第八節 永久の魔
「――」
――永き時が過ぎた。
過ぎたのだろう、ということしか分からなかった。外界から隔絶された無明の闇。だがこの状態になってさえ絶え間なく流れ込んでくる負の情念は、封じられてなお私に消滅することを許さない。
――楽園など、どこにもなかったのだ。
益体もなく思うのはただ、かつて自らが抱えていた思い。……楽園に見える此処は箱庭。私たちは、良き統治者などではなかった。
ただの道具だ。イデアと神器に選ばれて動かされる、ただそれだけの物だったのだ。信頼も、尊敬も、何一つありはしない……。
「……」
嘆き。遣る瀬無さ。怒り。絶望。諦念。
渦巻くそれらと負の情念とを抱えながら、私はただ闇の中で沈滞していた。
――更に数え難い時が流れた。
絶えず濁流の如く流れ込んでくる負の情念に心の機微は消え失せて、いつしか完全に慣れ溺れた。
……全て虚しい。
かつて抱いていた嘆きも。
怒りも、遣る瀬無さも、諦念も。
今となっては全てどうでもいいことだ。良き統治と楽園など、全て夢物語でしかない。
――いつの日もあった。
煮え滾るような怒りが。骨髄に徹すような憎しみが。粘つくような嫉妬が。燻るような妬みが。虚栄が、恐怖が、怯えが、残酷が、怨恨が、害意が、殺意が。そして、それらと同じだけの悲しみが。
決して無くなることはなかった。寄せては引く波のようにして打ちながら、常に私のところへと流れ続けた。途切れることのない負の情念が私に教えてくれている。私たちの抱えているものが、どういうことであるのかを。
――人は変われなかった。
どれだけ変わったように見えているとしても。結局のところ、同じ際の内を廻り続けているだけに過ぎない。……だからこそ、イデアもあの方法を取ったのだろう。
皮肉気な思いが蠢く。神器持ちはイデアに利用されていた。人は神器と神器持ちとを通じて、その情念をイデアに管理されていた。
だがイデアが現われなかったなら。神器を持つ私たちがいなかったのなら、果たしてそれはあれより良き世界だっただろうか?
イデアが私たちのところを訪れる前。諍いが絶えず、誰もが疲弊し切っていたあの時分。誰もがそれに気付き、感じていたはずだ。このままではいけないと考えている者も、少なくなかったに違いない。
それでも変革は起こらなかった。誰かが変えようと声を上げ拳を上げる度、別の誰かが必ずそれを押し阻んだ。……かつての私のように。かつてのあの男のように。イデアが現われて神器を授けるまでに、誰もその状況を変えられなかった。ただ、切っ掛けを待つことしか。
これほどの負の情念を常に抱えているという状況から、外れ様がないのなら。
――信頼に値しないなど、当たり前の事ではないか?
何事も完璧を目指したイデアの事だ。自分だけでどうにかできたのならば、既にそうしていたことだろう。最後に思い知らされたあのことはつまり、私たちだけでなく、イデアも。
……いや。
考えを止める。……今更なにを思おうが、どうでもいい。
虚しいだけだ。全ては遠い日の過去に終えられたこと。どの道私が此処から出ることは叶わない。出られたとしても、私の剣はイデアには届かない。それをもう、思い知ったのだから。
……それからまた、更に長く。
「……」
変わらぬ今に最早何を思うこともなく。ただ意識を負に揺蕩わせ、微睡のように時を過ごす常。時間の感覚は既にない。悠久に等しい変化のない時の中で、何を基準に時を計れと言う?
