第十九節 残された時間
――それからの五日間は、まるで他人事のようだった。
雲の上に立っているかのようなフワフワとした感覚。死を覚悟し受け入れたならば、人は自分をここまで他人のような目で見られるようになるのかと、そんなことを思わされるほどに。
「……」
「――うし」
一日一日。
目の前で活動する彼らを見ていると、紛れもなく生きているのだということを実感させられる。フィアだけではなく、リゲル、ジェイン。
郭に、立慧さん。……誰も死なせることなどできない。そしてその為に今の俺には、できることが確かにあるのだ。
――自分を擦り減らしてまで他人を助けるのは、嫌なことだ。
その気持ちは今でも変わらない。けれど、もしそれでもいいと思えるような相手に出会ったのであれば、それは。
「……」
……戦いの影響から完全に解放されてみると、自分の五感が衰えていることがよく分かる。
以前は何気なくできていた日常の事。何でもないと思っていたようなことの幾つかが、できなくなっていたりするのだ。見ること、味わうこと。
やはり、俺は……。
「――っ」
──置こうとした動作の途中に掌から滑り落ちていったコップ。……レースのカーテン越しに柔らかな日差しの差している食堂内。膝の上でワンバウンドしたのち床と金属でできたそれとが立てる音は、昼食時の俺たちの間に思いのほか大きく響いた。
「……悪い」
「いや。中身が入っていなくて幸いだ」
中に入っている水は丁度飲み干したところだった。ジェインの言うように、これが牛乳やコーヒーなどでも入っていたら目も当てられない。そう思いながらコップを拾い上げる。机の上に戻したところで。
「訓練もほどほどにしとけよ。ただでさえ、こないだの戦いで疲れてんだから」
「……そうだな」
リゲルの声に頷く。……今の俺は余り訓練はしていない。永久の魔との戦いでの消耗が過去最大級に大きかったこと、決戦までの期日が短いこともあって休息を中心にしているのだ。やるのは腕を落とさないようにする確認だけ。そのせいもあってか、以前より一人の時間が増え……。
「昨日は少し寝つきが悪かったから、それでかもしれない」
「――気を抜かないのと同じくらい、休むことも重要だ」
疲労が常態化しているのを悟られてはいない。少なくとも、二人には。食後のコーヒーを飲みながら言ったジェインに。
「ここまで来れば、無駄にじたばたしたところで仕方がない。やれることをやるだけだからな」
「分かってるさ」
「……」
応えて笑ってみせる。俺の隣にいるフィアは、最後までなにも言わないままだった。
……
「――大丈夫ですか? 黄泉示さん」
昼食のあと。食休みしようかと部屋に戻っている途中、隣を歩くフィアから声を掛けられる。俺たち以外には誰もいない、木漏れ日溢れる庭に面した回廊。
「……なにがだ?」
「……いえ……」
向いた俺の顔色を見つつ、少し躊躇いがちに。
「最近何だか、ぼうっとしてることが多いような気がして。さっきのも……」
口にする。……やはりフィアにはある程度分かってしまうか。一緒にいる時間が長い分……。
「──辛いことがあったら、何でも……っ」
「……大丈夫だ」
なにかが胸に閊えるような顔をして言葉を詰まらせたフィアに、言う。
「少し疲れてるところはあるけど。ヴェイグたちとの戦いはやり遂げる。絶対に」
「……そう、ですか」
「ああ」
二度目に口にすることになった嘘は、一度目のときよりも存外に軽く。言い切った俺に対し、フィアは。
「……私は」
思い直したように。言葉を飲み込むようにして、俯いていた顔を上げた。
「私はいつでも黄泉示さんと、一緒にいますから」
僅かにぎこちなく、だが浮かべられた笑みと共に向けられるその思い。その真っ直ぐな気持ちに。
「……ありがとう、フィア」
なるべく強く込めて返す。……その気持ちだけで、充分だ。
――ヴェイグから告げられた期日の二日前。
「……」
俺たちは部屋に集まっている。今回の戦いの方針の確認の為。調子の戻らない郭を除いた、正真正銘の四人だけで。
「……アデルからヴェイグの情報は大凡訊き出した」
話し出しはジェインから。
「虚偽でないことは確認してある。――まずヴェイグは、殆んどのあらゆる技法を扱える」
「あらゆる……?」
「魔術だけじゃなくて、武術とかも……ってことですか?」
気に掛かったのは余りに誇大なその言葉選び。フィアの言葉にジェインは首肯して。
「ああ。ヴェイグ本人もかなりの幅広い領野、技法に造詣を持っているようだが、注目すべきは所有している神器の力だ。本の形をした魔道具で、記録した他の魔道具と他者の技術を再現し、それらを自分のものとして扱えるらしい」
――他者の技術を?
