第十節 夢の中の男
「……」
一室で待つ俺たちを、沈黙が迎えている。ゲートの目前で身を震わせて消え失せた魔獣。意識がないままの三人を抱え、俺たちはそのまま直ぐに支部へと帰還した。……現われた職員に事情を話し、今は、治癒室に運び込まれた郭の容態の判断を待っているところ。
「……ッ」
艶のあるフローリングに忙しげなく響く靴の音。この場にいる誰の目から見ても分かるほど、明らかに苛ついているリゲル。……いつもの態度からは考えられないような落ち着きの無さ。
「リゲルさん、……その」
「……ああ。分かってる」
魔獣から落ろされた俺とフィアが目にしたのは、ジェインの治癒と応急措置を受けた郭の姿。……捲かれた布によってどうにか血は止まっていた。それでも青白くなったあの顔色を見ていれば、とても暢気でなどいられない。リゲルが冷静でいられない気持ちは、痛いほど感じられ。
「分かってんだよ。だけどよ……ッ!」
自分が庇われて。そのせいで、誰かが死に瀕しているのならば。
「あいつが……! クソッ――‼」
「……」
その雰囲気にジェインでさえ言葉を挟もうとはしない。……俺たちにはなにもできない。ただ、待つことしか。
「……立慧さんは大丈夫なのか?」
「あ、はい……」
話題を変えざるを得なかった俺の言葉に、さっきまで話を訊きに行っていたフィアが答えてくれる。
「治癒師の方が診ていて……消耗はあるみたいですけど、傷は軽傷ばかりだそうです」
「……そう、か……」
「……黄泉示さん?」
会話から離れて掛けられた声。知らぬ間に舟を漕いでいた自分に気付き、下り掛けていた瞼を上げる。……眠気が酷い。傷は癒えても失った体力が戻るわけではなく、帰ってきて緊張から解き放たれたせいか、全身が床に沈み込むような重さを感じている。
「……疲れたんだろう。無理もない」
ジェインの声にも気疲れが見える。郭にできる限りの応急措置をするため、移動中は終始声を張り上げっぱなしだった。
「今日はもう寝よう。僕たち全員、相当体力と魔力を消耗しているはずだ。……お前も」
リゲルへと向けた視線。
「今は休め。此処で倒れでもしたら、全員にとっていい迷惑だぞ」
「……うるせえよ」
重たい声でそう返し、それでも立ち上がったリゲル。
「しっかり休息を取って明日に備える。これからのことは、そこで話そう」
「……そう、だな」
そうこうしている内にも眠気が襲ってくる。……下手をするとこのまま眠り込んでしまうくらい、身体と頭が言うことを聞かなくなりつつある。
「じゃあ、また明日な」
「……ああ」
ジェインが消えていく。……リゲルも。意識が揺れ動く移動の中で、最後までフィアを隣に感じ――。
「お休みなさい。黄泉示さん」
「……ああ。お休み、フィア」
「――黄泉示さん」
その場所に立ち尽くしている最中。不意に掛けられた声に、振り向く。
「どうしたんですか? ぼーっとして」
「……いや」
目の前にいるのはフィア。不思議そうに俺の顔を覗き込む表情。翡翠色の瞳が目に眩しい。
「行きましょう。皆さん、待ってます」
なにかを言う暇もなく――取られた手を引かれるままに小走りで走っていく。……皆? 待っている? そこはかとなく覚える疑問。なにが――
「よう!」
緩い坂道を上がり切った、その耳に飛び込んでくる威勢良い声。
「おせえぞ黄泉示、フィア! 待ち侘びたじゃねえか!」
「来たな。二人とも」
リゲルとジェイン。白い四人掛けの丸テーブルに、日頃から見慣れた二人の友があり。
「――漸くですか」
その後ろに腰掛けている姿に、思わず目を奪われた。
「相も変わらず仲睦まじく逢引とは。頭の中まで花畑のようで、羨ましい限り――」
「……賢王」
「はい?」
よほど妙な表情をしていたのか。いつもの調子で話し始めていた賢王に、怪訝な顔つきで訊き返される。
「賢王……だよな?」
「何を珍妙な。寝ぼけてでもいるのですか?」
芝居がかった所作で大仰に溜め息を吐いて見せる。その傍らに立っている黒い人影を認めた直後、舞ってくる一片。
〝悪いものでも食べた?〟
「いや……」
冥王もいる。そのことに狼狽える。どうして――。
「――ちょっと!」
振り向いたのは、響いてきた声の方。
「待ちなさいよ田中! あんたはまたそうやって――っ!」
「ちょっとからかっただけじゃねえか! おっかねえなぁ立慧!」
「――」
田中さんと立慧さん。声を上げながら走り回っている二人の、横に。