心の内にあったのはイデアの言葉。世界が燃え落ちるその日まで。あのときイデアは、確かにそう言った。
確かにそうだ。人の世に終わりが訪れでもしない限り、この私は終わらない。正にその時だけにこそ、私にも終わりが訪れるのだろう。黙し瞑し思わずしてただその時を待つ。それだけの時間に。
「――」
不意に。微かに身じろぐように身体を動かそうとする。そんなことをした自分にまず驚き、驚きを覚えたことに驚かされる。
揺れが響いた気がしたのだ。……微かな音も。その感覚を切っ掛けとして、自身に残されていた反射のような何かが身体を動かそうとした。遂におかしくなったかとそう思う。元より狂わないでいる方がおかしいはずなのだ。そもそもこの異常な状況下で、なぜ私はこれまで狂わずにいたのだろう?
「……」
闇中から生み落されるように。唐突に開けた世界を目にしながら思う。……いや。何を以て狂っていないなどと判断する? 本当は既に、とっくの昔に、狂っていたのかも……。
「――やあ」
掛けられた声。その瞬間になって初めて、この世界に自分以外の誰かがいることを自覚した。
「おはようでいいのかな? 君が、永久の魔かい?」
軋むような眼を動かして見る。……見捨てられた農地の如く乱雑疎らな髭を顎元に生やした男。穏和なその瞳。丸いガラスを嵌めた何かしらの道具が、その印象をより際立ったものとしている。
「……何者だ?」
発せられた声。あれだけの年月を経ておいて、これほど流暢に言葉を出せたことに驚く。張り付いた喉の奥が再び開くような感覚。今私の前にいるということは、それだけで只者ではないことを示しているのだろうが。
「そうだったね。僕はヴェイグ。ヴェイグ・カーンだ」
「……何の用だ」
乾いた口内。問い掛けは、舌の根にこびり付いた錆を落とすように擦り合わせながら。
「ぜひとも果たしたいことがあってね。その為に、貴方の力を借りたい」
味、匂い、触感、温度。
あの場所から脱出を果たしたことを理解しても、意気は昂ぶらない。此方を見つめている男の語りは、やけに遠い他人事のように耳に響いた。
「……果たしたいことだと?」
「ああ。――この世界を終わらせる」
射抜くような瞳。込められているのが覚悟と決意だと知ったところで、心に響くことなど何もなく。
「……ふん」
無駄な事だ。この男がどれだけの力と覚悟を持っていようとも、所詮は人。
イデアのいる限りその目的が叶うことはない。……そう思えばまた、心が虚しさへと沈んでいく。
「何も知らぬ身の上で、大それたことを口にするものだ」
「管理者の事かい?」
「――」
……管理者?
管理。……イデア。
知っている? この男。
「……イデアの事か?」
「イデアと言うのか。僕は知らないから何とも言えないけれど、貴方が言うのなら多分、そうなんだろうね」
男の目が私を、私の手にしている神器を見る。視線を上げ。
「管理者は殺せる。でなければ、僕の目指す滅世は成り立たない」
「……」
……届くのか?
この剣が。私たちの手が、あのイデアに。
「……いいだろう」
零れてくる返答は、ごく自然。
「手を貸してやる。ヴェイグ・カーン」
「――ありがたい」
安堵したように息を吐いて、開いた眼を改めて私に向けた。
「宜しく頼むよ。……で、早速で悪いんだが――」
「ああ」
一度たりとも離すことのなかった剣の感触を確かめる。猛速で此方に近付いて来ている複数の気配。何か異常な情念を秘めているそれらを、感覚で捉えた。
「分かっている。皆まで言う必要はない」
――――
「――世界の感想はどうだい?」
イデアに押し込められたあの島をヴェイグたちと共に後にして、暫く。
「なにぶん久し振りだからね。なにか、興味を惹くものでもあったかな?」
「――下らんな」
現代の宿泊所の一室。睥睨し、無感動に評定を下す。
「私のいたあの場所と時代からなにも変わらぬ。ただ、同じところを巡っているだけだ」
気の遠くなるような年月を経て目の前に現われた世界は、確かに目新しさはあった。
