第十四節 戦いを告げる
―――
――
―
「……ただいま」
立慧さんに案内された店で、恙無く夕飯も終えた俺たち。例の建物から支部へと帰ってきて一息を吐く。……どこに帰ってきたとしても、着いた時のこの一言だけは変わらない。
「ふ~……っと。今日はもう相談もなしで良いでしょ。明日、また全員で話すってことで」
「そうですね」
今から話をしてみても仕方がない。……俺たちは今日を遊ぶことに決めた。必要なのはその疲れを癒すための休息だ。
「郭の様子だけ確認しとくから。あんたたちは寝なさい」
「っと、俺も――」
夕飯中も気にしているような素振りを見せていた、リゲルが立慧さんに言い掛けた。
――瞬間。
「――」
止まる。示し合せたわけでも、誰かが合図をしたわけでも、偶々そうなったのでもない。
それでも同時に俺たちは動くのを止めた。そのわけは当然、誰もが理解していただろう。
溶けた鉛の大海に沈められているような。身体思考の一切が動き難いこの感覚は、あの……!
「――」
動かない身体に代わり心の中だけでもやがて来るだろう衝撃に備える。……一秒、二秒。
「……」
七秒が過ぎても変化はない。……重苦しい気配も、相変わらず空気を満たしたまま。
「……なんで」
「……気味が悪いわね」
恐らくは俺と同じように。海中から如何ともし難く浮かび上がる疑問で辛うじて言葉を絞り出したのは、立慧さん。
「……待ってるん、でしょうか?」
――待っている?
なんとか言葉にしたようなフィアのその呟きに自問する。……なにを?
「……僕たちが、出て来るのを、か?」
「……はい」
――そんな馬鹿な、と思う。あれが俺たちを至極丁寧に待つ動機など、どこにもないはずだ。ただあの圧倒的な力を持って蹂躙すればいいだけ。それで全てが終わる。
だが確かに。何事も起きないことに判断が揺れる。この動きのなさは……。
「……行ってみようぜ」
選択を口にして、嫌でも知れるその方角を向いたのはリゲル。
「このまま此処にいたって埒が明かねえ。相手が動かねえんなら、こっちからだ」
――夜が迫っている。
外に出て真っ先に思わされたのはそれだった。夕暮れ時から徐々に世界が光を失っていく、丁度その段階の薄暗さと肌寒さ。じわじわと何処からか現われてくる夜気の中に――。
「……っ‼」
――いる。入り混じる黒紫に赤黒が染み付いた、多重の襞を持つ布地。吸い込まれるような底抜けの暗さ。目にしただけで潰されそうな圧倒的な存在感は、正しく永久の魔。こうして対峙しているだけで、矮小な自分は拉げて潰れてしまうのではないか。そんな恐怖さえ湧き上がってくるほどで。
……だが。
「……」
以前と比べてどこか違和感を覚える。……なんだ? なにがおかしい?
その姿を前にしても、普通に息ができている。そのことに気が付く。気力を振り絞ってよくよく見れば、その身体に纏い覆う邪気が、前回より幾らか薄くなっているような気がした。
「――話せるか?」
――重い。ゆっくりと紡がれたただ一言。それだけでも数トンの重量が圧し掛かるように空気の圧が急激に増す。肌が震える。身体の芯が、根本から揺るがされている。フィアがこの重圧に耐え切れているのか。体を固定する重みで後ろを振り向けない中で、そのことが心配だった。
「口の利けない状態では困る。……お前たちに伝えに来た」
明らかに。こちらを慮っているように、永久の魔は慎重に話を続ける。俺たちを殺すつもりなら、此処に来た段階で攻撃を仕掛けていればいい話だ。建物ごとの殲滅という、ミサイルや爆薬でも使わなければできないようなことが、この相手にならばいとも簡単にできてしまう。敢えてそれをしなかったということは。
「――お前たちは、私が仕留める」
身体を真二つに断たれたような。重々しい鋭さを備えて放たれたその言葉。
「期日は十日後。ヴェイグの術式が完成しない間、お前たちに与えられる最大限の猶予だ」
――これは。
「こちらから出るのは私一人。お前たちはただ、持てる全てを以て私を斃しに来ればいい」
宣戦布告。頭で理解した内容と現状の認識とが、追い付いていない。……宣戦布告? あの永久の魔が、俺たちに……。
「それと」
一息に圧縮される思考。全身に響いた音の重なりが、浸透した鼓膜から頭蓋そのものを揺るがせた。
「あの男にヴェイグから伝言だ。これからのお前の行動については、一切咎め立てすることはないとな」
睥睨するように永久の魔は見つめてきている。理解したかと、そう訊いてきている。
「……分かったわ」
