第二十四節 顛末
「――ッ!」
大きく吐き出した息と共に膝を突く。それまでの遊ぶような挙動から一転。どこか切迫した気配に連れて放たれたのは、視界一面を埋め尽くすほどの炎剣の嵐。散発的だった剣雨とは比べ物にならない驟雨の如き密度。
「く……!」
その全てをジェインは辛うじて躱し抜いていた。消費を度外視した【四倍速】の使用。使い切るまでには至っていないとはいえ、魔力はもう頼みにできるほど残っていない。だが、それよりも。
「……不覚でしたね」
最悪の予想を裏切るその声に振り返る。嵐が吹き抜けた粉塵の後に残っている姿。咳き込みながらも徐に立ち上がったのは、紛れもない郭詠愛。呪炎を防いだと思しき術の残滓が微かな飛沫となって土に落ちる、その光景を独りでに捉えていた瞳。
「状況は把握しています。僕が行きましょう」
「……待て、その身体では――!」
「時間が惜しいので」
集中したような郭は此方に目を向けようともしない。口の中で何かを呟いた、その周囲に展開される複数の術式。
「それに今の貴方には任せられません。僕には僕の、貴方には貴方のできることがある」
そうではないですか、とジェインを向いた。合わせられた瞳の強さは、全てを推し量っている者の目付きだ。
「……分かった。二人を頼む」
「善処しますよ」
知らぬ者が聞けば空辣にも響くその言葉が、今はなんと頼もしく響くことか。
「では。――リゲルを頼みます」
最後に小さく台詞を残して、強化の魔術を発動したと思しき郭は颯の如く、ジェインの目前から走り去って行った。
「……っ……」
引き摺る脚の痛みに顔を顰めるジェイン。寝転がる友の状態を確認して、改めてその酷さを痛感する。……深手はないが、傷の多さが酷い。出血量もそれなりだ。零れ出した血液は大地を染め、身体に宿るときには持っていただろう熱を完全に失っている。
「――【時の遅延・三分の一倍速】」
始めの遅延にて失血を遅らせる。……これで少しは持つようになった。次は……。
「〝揺り起こすは我が手の魔力。彼の者に伝い、その破れし場所へ流れ〟」
覚えた詠唱を記憶の糸を辿りながら諳んじる。定着した記憶に、万に一つも間違いなどあるはずもなく。
「――〝癒せよ〟【治癒】」
見つめる中で幾つかの傷口がゆっくりと塞がっていき、出血を止める。……適性のないジェインの治癒はフィアほど効力のあるものではない。だが少なくとも、これで急場は凌げるだろう。
「ふぅ……っ……」
死地に踏み込んでいたという記憶。思い起こした感覚に手が戦慄く。次第に激しくなりつつある震えを、残る右手で無理矢理に押さえ付けた。
――ヤマトタケルは、逃げたわけではない。
向こう側で何かしらの変化があり、それに駆け付けた。ジェインには確信とも呼べる推測があった。……あの二人がガイゲに対し優勢に立ったのだろう。リゲルを一蹴して見せたあの黒騎士は確かに強敵だろうが、円環を持つ黄泉示なら勝機がある。特にああいった戦いを楽しむタイプの手合いならば、突ける隙はその分大きくなるはずだ。
だが、そこにヤマトが加わったなら果たしてどうか。
属性の相性的には有利だ。神聖の支配者の適性を得ているフィアの方がジェインたちより余程上手く立ち回れるのかもしれないし、それを願う気持ちはある。しかし……。
それだけでどうにかできる相手でもないことは、自らの撃った銃弾、郭が撃ち放った魔術を耐え抜いたことからも明らかだった。炎剣だけではなく、ヤマトにはまだ何かある。
二人にはせめてそれを伝えなければならない。病み上がりの郭が、どこまで戦えるのかは分からない。……それでも……。
「……任せられない、か」
ジェインは呟き、腰に光る短剣の煌めきを見つめていた。
「……」
――衝撃。気が付いた時には、意識が朧気な景色を捉える。
……どこだ?
