまた見られることに、どこか嬉しさを感じている自分がいた。


 ――あの戦いから、数か月。


 俺たちはフィアを無事連れ戻した。残るレジェンドやヴェイグとの戦いにも勝利し、世界の危機はこれで終わった。


 俺たちは日常を手に入れたのだ。それも、俺たちが望んでいた以上の形で。


「おっ」

「どうしました?」


 携帯の振動を受けて画面に目を落としているリゲル。通知の確認にしては長すぎる視線の固定が気になったのか、尋ねたフィアに。


「いや、何でもねえよ――」

「どうせまた奴からだろう。分かりやすいことこの上ないな」

「はあ? 違えし。迷惑メールだし、ただの!」

「ま、まあまあ……」


 熾される喧噪。――リゲルは、郭と付き合いが続いている。


 付き合いが続いているのは郭だけではない。千景先輩、立慧さん、田中さんたちも一緒だ。流石にそれぞれ修行や協会の仕事が忙しいので、会えるのは偶にだが……。


 それでもその度に話を聞く。葵さんの努力や、永仙が協会に戻ってきたこと。賢王や冥王を交えて、凶王と協会との話し合いもゆっくりとではあるが進んでいるのだそうだ。


 三千風さんは無事四賢者に就けたらしい。セイレスは仲間たちと共に魔術協会に迎えられた。


 立慧さんはこの間、大きな功績を挙げたらしい。千景先輩が自分の事のように誇らしげにしていたのが印象的で。


『破滅舞う破滅者の円環』の後遺症も、シンシアさんが治してくれた。もう、俺の右手に指輪は嵌まっていない。【終わりの言の葉】の影響も、皆が協力してくれたことでなんとかなった。


 ――そして最も驚いたのが――。


 父や十冠を負う獣、東小父さんが、生きていたと言うことだ。


 今は日本で平和に暮らしている。レイルさんも、エアリーさんも。あの戦いに参加した全員が、生き残っている。奇跡としか言いようのない事象。


 感謝してもし切れないだろう。こんなにも幸運なことだと、もうなにに感謝すればいいのかも分からないが――。


「……」


 ――何もかも順調だ。


 良く晴れた空。皆が皆、望む方向に向かっていっている。そんな中――。


 俺とフィアもまた、望んだ時間を過ごしていた。



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