「……んだよそりゃ」
リゲルの感想に概ね同意する。ジェインの言っていることが本当ならば、俺たちが相手をするヴェイグは正に超人、万能人とでも言うほどの突出した手札を持っていることになる。道具の力によるものとはいえ……。
「だがなによりこれが問題だ。永久の魔との戦いのあとで、ヴェイグが披露した力――」
呼び起こされるのは思い出さずとも網膜に焼き付いているあの光景。天地を覆う、あれだけの数の軍隊が一斉に消失した時の驚愕と衝撃。
「あれについてはアデルも詳しくは知らなかった。……が、滅世の具体的な手段について情報があった。アデル曰くヴェイグは、全てを一斉に消滅させるつもりらしい」
「消滅だ?」
「世界各地の龍脈地を陣で繋いだ超規模魔術で、世界中の人間全てを一時に消滅させる」
リゲルの疑問にジェインが返した答えは、想像するだに途方もなく。
「これがヴェイグの言う滅世だ。……一度発動してしまえばもう、止められない」
永久の魔と同格というその力の程を理解していたとしても、あの光景抜きでは荒唐無稽としか思えなかっただろう話。今の俺たちにとってはそれも、充分過ぎるほどの現実味を帯びた事柄として捉えられる。
「このことからヴェイグのあの力について僕なりに推測してみた。確認しておきたいんだが、軍隊が消えたとき、僕たちは何も感じなかったな?」
全員が一様に頷く。……あの感覚が最も妙だった。あれだけの変化が世界に齎されたなら普通、それ相応に感じるものがあっていいはずなのに。
「それが最大の手掛かりになる。恐らくあれは【消滅】、若しくは【無】だ」
……無。
「郭にも意見を訊いたが、僕が使う概念魔術に近いものだろうという見解で一致した。それらを踏まえた上でのヴェイグに対する方針だが……」
蔭水、と。ジェインが俺を見る。
「君の力が僕らの切り札になることは否定しようがない。大半の攻撃を無力化する例の魔術、併用によって上限が跳ね上げられる呪具に、あの永久の魔をも打ち斃す刀の力」
語るジェインの口調に感情は混じっていない。……いつも通りの冷静さ。
「だが一方でリスクも大きいことが分かっている。特にあの呪文の影響でまた蔭水が暴走した場合、残る僕たちでは止められる手段がない」
そのように聞こえる口調の裏に。……僅かに滲んでいるような違和感を、なぜだか俺は覚えてしまっていた。
「そこでだ。今回の戦い、蔭水は可能な限り補助に回って欲しい」
「……補助?」
疑問を覚えた俺の言葉に、ああ、と頷きを返してくる。変わらぬ真剣な表情で。
「永久の魔との戦いを観察していた以上、ヴェイグも蔭水については脅威だと気付いているだろう。充分過ぎるほど警戒しているはずだ。バカ正直にその力を当てにした戦術は採りたくない」
「……なるほどな」
合点が入ったと言うように首肯するリゲル。……それは、確かにそうかもしれないと思うが……。
「蔭水の力を陽動として使い、僕ら三人が蹴りを付ける。――不幸中の幸いと言うべきか、ヴェイグ・カーン自身は強大な力を持っているだけのただの人間だ。永久の魔のような再生能力も異能もない。僕らの力で充分に届く」
そのことを確定させるかのように力強いジェインの言葉。真一文字に結ばれた口元と、決然とした瞳とが俺たちを見る。
「リゲルは例の一撃が。カタストさんには即死級の呪いがある。……僕にはこれが」
ジェインの取り出して見せたのは拳銃と短剣。どちらもその効力は聞いている。支援しかこなせなかったジェインの手にした武器。その強力さも。