内心で尋ねてから思い返す。……支部。レジェンドの襲撃を受けて、ガイゲと戦い、それで。
視界にぼんやりと映る光。紫と白が空の間でせめぎ合っている。……光?
「――!」
それに気付いた瞬間我に返る。――フィアが。
フィアが戦っている。一人で、まだ……。
「……‼」
円環に念じても身体は動かない。詠唱を紡ごうと口を動かすが、僅かに針の孔ほど開いた隙間からは、息の漏れる音さえしなかった。
「――」
――諦めるな。
己に鞭打つ。……声が出せないのなら、声を出さずに唱えればいい。
身体は動かずとも俺が今こうして思えるならば、それは呪文を紡ぎ出せる証。エリティスさんから預けられた、あの呪文を。
――唱えろ。
できるできないじゃない。
――唱えろ――ッ‼
できるんだ。なにがなんでも、手遅れになる前に。
その為の円環。その為の努力。その為に、今までやってきたんだろ⁉
「――」
紡ぐ。死の淵にある全身全霊を注ぎ込んで、記憶にある言葉の羅列を。感覚は既になく、これまでのような拒絶感は皆無。それが唯一と言える後押しだ。
「――」
とにかく唱える。脳髄から意志の空白に言の葉を刻み続ける。なにもかも擲つような、我武者羅な勢いのまま――。
これまでにない速さで。最後となる一節を、唱え終えた。
……。
……なにも起こらない。起きたのだという感覚。それがないことが傷のせいなのかどうかさえ、分からないでいる。……失敗、なのか……?
「……⁉」
不意。耳鳴りのように聞こえていた戦場の音が、消える。一瞬意識を失ったのかと思ったが、そうではない。
景色が黒い。身体を満たしていた重さがない。……意識はある。俺はまだ、考えられて。
「っ――⁉」
回る頭の中。脈打つ心臓に、ソレが這入って来たのを悟る瞬間。
繋がる俺と世界の全てが、言いようのない黒に鎖された。
「――」
瞬転。目の前でヤマトの軍服が引き千切られる。
「ヤマトッッ‼」
叫びと共にしかし、誅滅の黒騎士は機を逃さない。鎧に溜めた膂力を刹那に解放。一度の踏込みで距離を消し去り、勢いを乗せた最上段から頭部へ剣を振り下ろす。重装の鎧兜でさえ断ち割る剛撃。脳髄から仙骨を一息に切り下ろすその斬撃の。
「ッ⁉」
手応えがない。受け止めたのは未知の驚愕。剣身は確かに直撃しているにも拘らず、まるで、無を打ったよう――
「ッと‼」
音もなく繰り出された掌を反転して躱す所作。本能的な危機感が受けるという選択肢を拒否した結果だが、それでも躱し切れなかった指先が僅かに胸当を掠めていく。――咄嗟のブーストで渡り合っていた先とは違う。素で自らに並ぶほどの身体能力。しかも、これは。
ヤマトは既に死神が遠ざけている。横目でそれを確認して、気を引くよう逆方向に距離を取った。
「……おいおい」
板金の表面。手応えなく削り取られていた指痕を籠手越しの指先でなぞり、相対するその姿を今一度見止める。
「どうなんってんだよ、ソイツは」
胸中に抱くは久方振りの緊張感。自然と零れ出す笑みに、苦く口の端を上げた。
――黒い。沸騰する蒸気の如くに立ち昇っている真黒色。……黒いのだ。纏う揺らぎだけでなく、服の切れ目から覗く肌も、傷口から覗く肉も、そこから零れ落ちている鮮血であるはずのものさえも。
……確かに致命傷を負わせたはずだ。
回復などしていない。阻害の為の用意を整えたガイゲにはそのことがよく分かっている。……今し方見せられた動きには凝りがなかった。ならば動けるはずのない身体で動いているだけでなく、その上一片の苦痛すら感じていないということになる。あれだけの傷で、あれだけの血を流しておきながら。
「……」
敵対者として幾多の魔術を目にしてきた。異形を召喚する使い手、禁忌と呼ばれる技法を頼みとする術師を相手取ったこともある。その全てを戦いの中で看破し、乗り越え、捻じ伏せてきた。