肺腑を締め付けられるかのように答えを絞り出したのは立慧さん。踵を返した永久の魔は、そのまま一度も足を止めることはなく。
――迫る夜の闇に溶けていくように。静かに、俺たちの前から姿を消した。
「――良いのかよ」
月明かりを撥ねる炎が照らす暗がり。ホテルから拝借してきた林檎を齧りながら、ガイゲはその人物に向けて言葉を投げる。
「なにがだい?」
地に落とした目線を変えることなく、答える一言。……ヴェイグ。ガイゲたちの首魁たる漢が、地に膝を突き、布地に土を付けながら作業をしていた。
「あの野郎の好きにさせておくことさ。敵に準備期間を与えるなんてのは、戦争と決闘を勘違いした奴のやることだぜ。率直に言ってやり過ぎだ」
「……意外だね」
動かされる指が紋様を刻む。その間も予定した軌道に狂いがないかを入念に確認。額から落ちる汗を絶妙に制御した風の魔術で飛ばしながら、ヴェイグは漸く円陣の四半分と思える箇所を描き終え、更に眺める。
「君なら面白がりそうな提案だと思っていたよ。強い相手と戦うのは、楽しいんじゃなかったのかい?」
「そりゃそうさ。だがこれでも一応軍団の団長をやってたんでな。楽しむ場面と勝たなきゃならない場面との線引きぐらいは考えてる。果たすべき目的があんのなら、勝てなきゃ意味がねえってのは尚更だ」
「……なるほどね。言われてみれば君らしいか。……っ」
慎重に手を付いてヴェイグは強張っていた片膝を上げ、立ち上がる。ふう、と一つ疲労の息を吐いて、身体ごとガイゲの方へと向き直った。
「問題なのは、今回打った手がそいつを果たせるかどうかってことだ。どういう腹積もりなのか、それについてあんたの了見を聞きたい」
「……そうだね。まず前提として、彼らは『アポカリプスの眼』を破った」
円陣から遠ざかるように数歩を歩き、剥き出しの岩場にポツリと置かれた椅子に腰掛けながら、ヴェイグは指を折る。
「蔭水冥希、アデル・イヴァン・クロムウェル、……かの《厄災の魔女》でさえも。そんなことは正直想像もしていなかったことでね。もう彼らを、単なる悪足掻きと見做しているわけにはいかない」
「それで、奴を当てるって寸法か?」
「ああ。話してみて確信したよ。彼に遊び心はない。動機はどうあれ、全力で彼らを相手取るつもりだ。彼らが生き残れるのは――」
「ああ、俺の分はいいぜ」
「――正面から彼を乗り越えたときだけだ。最古最強の脅威、『永久の魔』を相手にして」
鳴らし掛けた指を止めて、ヴェイグは下ろした手を膝上で組み合わせる。慮るように、ガイゲと視線を合わせた。
「君たちに不安を覚えているわけじゃない。――彼は強い。君たちでも充分すぎるほどだとは思うんだが、一度予想を覆された今、念には念を入れておきたいんだ」
「なるほどな。敵に猶予を与えるのもその一環ってわけか」
「君にも分かるんじゃないのかい? ガイゲ」
すぼめる肩に擦れる鎧が音を立てる。そんな仕草に対しても、ヴェイグは真剣さの籠る表情を変えることはない。
「それが彼の、永久の魔が全力を出すための条件だ。そうなれば僕から言うことは何もないさ。ただ、信じて待っているだけだよ」
「……あんたは甘すぎるな」
「そうかい? 永久の魔を当てるだけでも少々やり過ぎかなと思っているところだけど。彼が言い出してくれなかったらどうしたかと思うと、頭が痛くなってくるよ」
いやー参ったと言うように笑みを浮かべて頭の後ろに手をやる。そんな愛嬌ある仕草にも、ガイゲは良い顔をしない。軸だけになった林檎を肩越しに遠くの暗がりへ投げ捨てた。
「あの女にしてもさっさと殺しときゃいいものを。なんでわざわざ手間のかかる方法にした?」
「滅世が遂げられるならどの道同じことじゃないか。急ぐ必要はない。それだけだよ」
「なら今殺しても同じことだろ。それに、万が一ってこともある。早い内に除くに越したことはねえ」
物言いたげな視線を向けてもなお、ヴェイグは湛えた笑みを崩さないまま。ひたすらに暖簾を押している雰囲気を覚えて、ハァ、と一つ溜め息を吐いた騎士。
「――ま、精々足元を掬われないようにするんだな」
置き台詞を残してガイゲは立ち上がり、明かりの差し込む出口へ向けて歩を進めていく。岩の削れた砂を踏む音が洞窟内に木霊する。ゆっくりと、次第にその音が遠ざかり――
「――彼が」
届いたたった一言が、ガイゲの襟髪を引き止めた。
「彼が勝てないと思うかい、ガイゲ」
「……どうだかな」
振り返る黒の騎士。椅子に深く腰掛けたままの、ヴェイグの表情は影になっていて窺えない。
「例えあんたや俺が思わなくとも、世の中に絶対ってもんがないことだけは確かだろうぜ」




