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第八節 沸騰

 

「――っ」

「――なにか?」


 対峙する十冠を負う獣。その表情の強張りを感じ、郭は問い掛ける。機があれば擦り抜ける。そのつもりで――。


「……消えたね、アイリーンの気配が」

「……っ」


 言われて見せたのは同様の反応。……それは、つまり。


「――行こうか」


 掛けられた声。返した踵で以て、十冠を負う獣が通路のその先を指し示す。


「どんな形であれ、決着が付いたことは確かみたいだから」






「――」


 その変化に目を見張る。目にしているアイリーンの姿。髪色が、次第にその色を変えていき。


「おお――?」

「……これは」


 起きていた感覚に遅れて気付かされた。……傷が、痛みが消えていく。俺たちの負傷が癒えているのだ。これは……。


「……」


 胸に一抹の侘しさを覚えた俺の前で、先ほどまでアイリーンがいたところに、アイリーンではない少女が現われる。容姿は完全に元に戻っているが、目は覚めていない。――足りないのだと、なぜかそのことが不思議なほどすんなりと分かる気がした。


「――フィア」


 静かに呼び掛ける。……柔らかな手を握り、夢の中にまで届くように、深く。


「……」


 薄らと。信じていなければ気付けないような速さで瞼が上がっていく。見えた翡翠色の瞳に、次第に光が灯り――。


「……黄泉示……さん?」


 呟かれたのは未だ胡乱気な声。ゆっくりと動く眼差しが俺の上で完全に焦点を結ぶのを待ち切れずに。


「フィア――!」


 しっかりと。起こしかけていた、その身体を抱き締めた。


「あっ――」


 小さく上がる声、その響き。伝わる感触と香りの全てが完全にフィアのものであることを全身で確かめる。……本当に。


「……よかった」


 それ以外に言葉にならない。胸につかえる思いを全て、溢れ出す瀬戸際で堪え。


「本当に……」

「……はい」


 そっと回された腕。結ばれた細く柔らかな指が、俺の背をしっかりと繋ぎとめる。


「……」

「……アイリーンは、その」

「……はい」


 訊こうとして中途で途切れた言葉に、返されたのは小さな頷き。


「……悪い人じゃなかったんだと思います」


 語られるフィアの声は、俺が予想していたよりずっと情感の込められたもので。


「与えられた不運に、必死で抗おうとしている人でした」

「……カタストさん」


 ジェインの声に向き直り、二人して離れる。……俺たちを見つめている二人。ジェインは腰に手を当て。


「戻って来てくれて嬉しい。――おめでとう」

「……ありがとうございます」

「なんだよ。もうちょいくっ付いてても良かったんだぜ?」


 フィアとジェインが言葉を交わす中で、ニヨニヨしながら言ったのはリゲル。


「久々の再会だしよ。嬉しいだろ、そりゃ」

「……まあな」


 素直に認める。そこを取り繕っても仕方がない。嬉しいものは嬉しいのだ。言葉にフィアが少しはにかむような動作を見せ――。


「――だが、再会を喜び合うのは後だ」


 緊張を崩していないジェインの声と顔付きが現状を思い出させてくれる。――そうだ。


「まずは郭と合流しよう。この中に閉じ込められたメンバーの内、一人だけ姿が見えない」


 まだ終わってはいない。アイリーンを倒してフィアを助け出しはしたが、まだ。


「戻れば合流できるはずだ。『アポカリプスの眼』で残っているのは恐らく――」

「――その必要はないよ」


 意識を打ったのは聞き覚えのない女性の声。真横から聞こえてきたその声と複数の足音に、反射的に俺たちが振り向き。


「――無事でしたか」

「郭!」

「郭さん――」


 視界に映るのは見慣れた郭の姿ともう一人。声の主であろう見知らぬ艶やかな女性。二人して足早に近付いてきた、郭が無言のまま俺たちを見回し。


「……范支部長に、田中支部長」


 横たわる二人を確認。縛られたアデルに遣った目が、少し丸くなる。


「……カタストさん」

「……はい」

「また会えるとは思っていませんでした。……嬉しく思います」

「――なるほどね」


 郭の言葉に続いたのは近付いてきたもう一人の女性の声。


「見事に魔女から囚われのお姫様を救い出したわけだ。流石と言うべきなのかな」

「えっと……?」


 困惑するフィアに意味ありげに笑む。この状況下でここにいる人間と言えば、残る心当たりは一人しかない。


「――《十冠を負う獣》」

「や。また会ったね、ジェイン・レトビック」


 呟いたジェインに社交辞令的な笑みを向けて、真面目な表情に面持ちを変えて俺たち全員へ向き直った。


「『アポカリプスの眼』が崩壊した今、正式に君たちに協力させてもらうとするよ。アデルはそこで面白い格好になっているようだけど……」


 転がっている聖職衣にチラリと遣った目が俺の方を向く。


「蔭水冥希は? 生きてるんだよね?」