「このうちの一つでも届いたなら、ヴェイグを倒すことができる。間違いなくな」
「良いと思うぜ。――レジェンドはどうすんだよ?」
「強敵ではあるが勝算はある。不意打ちに近い形とはいえ、力を発揮したカタストさんが三人を相手にして退けているわけだからな」
乗り気のようなリゲルに続き、楽観的な推測に満ちた語り口。
「向こうも何かしらの手は打ってきているかもしれないが、今度は此方も態勢を整えている。それに怨霊であるカタストさんへ用意される対応策なら、ある程度は予測可能。それへの更なる対応も可能だ」
印象付けるかのように強調を含んだ声音と身振り。……らしくない。
「最悪の場合は足止めして先に進んでも良い。アデルによれば、レジェンドたちはヴェイグが滅世の為に喚び寄せているとのことだ。つまりヴェイグさえ仕留めてしまえば――」
重ねてそのことを思う。……余りにも希望的な推測に満ちた、穴の多いその中身。不利な状況にあってさえ現実の厳しさを逸らさず見据えていた、あのジェインの態度とは。
「――自動的に奴らも消える。術式の敷いてある洞窟内にまで駈け込めば、レジェンドも下手な動きはできないだろう」
「……」
見出せていないのだ。ジェインでも、今回の戦いに真っ当に勝ち切る手段は。
「……神器を壊せば、ヴェイグさんの力は大きく落ちるってことですよね」
「まあ、ヴェイグ自身の魔力も相当な物らしいがな。話してくれたカタストさんの呪いが有効になる。ジェインの【重力増加】と、僕の【時の遅延】を併せれば――」
……暴走は確かに問題だ。
紡がれる三人の語りを耳にしつつ、内心で思考する。この呪文のリスクは俺一人だけに降りかかってくるものではない。アイリーンや永久の魔の攻撃すら防いでみせるような状態で暴走を起こせば、どうなるかなど分かり切っている。
――考えはあった。
その道を決めた以上は当然。……フィアたちは、永久の魔が暴走した俺を止めたと言っていたのだ。ならば、恐らくきっと。
「……」
決意に似た覚悟を胸に。夜は、今日も変わらずに更けていく。
……前日。
「――悪足掻きは済んだのか?」
独房の中のアデルから飛ばされた声を、ジェインは苦々しい表情で受け止める。いつものように皮肉で切り返す余力も、平然とした顔で聞き流すだけの余裕も、今は共にない。
「いい加減諦めろ。ヴェイグは、死力を尽くさずに勝てるほど温い相手ではない」
蚊帳の外のアデルはどこまでも楽しむような口調だ。その言葉の指し示すところもお構いなく、ずけずけとした物言いで思考に割り入ってくる。
「あのレジェンドたちもいる。事が大詰めとなれば奴らも、本気でヴェイグを守ることに尽力するだろう。死人の一人や二人出て当然。全滅しないだけでも充分にマシなはずだがな」
「……黙れ」
――死人。浮かばされたその情景に対して思わず口に出た言葉。
「そうだな。こんな揺さ振りにまで苛ついているようでは、結果は知れているか」
「――っ」
沸き上がって来た激情を行動へと移しそうになり。……どうにか留まって、息を吐いた。
「……范さんの気持ちがよく分かるな」
呟いてアデルへ向けるのは非難の視線。効くはずがないと分かりつつも、現状でできるせめてのもの反攻。
「見させてもらうぞ。お前たちが、どのような選択をするのかをな」
「……もう、明日ですか」