「全く……騒々しいな。あの二人は」
「いつものことでしょう。流石に私も、もう慣れました」
「支部長としての自覚を持って欲しいところですがね」
苦笑する千景先輩。葵さんも、郭も、少し呆れたような目をして坐っている。……皆。
「……っ」
皆がいる。そのことになぜか、目元を暖かいものが溢れてきた。
「――っと、どうした蔭水?」
「黄泉示さん?」
見咎めた先輩が声を掛けてくる。……フィアも。
「なんか眼に入ったんじゃねえか?」
「……いや……」
〝どこか痛いの?〟
上手く声が出せない。落ちてきた冥王の紙片を、掌に握り締める。
「やれやれ……人騒がせなことです」
「ストップ! ストップだっての! ほら、てめえが騒ぐから蔭水が――」
「関係ないでしょ! ――でもまあ、取り敢えずここまでにしといてあげるわ」
「……悪い。皆」
涙が治まる。その頃には、皆がテーブルに集まってきていた。
「大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です」
葵さんに答える。……そうだ。
今日は皆で楽しい時間を過ごすのだ。俺が泣いていては湿っぽい空気になってしまう。そのことを思い出して涙を拭い。
「――なら始めましょうか」
「そうだな」
郭の声に応える千景先輩。
「時間も惜しいし、始めるか」
――
……全員で楽しい時間を過ごした帰り。
長い時間を過ごしていたせいか、時刻はもう、夕暮れだ。先輩たちやリゲルたちとも分かれ、長い影を作りながら俺はフィアと一緒に家へ戻っている。その中途。
「――黄泉示さん」
フィアの掌が背中に触れる。暖かく、どこかはにかんでいるような声。
「私――」
その先にきっと嬉しさが待っている。予感に押されるようにして、フィアの方を徐に振り返り――。
目鼻の先で映り込んだ趣味悪いマスクに、思わず硬直した。
「――ッッ⁉」
「……ん? ああ」
――なんだ⁉
「ごめんごめん」
仰け反りながら引き下がった俺に向けて……引き止めるには遅すぎる速さで、手が伸ばされる。
「こんなものを見せるつもりはなかったんだ。確かに僕だって見たくないよ。こんな悪趣味なマスクを付けた、恋人の顔なんてさ」
声も、体型も。……いつの間にか変わっている。ひょろりとした長い手足。目の前に立っているのは痩せぎすの――男。俺の知らない人物……?
「そう。此処は君の夢だよ、蔭水黄泉示」
考えを読まれたかのよう。乾き冷めているその声に、聞き覚えはやはりなく。
「うん、まあ、悪くはないね。もう死んだはずの人間もいて、皆で揃って和気藹々としてる。発想は単純で子ども染みてるけれど、純朴だ」
マスクの下から覗く緑の瞳が、俺を見る。機械のように生気のない、その眼。
「分かり辛い悪意を持たれると面倒だから、その点は君に感謝しておいた方がいいのかもしれない。まあ、増やされた面倒の分で余りあるからしないけど」
誰だ? まるで覚えのない、夢に出てくるはずもないこの男は。
「いや、僕が誰かなんてことはどうでもいいよ。というより、見たことのある人間しか夢に出て来ないと思うのは違うんじゃないのかい」
指摘をして、反応のない俺をジッと見つめた。
「まあいいや。納得ができないのなら、僕は君の守護霊だとも思っておけばいい」
……守護霊?
「そう。君が間違った方向に進まないように声を掛ける、そんなものさ」
胡散臭いことこの上ない。身構える俺の反応さえもどうでもいいというように、得体の知れない男は息を吐く。
「君、あの呪文をどこで覚えた?」
――呪文?
「使ってたじゃないか。あの中々に凝った指輪と一緒に、頑張って」
……あの呪文のことか?
思い当たる。……あれは、エリティスさんから。
「そう。その人はどこで?」
失伝した魔術の研究をしていて。それで……。
「……ふむん」
腕を組み、茫漠とした足場を向く。
「――なるほど。さっぱりだね。碌な手掛かりがない」
また息を吐く。それが無機質な失望だと気が付いたとき、用済みと告げるような瞳が俺を向いた。
「じゃあいいや。できればもう、こんなところには来たくないけど」
背を向け、払うかのように手を振る。その動作に合わせて、足元が浮き上がるかのような感覚を覚える。
「そうもいかないかもしれないね。本当に、面倒で――」
その声を最後まで聞かないうちに、俺の目にしていた景色が途切れた。




