第十節 絶望の淵
「――」
怒涛の如く押し迫る暴圧。無駄だと知りながらも本能的な恐怖に思わず頭部を庇い立てする。永遠にも一瞬にも思えるように響く衝撃と唸りののち、嘘の如く視界が晴れ渡り――。
……なんだこれは。
その光景。罅割れたレンズ越しに見える景色に、ジェインは瞠目することしかできないでいた。見開かれた眼の前に広がっているのはすり鉢状に抉られ、削り取られた大地。
――地形が変えられたのだ。先に刻まれた断裂を塗り替えるほど深い曲面には、これまでのジェインの人生で見たこともないような不可思議な地層が露出している。……何も知らずに見たのなら、隕石でも落ちてきたのかと思わされたことだろう。自身の知る浅い知識の限りとはいえ、進歩した科学兵器、大型のミサイルや爆弾でさえ、ここまでの変貌を齎すことはできないとジェインには思われた。
――カタストさん。
冷めやらぬ動揺の中。左右に素早く動かした瞳が倒れたままでいる仲間の姿を捉える。邪気の爆発に巻き込まれるあの瞬間、同時に展開された四つの光の盾をジェインは確かに覚えていた。魔力の大半を注ぎ込んだと思しき比類なき輝き。これまでより一際強固なその守りのお蔭で、どうにか耐え延びることができたのだが。
「――」
魔力を全力で回したその分、自らへの配慮が疎かになったのか――。ジェインの推測に構うことなく視線の先の黄泉示は既に動き出している。倍速でも追うことのできない超速度でフィアへとひた走る構えと共に、視界の端に見えるリゲルから覚えたのは熾される魔力の脈動。何かしらの援護を発動させようとしているのだろう。――何でもいい。
無防備となった仲間の救援は最優先事項。永久の魔の前を駆け抜けるその動きを援護するために、挫いた足の痛みに耐えつつ、ジェインが新たな【時の加速】を紡ぎ出そうとしたとき。
「【柩牢断罪】」
――見える黄泉示の姿が、一瞬にして邪気に包まれた。
……は?
目の前の光景を否定しようとする心内発声に連れて、爆破のフィルムを逆再生するように内側へと圧潰される邪気の波動。響く衝撃に震わされる大気と我が身。砕き散らすような重々しいその轟きに、嫌でも最悪の想像が過り。
「……させ、ませんッ……‼」
その下から現われた純白の防壁に、ジェインは一抹の安堵の情を覚えざるを得なかった。例え耳に届いてきた声が、血を吐くような音色を含んでいたとしても。
「黄泉示さんは、私が……ッ‼」
フィアの固有魔術。ジェインの知識の内であらゆる攻撃を防ぐ絶対の守り。倒れた俯せのまま顔だけを上げて手を突き出しているフィアは、揺れる意識の中で懸命に力を保っているように見える。見る者の目を惹くような、引き寄せられるような強い眼差し――。
「……」
一瞬だけそちらを見るようにした永久の魔。……肩幅程度に開かれた足。僅かに腰膝を落とし、肩口に右腕を引き付けて。
「――っ」
最古最強の脅威が初めて剣を構える姿を、ジェインは目にした。
「――【究極断罪】」
――衝撃はなかった。
眼にもとまらぬ速さで振り抜かれた一閃に。変わらぬ景色の中を、一瞬の黒紫が走ったような気がした、刹那。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ‼‼」
誰の物かも分からない断末魔の絶叫をジェインは耳にする。……断たれたのだと理解した瞬間に砕け散る光の壁。続けて耳にした身体の落ちる音は、まるでその中から魂が抜け出てしまったかのようで。
「ア……グッ……っ」
斜めに血を噴き出しながら、陸地に揚げられた魚の如くのたうっている姿。……震えが止まらない。息ができずにもがいているような、その動きすら段々と鈍くなっていく。地面を掻く指先が、力を失い。
「――チィッ‼」
上がる声に動かした視線の先。持ち前の動物的な反射で飛び退いたと思しきリゲルが、全く同じような邪気に握り潰される。晴れるその内側から現れたのは、絞られた雑巾のようになって地に落ちる赤黒の物体。
「……」
「――ッッ【時の加速・六倍速】‼‼」
――瞳。合わされた瞬間に悪寒が走る。全力で逃れようとした動きに見捨てられた眼鏡が宙を飛ぶ。固定化された枠組みが消え、一挙に広がった視界の全てを。
「――【柩牢断罪】」
一縷の光も除く黒紫が、例外なく覆い尽くした。
「……ははっ」
かつて楽園と呼ばれたその町の、無残な残滓の上で男は声を零す。緑が溢れ、人々が笑い合い、活気の絶えなかったその町は、今では色を失った不毛の土地に成り果てている。
「なんだよ……」
碌に食べ物も取らない身体は痩せ細り、強健な兵士であった頃の面影はどこにもない。その衰え切った身体でなお、ソレを手にして、男は笑う。
「やってみりゃ、できんじゃねえか……」
掲げられたのは一つの苗。まだ細く頼りないそれを、土ごと満天の空に翳して。
「見ろよ。ルヴァニア」
今此処にいない友に向けて、祈るように言葉を贈った。
「俺だって、壊すだけじゃないんだぜ?」
嗚咽混じりの男の笑い声が、誰一人いなくなった地に、いつまでも響いていた。
「……ゴフッ」
喉奥から吐き出した生温い液。口内に広がる錆の味でリゲルは目を覚ます。倒れ伏す頬に冷たい地の感触を覚えつつ、衝撃に散らばる意識の中で掻き集めた思考。……生きている。辛うじて、だが。
……何の冗談だよ?