上体を起こしてベッドに寝たままの郭の呟きを聞きながら、リゲルは焦燥を胸に留める。――これまでの時間。
限られた期間の中でリゲルは狙いを一点に絞り、【覇者の剛拳】を徹底的に鍛え上げることに注力した。残る敵方に決め手として通用するとなればそれ以外なく、幸いにしてどうにかレジェンドたちには届くイメージができている。
……だが、まだ足りない。
郭から受け取る予定の術式の効力を加味してみても。……まだ、あの永久の魔を打ち倒せるイメージが湧いてこないのだ。
そのイメージが湧いてこなければ届かない。あの男、最後に倒すべき敵である、ヴェイグ・カーンには。
「……なにを焦ってるんですか」
思い詰める意識。向けた視線が、郭の瞳とぶつかる。
「見れば分かりますよ。貴方とももう、それなりの付き合いになりますからね」
しつこいことですが、と、これ見よがしに息を吐いて郭が手を伸ばした。
「僕の方はもう終わりました。――譲渡するので」
「おう」
促されるがままに手を差し出す。細く少し冷たい指腹が、武骨な手を包むように握り込み。
「――っ」
流れ込んできた感覚に、思わずしてリゲルの眉が上がった。
「……マジかよ」
掌に一瞬だけ浮かぶ術式の輝きを見開いた目に焼き付ける。……以前とは比較にならない。渡され宿されたのは倍はあるかと思えるほどの凄まじい密度の魔力。これは。
「中々に苦労しましたよ」
してやったりと言うような笑み。弧を描く目元に、一連の反応を全て見られていたことに気付かされる。
「貴方の無茶に応えるのは。それももう、今回限りでしょうが」
もう片方も出すように求められる。握られた手から少しして、更に複数の脈動が断続的に流れこんできた。
「以前と同じレベルの術式も二つ用意してあります。――どうですか?」
感触を確かめていた最中。上げた視界に映り込んだのは、寝せた身体に肩まで布団を被せている郭の姿。
「吹っ切れましたか? 不安は」
目を閉じて言う。微かに誇らしげにするような、穏やかな口元に。
「……ありがとうよ」
万感の思いを込めて。湧き上がる力と共に、リゲルは両こぶしを握り込んだ。
「これで、ヴェイグに一泡吹かせてやれるぜ」
こうしてはいられない。今までの霧中が嘘の如く見えてきた幾つかのイメージに、早速拳の方を合わせに掛かろうと席を立ち。
「……リゲル」
出口である扉に急いだ手が届く寸前。その声にスーツの裾を掴まれたように、リゲルの足首が動きを止めた。
「どうしたよ?」
余り時間がない。時刻は既に夕方。今は少しでも早く、イメージとの擦り合わせを。
「……多分今の調子では、僕は明日、貴方たちを見送りに出られないかもしれません」
起き上がらない。郭は依然として、眠るような体勢で横たわったまま。話の流れを見失ったリゲルは、推測でただそれに答える。
「……安心しとけって。永久の魔みてえに、ヴェイグたちも俺らが――」
「リゲル」
勇み足の言葉を断ちきるその声は、疲労と眠気に彩られた郭の言葉の中で、やけにはっきりと耳に響いた。
「帰ってきて、くれますよね?」
「――」
予想外。台詞に覚えたのは、全くの不意に横から銃口を突きつけられたかの如きあの思い。
「――たりめえだろ」
こめかみを狙うその拳銃は幻想だ。ありもしない夢幻の脅威に、どうしようもなく奪われた一瞬の硬直を置いて。
「俺たちは帰るぜ。絶対にな」
その眼は此方の表情も見ていないだろうのに。それでも意図して口の端を上げ、リゲルは郭に振り向いて言った。