「ああ。多分まだ、戦った部屋にいる」

「気絶させてきたんですか?」

「いや。ただ大分消耗してるはずだし、……敵意はもうないはずだ」

「ならひとまず合流しましょう」


 話を聞いて郭が全員に告げた方針。


「必要ならアデルと同じように捕縛して、用意を整え次第結界の外に出ます。葵さんたちの状況を確認しなければ」


 ――そう。この中にいる全員が全てではない。最初にレジェンドを引き受けてくれた賢王たち、ヤマトと対峙した葵さんがまだ外にいるはずで。


「僕も彼にもう戦意はないと思うよ。神器の支配権も手放してるみたいだし」

「なら穏便に済みそうですね。有り難い」

「……この三人、誰が背負うんだ?」

「妥当に考えてお前と蔭水だろうな。辛いだろうが頑張れ」

「他人事だと思って言ってくれるぜ……」


 次に向けての段取りが進んでいく。その光景を見て、漸く湧いてくる安堵の実感。


「黄泉示さん」


 改めて声を掛けてきたフィア。


「その、怪我とかは……」

「……大丈夫だ」


 連戦のせいで疲労感はあるが、傷は細かなものから大きなものまで全て消え去っている。道中の父と、アイリーンの置き土産のお蔭だ。


「フィアの方こそ大丈夫なのか? 身体の調子とか……」

「はい。アイリーンさんが戦っていたせいか魔力は殆んど空みたいですけど、それ以外は」

「……そうか」

「――早目に移動しましょう」


 十冠を負う獣との話を終えたらしい郭が、俺を向く。


「道案内を頼みます。リゲル、担いでください」

「へいへい」

「あ、俺も……」


 流石にリゲル一人に三人を任せるのは無茶だ。少なくとも一人、あわよくば円環を使って二人まで担ぐつもりで立慧さんたちの上へ身を屈め――。


「――」


 中途でふと見上げた俺の視界。黒い鎧、古びた軍服。目端に映り込んだ違和感、その意味するところに気が付いたそのとき。


 ――瞳を刺し潰すような閃光が、知覚する世界の光景を塗り潰した。
















「……!」


 通路の遠方から感じていた濃密な魔力。それが霧消したのを感じ、冥希は項垂れていた顔を上げる。


 ――成し遂げたか。


 感慨深げな思いを抱きつつ、自らの状態を確認する。……変わらず疲労と痛みはある。だが暫くを回復に費やしたお蔭か、動くことはできそうだ。立ち上がり再度確かめる全身の感覚に齟齬はない。ついてはこのまま黄泉示たちと――


「――これはまた」

「ッ――⁉」


 唐突に耳に入ってくる声。気配を感じさせなかった主の正体を思い描きつつ、反射的に目を向ける冥希。


「負けてしまうとは。意外でした」


 悠々と此方に歩み寄って来る艶姿(あですがた)。瑞々しく(つや)やかな肢体からはえもいわれぬ馨香が漂ってくるような魅力が立ち昇っている。薄布を纏い、随所に露出の多く、見る者の目を惹き付ける踊り娘の如き出で立ちは紛れもなく。


「……死神」


 ヴェイグが喚びよせたレジェンドの一人。冥希たちより先に黄泉示たちと邂逅し、現在は凶王と苛烈な殺し合いを繰り広げていたはずの人物。


「膝を突く姿は似合いませんね、蔭水冥希」

「……冥王を殺してきたのか?」

「はい。それなりに苦労しましたけどね。死線を分けたのは腕の差と言うより、私と彼女との相性でしょうか」

「……意外だな」


 ――不味い。疑いようのないのはその判断。先刻とは一変した状況への用意を進めつつ、会話にてどうにか間隙を繋ぐ。


「死神……音に聞こえし伝説ならば、冥王など殺すのは容易いと思っていたが」

「意趣返しのつもりですか? まあ、殺したのは私ですから。さっきのは、死者に対するリップサービスのようなものです」


 その黒い瞳から伸ばされる視線が、冥希の表情を舐めるように捉える。


「死人には優しいんですよ、私。死に逝く者にも――ね」


 ――読まれている。


 機を窺っていることを。どうにか打破しようとしている思考を。意図と狙いを、誤謬なく。


「クールに見えて、案外情にほだされ易いタイプなんですか? ふふ」


 見た目からは想像もつかない、少女の如く可憐な笑声。鈴を転がすような軽やかな響きと共に、死神が、近付いてくる。


「可愛いところもあるじゃないですか。好みですよ。前より今の方が、ずうっと」


 届くのは耳元で囁かれているような蠱惑的な声の音。思わず惹き込まれる様な感覚に、呑まれぬよう、意識を強く引き締めた。


「……私は既婚者だ。生憎だがな」

「関係ないのでは? 女も男も、より魅力的な相手に靡くものです」


 既に会話は役に立たない。近付いてくる死神を前に、残されている猶予は僅かしかない。一つ、小さく息を吸い。


「――ならば私がお前に靡くことは、生涯無いということだ」


 構えを取った冥希に対し、死神の歩みが止まった。


「――へえ」


 対峙する冥希。その全身から立ち昇り始めている、黒いオーラ。――《赤き竜》。人を蹂躙する地獄としての魔術武術。滅世の徒としてヴェイグより与えられた力が、今の冥希には備わっているのだ。


