第二十七節 戦慄
「……」
――底冷えのする夜気の中。
人気のない建物を歩いていく。……目覚めたばかりの新しい支部。間取りも構造も分からないまま。ただ感覚的に進む先を選び、足を進めるだけ。
「……」
中途にあった扉の多くには鍵が掛けられていた。……一応ノックして反応を待ってはみたが、恐らくそこにはいないだろうと考えて調べるのは後回しにしている。
――こんなことをしたのなら、フィアは見付けて欲しいはずだ。
フィアは俺だけを壁のこちら側に閉じ込めた。一人で閉じ籠らずに、全員を捕えずに、敢えて、俺だけを。
根拠としては弱いかもしれないが、今の俺が頼りにできるのはその事実しかない。かつての俺とは違うという、その。
「……」
――どこにいる?
既に十五分ほど支部内を歩き回っている。……癒え切らない疲労が身体に圧し掛かる。扉を開く一瞬の緊張。空の部屋を目にする度に、疲労が増していくようだ。
――フィアが、人間じゃない?
その事実が未だに俺の頭の中を回っている。……アデルの言葉は最後まで聞き取れなかった。断言されたのは人間ではないという、ただそれだけ。
――信じ切れるわけがない。
出会ってからこれまでの間。フィアが俺に見せた表情は、これ以上ないほどに人間的だった。
だが同時に腑にも落ちてしまう。これまで微かに引っ掛かっていた事実の数々。一応の解釈を与えていたそれらが、一つながりの説明を持って理解できてしまうのだ。……仮にフィアが、人間でないとするならば。
フィアはなぜ、こんなことをしたのだろうか。
目的も、動機も、まるで見えてこない。自らが人間でないことを意図的に隠していたならば、ジェインの言うように、記憶喪失と言うのもそもそも。
「……」
袋小路の考えを回している内に、階段に着いてしまう。……此処から先は二階か、地下か。
「……」
階段の先に見上げた二階の様相は見て来た一階とそれほど変わらない。そのことを確認して、下へと延びる段差に足を踏み入れた。
――降りた先。広がる地下は、物置のような場所だった。
廊下のそこかしこに積み上げられている書類の束。所狭しと棚に置かれている何らかの道具たち。新し目なものもあるが、多くは古びた様相で埃を被っている。使われなくなったものを保管しておく場所なのか。
手前から一つずつ順に部屋を開けて見ていくが、そこも大凡の体は同じ。使い道の分からない物品が大量に積まれ、保管されている。鍵の掛けられた部屋も幾つかあり、そこは調べることができない。
「……」
一か所ずつ。調べていない場所を潰すようにして奥に進んでいく。此処にいなければ、また二階まで調べなければならないことになるが。
「――」
……声。欹てた耳に微かに、しかし確かに聞こえてくる音。
「……」
聞き漏らさないように静かに歩き……やがて、見当をつけた一つの部屋の前に立つ。……確かに音は中からしている。ドアノブに手を掛けて、ふと、なぜかそうしなければならないような気がして、ゆっくりと音を立てないよう、慎重に扉を奥へ押し開けていく。
「……」
――暗い。夜で電灯が点いていないのだから当たり前だが、真っ暗だ。地下で窓がないせいで月明かりすら差し込んではいない。開けた廊下側からの光が、微かに近くの床の色調を変えているだけ。……ここは。
物置じゃない。大きく開けられた空間。過去には食堂として使われていたような、広い部屋だ。中央にあるテーブルには茶けたクロスが掛けられているまま。物に埋められた部屋ばかり見ていたせいか、やけに寒々しい印象を受ける、その中で。
「……」
……啜り泣いている。
踏み入り左側を向いた視界。……闇の中に白く浮き上がっている、衣服。見覚えはある。だが微かな声は途切れ途切れで、注意して聞いてもフィアのものなのかどうか判別がつかない。小さくしゃくりあげるような嗚咽が、物悲しげに響いた。
「……」
……一歩、二歩。
その背中を見据えたまま、慎重に進んでいく。……声を掛けるにはまだ遠い。なぜかは分からないが、そう思う自分の判断を肯定する。……まだ早い。もう少し、もう少し近付いてから……。
――そう思っていた矢先。
「――」
物を蹴った足先が立てた音。意志に反して鳴ったその音に、思わず全身が硬直する。振り向いた背中と──。
「……」
目が合った。顔半分を隠している髪越しに、片方の瞳だけが俺を見つめている。……瞳。紫翠色をした、深い――。
「 ― ― 黄 泉 示 さ ん ?」
瞳の奥底から響くような、情念を纏ったその声を聞いた瞬間――
「――」
身体を貫くような怖気に、耐え切れなくなって飛び出した。
「――ッッ‼」
円環のブーストを使って全力で駆け走る。……なんだ? なんだあの眼は?