見せられた世の変わり様は目まぐるしく、これが本当に同じ世界、本当に同じ人間なのかと疑ったほどだ。
だがそれでも、じっくりと見ている内に気付くことがある。……広がっているモノたち。考え方、感じ方、言葉、話し方。
その全てに表面化していない前提が設けられている。私たちの時代にはなかったその前提。そこから今に至るまでのどこかで現われ沈んでいっただろうそれらを礎としていることに、この時代の多くの人間は気付いていないように感じられた。見えぬそれらにこそ色濃く考えや風習を左右されているというのに、足場に埋まっているそれらには気付かぬままだ。
――何も変わらないではないか。
かつて知らぬままイデアの管理に身を預けていた自分たちと。悪くなっているとさえ言える。時が進んだだけ覆い隠しは進行し、尽きぬ負の情念を抱えていることへの自覚もない。目に映る物がどれだけ変えられていたとしても、そこが同じであるのなら所詮大差はないと、私にはそう思えた。
「全て虚しい。……それに尽きる」
「……そうだね」
望みのない私の言葉を男は否定しない。
「世界と人は変わらない。変われないと言った方が適切かな。古くから人の負の情念を抱え続けている、貴方が示しているように」
私に向けられる男の瞳。そこに計り知れない歳月の重みが潜んでいるのを感じ取る。
「だからこそ僕は滅世を選んだ。貴方が抱いているその虚しさも、これで漸く終わりにすることができると思うよ」
「……滅世か」
「ああ」
かつては力を秘めていた言葉でさえ軽く扱われるこの時代。此処彼処に誇大な文言が躍っているのを見ると、最早乾いた笑いさえ込み上げて来なくなる。
だがこの男。ヴェイグに対してはそのように言うつもりはなかった。……この男は、知っているからだ。
変わりながらも外れられないということを。際を見つめる者の虚しさを、ともすればこの私以上に。それでもなお、それを押して何かをする為に此処に立っている。
だからこそ同じことを見ていたとしても、私とは違っていた。
「少しでも確実性を高めるようにしておかないといけない。管理者への対処法だけど――」
「……」
闇。かつてに似た深い暗闇の中に、私は微動だにせず座っている。変わりようのない虚しさを抱えたまま。
――管理者。イデアをその手に掛けた後でさえも、然したる特別な感慨はなかった。
かつてと寸分違わぬ姿との相対。対峙から言葉を交わす都度、忘れ去ることのできない記憶が呼び起されてきた。滲んできた思いの残滓のままに剣を振るい、激昂し、最後に余りに軽い手応えを覚えながらその身体を切り裂いた。あの日手ずから授かった神器にて命を絶ち、ヴェイグが最後にその身体を跡形もなく消し去る様を、確かにこの眼で見届けたのだ。
……だが。
だが、だが。
「……」
それだけだ。……ただそれだけ。何が変えられたわけでもない。私は今もこうして、この暗闇で蹲るように座っている。未だ尽きることのない負の大海を抱えたまま。自ら敢えてかつていた場所と、同じ場所に戻るようにして。
――何かが変わるとでも思っていたのか?
浮かんでくる問いは最早自嘲ですらない。ただ諦念。最後の希望が散った事への諦念だけがある。……動かない。自分はなにも。改めてそれを思い知ったとき。
……そうか。
私はふと。私自身について合点が入った。
――既に、手遅れだったのだ。
変わることなき負の情念を味わい、浸り続けて。……虚しさが私の内に根を張ってしまっている。イデアを殺してさえ変わらないのなら、私はもう。
虚しさしか覚えなくなってしまっているのだ。……この先何と遇ったとしても、きっと動くことはない。
目に映るモノ全てを虚しさの色に染め上げて。届く音全てを虚しさの響きと解し、何もかもを虚しさで断罪しながら。
唯々終わりを待つ身。……滅世者、ヴェイグ・カーンの齎す終わりを。
「……」
……全て虚しい。
なにもかも。……そう、一際強く感じられた。
――だからあのとき見えた瞳に、なけなしの動機を賭けてみたのだ。