言いようもなく浮かぶ思い。今日の自分は、控えめに言っても絶好調だったはずだ。
何も自分だけに限った話ではない。フィアの盾と強化、ジェインの援護、黄泉示の一撃。全てが好調にして最高潮で、組み立てていた戦術はこれ以上ないほど完璧に決められた。見越していた予定の通りに、確実に。
――だというのに。
見せ付けられたのは圧倒的なまでの力の差。……何も通じなかった。全員が最上の形で披露した全てを、正面から捻じ伏せられたのだ。小枝を手折るが如く、地虫を踏み躙るが如く、何の労苦もなしに……。
〝これから貴方たちが戦うに当たって〟
懐かしい言葉が記憶の中で木霊する。……神父。
〝勝ち目があるかどうかだけは絶対に判断するようにしてください。敵わないと思ったなら、逃げることです〟
〝敵方の力量も見極められないのであれば愚の骨頂〟
それと重なるように響いたのは別の声。皮肉気で厳しく、それでも嘘を言うことはなかった王の。
〝戦場に立つ資格すらありません。自分がどれだけの危険に瀕しているか、まずはそのことを理解できるようになることですね〟
……なんだよ。
哀れで滑稽な自分たちをリゲルは嗤う。全て、先達者から言われていた通りではないか。
――望みなど、端から無かったのだ。
勝敗は既に挑む前から決していた。力の大きさが違い過ぎて同じ土俵にすら立てていなかった。絶望的なその事実を誰一人直視できていなかったという、それだけのこと。まるで本気でない敵の攻撃を躱せていたことに得意気になって、昂揚から笑みさえ浮かべていた自分自身。
……馬鹿馬鹿しい。
その愚かしさを心の底からリゲルは嘲笑う。こんなことなら。
始めから――。
〝――頼みます。リゲル〟
困憊のままに閉じようとした瞼。広がる闇の内に、唐突に去来した一つの声。
「――」
その声を確かに聞いた、リゲルの瞼が上がる。鎖し掛けた暗闇を撥ね退け。
「ッ……‼」
起き上がろうとする、リゲルは。……体重を支え持ち上げる為だけに込める力。普段何気なくやっているただそれだけの動きにすら、髄まで刻むような痛みが響き渡り、呼吸を止めに掛かってくる。半ば反射に等しい所作で発生させていた斥力。全身の筋肉を鎧の如く締め上げてなお、致死を防ぐのが精一杯だったのだ。
「……ッ‼」
これまで受けたことのあるリンチとはまるで比べ物にならない。金棒で仮借なく殴打されたような骨まで響く重苦しい鈍痛に、フィアの援護がなかったならここまでのものなのかと、歯を食い縛ったまま思わずリゲルは笑う。
「……違えだろ」
〝――これを持って行ってくれませんか?〟
止めろと告げる本能を意識から締め出して。呟きと共に、震える身体に意志の鞭を打って持ち上げる。脳裏に蘇るのは昨晩、いつものように部屋を訪れたリゲルに郭が発したあの言葉。
〝……なにがだ?〟
注意して見てみるも、持って行かれるような物はどこにもない。からかっているような雰囲気ではないがと首を傾げたリゲルに、呆れたように郭が溜め息を吐いた。
〝僕の組み上げた術式です。貴方でも扱えるように、簡単な言葉の鍵を掛けてあります〟
言われてみれば――薄らと、翳された手の上で輝いている魔力光を目に留める。複雑な意匠を施されたソレ。恐らくは以前にも見せられた現代魔術だろうということは、リゲルにも予想が付けられた。
〝どうすりゃいいんだよ〟
〝こっちへ〟
言うなりに近付いた瞬間、ポケットに突っ込んでいた手を取られる。
〝――ッ⁉〟
〝【譲渡】。郭詠愛からリゲル・G・ガウスへ〟
リゲルの驚愕などお構いなしに、握り締められた箇所から何かが流れ込んでくる感触。先に見た文様が自身の手の中で一度だけ発光し、スイッチを切られたように消えた。