 ――死神は明らかに消耗している。


 邂逅から今の会話の間までに把握できたこと。血止めを終えて目立たぬようにしているらしいが、その張りのある肌に刻まれた刺傷、創傷を鍛え上げられた冥希の目は見逃してはいない。……見たところでは重傷はなく、それでも数え上げていけばかなりの数。


 首元から足首にまで広がるそれらは当代の殺し屋、暗殺者らの頂点を担う冥王との戦いが、レジェンドである死神にとっても一筋縄ではいかないものだったことを示している。好機として考えを改めたのは直前。各々が微細とはいえこれだけの手傷を負わされているレジェンドに、次となればいつ見えるか分からない。これからのちの事をも考えるならば、ここで仕留めておく以上の選択肢などあり得ないとそう言ってよかった。


 刀は二振りとも折られている。迎え撃つ冥希自身も手負いであり、全力で動けるのはどう高く見積もっても次が最後。……それでも自分には。


「なるほど」


 為さねばならないことがある。様子を観察していたのは相手も同じ。浮かべた微笑を笑みに変えて。


「得意の剣を折られても、負傷の残るその身体でも、今ここで敢えて私の前に立ちますか」


 口にされたのは舐めずるような湿り気のある声音。肉体に絡み付き、巻き付いてくるような秋波を送る。


「ワクワクしますね。柄にもなく。貴方のような男の相手は」


 用意を整えた死神に呼応して、冥希が反射的に意気を強めた。


「……」


 緊張。漲る集中に汗が落ちる。赤き竜の力を借りて放つのは大型の肉食獣の如き獰猛な殺気と威圧感。真っ向からそれを身に受けているにも拘わらず、視界に映る死神の表情には変化一つない。一切の力みを払ったような、自然体のまま。


「本当はもう少し、じっくり遊んであげたいんですが」


 ――一足。死神が更に近付く。……気負いのない足運び。焼け付く線のように縮まっていき、一触即発の寸前まで間合いが及んだ。


 ――敵はレジェンド。


 殺し屋として名を馳せていること以外は、全てが未知数と言える相手。頼みとするのはこれまで幾度か拠点にて邂逅した経験と、今こうして現に向かい合っているその感覚。自身の分析能力を以てすれば――。


 相手に魔術呪術のような手法がないことは看破できる。……この気配と動きはそう言った手合いのものではない。肉体技法同士の競いなら今のこの自分にも少なくない分があり、勝負になる。《赤き竜》の技法の強力さは他ならぬ冥希自身が知っている通りであり。


「今は余り猶予がないもので。少し、手荒になるかもしれませんね」


 危惧すべきはやはり暗殺者ならではの隙造り。それを予測して目の前に捉える姿のみならず、自らを取り巻く周囲全てに向けて冥希は警戒を拡張する。……予測できる動きのパターンをリスクの高いと思われるものから考慮。それぞれに対応策を用意し、構えを用意していく。――蔭水の剣理は一技必殺。


 剣を取れずともその理念は冥希の身体に染み付いている。元より一技を全力で繰り出せるかどうかの身なのだ。なによりも重要なのは用いる技の選択。狙うは後の先と見せかけた対の先。動きの兆候を見せた刹那に全てを懸ける。意識と思考を幾重にも張り巡らせ、闘志を磨き抜いて時を待ち――。


「――では、これで」


 その背後から、女の声が聞こえてきた。


「――」


 ……何が起きたのか蔭水冥希には分からなかった。何も感じ取れなかったし、何も見てはいなかった。勝負はまだ序盤であり、睨み合いの段階であるはずだった。


 分かるのは、ただ――。


「……」


 自らの首が真後ろに捻じ圧し折られているという、その事実。


「――さて」


 もがこうとした腕は届かず。最期に瞳が捉えたのは、悠然と微笑む上下逆の死神の横顔。


「ガイゲたちの方へ向かいますか。余計なことをしていないと良いのですが……」


 狭い視界から消えていく姿。素足の音。歩き去っていく死神の動きを思考の中で追認しつつ。


 蔭水冥希の身体は崩れ、横向きに斃れた。



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