……だが、これはそのどれとも違う。
何も感じないのだ。そこだけ世界が切り取られ、抜け落ちてしまったかのように、何も。どれだけ注意してみても変わらない。『処刑者の聖鎧』を抵抗なく削ぎ取ったあの黒は、疑い様もなく最高級の脅威であるに違いないのに。
毛先ほどの畏れさえ感じ取ることができない。……そのことがただ、ガイゲには異様であり、不気味だった。
「……」
呼吸音がしない。新たにそのことに気が付いて愕然とする。鼓動から来るはずのリズムと揺らぎがない。所作にあの生易しげな青年の面影は微塵もなく、ただ漆黒の無貌が広がるのみ。
――こっちもかよ。
「……ガイゲ」
内心で自嘲気に感想を呟いたガイゲの背越しに、何時の間にか位置取りを変えていた死神が声を掛けてくる。敢えて見ずとも分かっていた。彼女が此処にきて、なにを伝えたいのかは。
「――退くぞ」
躊躇わず口にした言葉。
「全ての責任は俺が取る。この化け物には暫く、俺の憂さ晴らしに付き合ってもらうとするさ」
努めて切っ先を低く構える。――撤退戦だ。経験したことは数度しかないが、やることは常に決まっている。敵の目を自らに引き付けつつ耐え伸びること。不退転の決意。それだけだ。
取っ掛かりは限りなく薄く、これまで陥った苦境の中でも状況は最悪。それでもあれが何かしらの術法である以上、必ず何らかの代償を支払っているはずだとガイゲは推測する。目に見えずとも、感じ取れずとも、そのことだけは確かである。そう断じなければただの手詰まりでしかない。仮にもしそうなら端から全て終わっているだけの話だ。
「【聖典詠唱――‼」
脳裏に浮かぶリストから効果的と思える幾つかを選び出す。やるしかない。離脱する気配を鎧甲の背に感じつつ、ガイゲが無謀な戦いに身を投じようとした刹那。
――なんだ?
「…………」
黒の化け物が動きを止める。痙攣するかのように細かく戦慄いている手足。――外れている。例え表情が読めずとも、そのことだけははっきりと分かった。
――これは。
「――ッッ‼」
逡巡は一瞬。どうあっても逃し難い機会を前に。
ガイゲは全力で。戦場から背を向けた。
「……」
――消えた。地表から戦いの気配が拭い去られたのを再確認して、アデルは扉を押し上げる。肩に支部長を背負ったまま、外へ出た。
「……」
盛大に皹割られた地面。隆起し陥没したその一部は削り取られ、また一部には夜目でも分かるほどの血痕を残している。苛烈であったろう戦いの足跡、それらの中で。
――倒れている青年と少女を見止めて、アデルは可及的速やかに近付いて行く。……少女の方は軽傷。気絶しているだけのようだが、青年は。
手酷い負傷だ。アデルはそう見て取った。腹部に強烈な打撃の跡があるのに加え、全身に打ち身、切り傷と擦過傷。随所に内出血のような症状も見られている。文字通り虫の息という表現が似合う様。放置すれば然程間を置かずに死に至ることだろう。
「世話が焼ける」
屈みこむ。唱えた聖典の一節に応じて柔らかな燐光が青年を包み込み、傷を癒す。アデルの力量では快癒には遠い。絶命までの時間を伸ばすことが精一杯だが、それでも次の治療までへの繋ぎにはなる。ひとまずこれで急場を凌いでおくしかない。
――他はどうなったことか。
治癒棟の方角に目を向ける。あの設備が破壊されていれば詰みだ。都市部から離れたこの地で一般の病院までの搬送が間に合わないことは明白だろう。青年が助かるかどうかは――。
「神のみぞ知る、か……」
皮肉気な笑い。然したる苦労もなさ気に、アデルは三人を抱え上げ。
静かな月明かりが照らす夜の中を一人、歩いて行った。