震えが走るなどというレベルではない。背筋が凍り付くのとも違う。ただ、ただひたすらに、逃げずにはいられない恐ろしさ。
身体が独りでに動くのだ。まるで身体全体が自分のものではないかのように独りでに、恐怖に突き動かされて――‼
――唐突に、強かに全身が何かにぶつかった。
「つッ⁉」
走った強烈な衝撃に頭を振る、その最中にも必死に前を向いた視界。上へと伸びるあるはずの踏み段を遮っているのは、朧気に発光する光の壁。塞がれている。完全に……。
「くそッ、くそッッ‼」
一分の隙間もない。立ちはだかっているその壁を痛みの残る腕で狂ったように殴り叩く。それでも薄らと光る壁には傷一つ付かない。破れない。力なく腕を落としながら、そのことをもう、本能的に理解していた。
この壁が、なんのためにあるのかを――。
「っ――‼」
荒い自らの呼吸に交じって届く足音。……近付いて来ている。軽く、ぬめり気のある液体を踏みつけにしているかのような悍ましいその音を、反射的に意識から締め出す。――逃げなくては。早く、どこかに。
「――ッ!」
手すりを掴み猛然と跳び越えた柵。厚手の絨毯に鈍く着地の音が響くのも構わず、全力で足音の反対側へ。なにか、なにか――ッ‼
「……!」
血眼で見渡す目に目立たないように据えてある一個の納戸が留まる。その小さな扉に縋り付くように駆け寄り、可能な限り音を立てないようにして開扉。中へ入った。
「……はっ、はっ」
扉を閉める。……古くかび臭い空気。止まらない動悸に噴き出してくる汗が、じめりとした不快感を更に増していく。息が零れ出さないよう両掌で口を塞ぎ、酸素を取り込もうと脈打つ心臓を意志の力で押さえ付ける。……聞こえている。一定の歩調で少しずつ近付いて来る、あの足音が。
「……」
扉の前。最悪の場所で立ち止まった足音に全霊を賭して自らの気配を殺し続ける。早く、早く。そう願う俺の内心を揺さ振るように長く止まっていたかと思うと、次の瞬間響くのは歩き出したあの足音。……次第に遠く。まだ見ていない奥の方へ。
――探しているのか? ……奥を。俺を。
「……」
五秒、十秒。足音が戻ってくる気配はない。欹てた耳に音は何も聞こえてこず、ただ痛いほどの静寂が鼓膜を打っている。
……どうする?
僅かに落ち着いてきた頭に考えが浮かぶ。この隠れ場所は袋小路。次戻って来られれば見付からない保証はない。奥の通路はある程度の広さがあった。探すとしても時間はかかる。あの速さでは、まだ戻って来られないはず。
――行けるか? 唇を噛みつつそう自問する。上に戻る通路は塞がれている。元来た方へと逆を突き、どこかの部屋の窓から外へ。それしかない。足音はまだ聞こえない。行くしかない。スピード勝負だ。塞がれていれば今度は死ぬ気で叩き割るつもりで、必死の深呼吸と共に覚悟を決め――。
「――っ――⁉」
「……あれ?」
勢いよく開け放った扉の向こう。顕になったその景色に、走り出そうとしていた足が止まった。
「……どうしたんですか? 黄泉示さん」
彫像の如く固まった身体に、不思議そうに掛けられる声。何も変わらない。いつもと変わらない姿のフィアが、そこに立っている。……なぜ。
「そんなに驚いて。幽霊でも見たんですか?」
この場所に。目を見張る俺を見てクスクスと、可笑しそうにフィアは笑う。どこまでも可愛らしく、愛らしく。その仕草が却って、俺を取り囲む不安と不気味さを高めていく。思わず下がろうとした足がもつれ、尻餅を付くように倒れ込み――。
「――」
立ち上がろうとして、気が付いた。……付いた手の下にある滑り気。濃厚な鉄錆の臭いを放っていた、ソレは。
――血だ。
紅く。床がいつの間にか緋緋く染められている。そこに付いた手が、腕が、足裏が、その液体に貼り付いてしまったかのように、離れない。逃げようと、渾身の力を込めても……。
「――おかしいと思いませんでしたか? 黄泉示さん」
届く声。もがけばもがくほど動けなくなっていく、蜘蛛の巣に囚われた獲物。そんな俺の様子を眺め、フィアは少しずつ近付いてくる。落ち着いた足取りで少しずつ、少しずつ、ゆっくりと。
「私が黄泉示さんの家に置かせてくれるようお願いしたとき、どうして警察に行かないのかって」
俺を見ている。見えるのは見慣れた翡翠色ではなく、紫の瞳。闇に似た暗めきを宿した、紫紺の色。
「私、思い出したんです」
瞳の奥のその暗めきから、紅い赤が零れ出した。
「自分のことを。あの時どうして、私が警察に行くということを思いつかなかったのかを」
溢れ出していく。頬を伝い、服を染め、小さな足の指先から流れて。加わった床の血溜まりを、更に大きく広げていく。
「私の着替えはどうでした?」
それでも耳に届く声は変わらない。血の気の失せていく唇から紡がれるのは、鈴の音のような、染み入るような声。
「一緒に寝たこともありましたよね。互いの温度を感じて」
その響きに微かに混ざる異音を、聞きたくもないのに捉えてしまう。
「ドキドキしましたか?」
初めは小さく。喋る度に次第に、広がって。
「一緒に暮らして、ご飯を作って、勉強を教えてもらって、遊んで、話して」
段々に変わっていく。聞き慣れた安堵を覚える音色から、得体の知れない不協和音へと。……違う、違う。
「楽しかったですか? 私に、恋 し ち ゃ っ た で し ょ う か ?」
恐怖で痺れた頭に浮かぶのはただ否定。……フィアじゃ、ない……!
「……っ……‼」
息が触れるほど近くまで近付いた。血の気のない肌は零れ落ちていく鮮やかな赤と対比して、まるで冗談かなにかのように白い。
「だから、訊かせて下さい」
血を流す紫翠色の瞳が俺を見る。光りを失った虚ろな、死者の瞳――
「――黄 泉 示 さ ん あ な た は」
その奥にぽっかりと空いた深淵に射竦められてただ震えるしかないだけの俺に。
「私 を 愛 し て く れ ま す か ?」
そんな場違いな、言葉が届いた。