〝これでいいです。仕込みが気取られないように、停留中の魔力の動きはかなり抑えてありますから〟
〝お、おお〟
なるべく平静を務めつつも、いきなり手を握られた衝撃に狼狽える言葉を内心で叱咤する。……この程度で動揺してどうすると言うのだ。普段全くそういう素振りを見せない故に、いざ披露されると破壊力は大きかった。
〝魔力を込めて【解放】の文言を唱えれば発動します。術式一つにつき一発限りなので、無駄にしないよう、精々上手く使ってきてください〟
〝……ありがとよ〟
〝礼は要りません。当然のことですから〟
素っ気ない言葉の裏に隠された努力と苦労。それを感じるリゲルを見つめていた、郭が再び唇を開き。
〝……済みません〟
ポツリと出されたのは、詫びる言葉。
〝貴方たちに大口をたたいておきながら。……今の僕には、これ以外に何もできることがない〟
〝……っ〟
噛み締められるのは無力さと情けなさ。そこに来てリゲルは漸く思い至る。常に毅然とし、誇り高く、自負を持っていた郭だからこそ――。
〝僕には、取れる責任が……!〟
〝――やめてくれよ〟
声が震えだす。郭を苛んでいる自責に言いようのない罪責を覚えて、リゲルは言った。
〝お前が治療に専念してんのは、元はと言えば俺のせいだ〟
――そう。
あのとき自分が郭に庇われさえしなければ。……自力でヤマトを倒すことができていれば、全ては違っていたはずだ。
だから――。
〝それは……〟
〝……心配要らねえよ〟
続こうとする郭の声を遮って、リゲルは言う。言ってのける。
〝お前が出るまでもねえってことさ。――永久の魔は俺たちが倒してきてやる。必ずな〟
〝――っ〟
掌と拳を打ち合わせながら真剣に言われたその台詞に、郭は一瞬、唇を開きかけたまま止まり。
〝……全く〟
呆気にとられていたような口元を、微笑むように柔らかく崩した。
〝本当に、……あなたは〟
〝ッ――つうか〟
目元に溜められた涙。苦手な湿っぽい空気が訪れそうなのを察知して、リゲルは少々喰い気味に話を振る。
〝これについてもう少し教えてくれよ。俺じゃまだ、魔術の事はよく分かんねえからな〟
〝……そうですね〟
「……終われねえだろ。んなところで」
虚勢に似た威勢に釣られるように――眦を鋭くして見据えた先で、動きを見せる永久の魔。僅かに此方を向いたその姿が、今のリゲルにはこれまでとは全く違うものとして映り込んでいる。
――壁だ。
分厚く見上げるほど高い、圧倒的な密度を持たされた黒鋼の壁。塞ぐ表には付け込む皹も隙間もなく、ただ偏に、確固たる障害として目の前に立ちはだかっている。
〝――その術式は、神聖属性をベースに組み上げた現代魔術を貴方用にカスタマイズしたものです〟
その障害を認めて火が付いたように。沸々と高まっていく闘志の中で、リゲルは構える。
〝拳に術の威力を乗せて打つのが貴方のスタイルでしょう? 苦労しましたよ。そんな荒っぽい使い方に合わせるのは〟
取るのはファイティングポーズ。動かぬ両腕を引き絞り、身に叩き込んできたその戦意を糧として。
〝紛れもなくその術は今の僕にできる最高のものです。僅かの緩みも、手抜かりもありません〟
聳え立つ壁と相対する中で。記憶の中の郭の眼差しが、確かに再度リゲルを見た。
〝――勝って来て下さい〟
――突き破れ。
〝どうか。――頼みます、リゲル〟
「……託されてんだよ」
貫け、ぶち破れ。全ての決意を固めた己の拳に捧げ。
「俺は、――こいつをなあッッ‼‼」
――【解放】。
あの夜から密かに練習してきた無詠唱。掌に宿された術式を解き放ち。
リゲルは今、粉骨砕身の一撃を放つ。




