第十九節 執念
「――うつる病とは厄介なものだ」
下がり足を止め、悠々の体でアデルは動きの止まった支部長を見遣る。……口元を紅よりも赤紅く染める色。床に染み込んだのは戦いの最中で負わされた損傷からではなく、今し方吐き出されたばかりの真新しい血液だ。
持ち得る全ての技法を使っての一点突破。支部長の立ててきた狙いは愚直と雖も悪くなく、それ故に分かり易かった。
「――ッ!」
次なるよろめきの虚を突いて、接近。咳き込みに揺れた顎を吹き飛ばすつもりで蹴り上げた右前蹴り、強烈なその蹴撃に対し辛うじて両腕でのガードが間に合うが。
「ッッ――‼」
受けた肉の奥。微かな骨の軋みをアデルの聴覚は逃さずに捉える。勢いと体重差とで狙い通り浮き上がらせた支部長の体躯、その無防備な鳩尾目掛けて突きを繰り出す。急所を守るため即座に下ろされた両腕の、先に軋みを上げた部位を正確に。鋼の如き左拳が仮借なく打った。
――《蒼白の死》。アデルがヴェイグより与えられた称号の力は、肉体に接触した者に対して致死性未知の流行病を感染させる。うつる病の地獄。古より人々を苦しめ殺し続けてきたその再現。
「耐久性も増しているな。中々に硬い」
試しを経て砕くつもりで繰り出した連撃。にも拘らず皹しか入れられず、思わず吹き飛ばしてしまったことに軽く驚嘆する。――それをアデルは無詠唱で発動することを可能にしていた。『アポカリプスの眼』の中でもアデルと十冠を負う獣のみが持つに至った技術。あの蔭水冥希でさえ、力の発動については完全詠唱を余儀なくされている。先に抵抗者たちと交戦したセイレス、バロン、三千風零の三名もまた同様であり、その点では秘匿性の高いアドバンテージと言って差し支えない。
この支部長との相対からアデルが抱いていた余裕は何も、自身が地力で勝っているというだけの理由から来るものではなかった。
残り一度は確実に裏をかけるという事実の予測。徐々に強まる気迫と勢いから、支部長がそろそろ何かを仕掛けて来ようとしていることは相対者であるアデルには楽に把握することができた。あとはただ、遅きに失する前に残しておいた手札を切るだけで良かったのだ。
「――っ」
受け身を取りながら地を転がる、その立ち上がり際を狙って畳み掛ける。放つ業火で熱ではまだ炙れないことを確認。跳ね起きる所作を逃さず二撃を叩き込んだところで例の移動法により距離を取られる。――詰める分には問題ない。
長距離の移動がないことと直線的な移動しかできないことは確認している。放つ殺気で圧力をかけつつ、追い付けずとも気を抜かせない距離を保ち――。
「――ふ」
何か飲んだ。僅かに盛り上がる喉の動きを確認したあとの喀血にアデルは内心でほくそ笑む。――《蒼白の死》により引き起こされる病の致死率は百パーセントであり、治癒不可能。例え何かしらの手を打とうとも無駄な事だ。
それでも本来よりはかなりマシな症状に見えている……。これまでに幾度か力の効用を試してきたアデルとしては、目の前の支部長が立って動けているというだけでも少なからず驚きを覚える心持だった。恐らくは幸運のブーストが効いているのだろう。
病の進行には個体差という名の運が絡むものであり、限界まで引き上げられた幸運がどうにか動けるだけの体調を保たたせているのだと推測する。とはいえそれも引き伸ばしに過ぎぬことに変わりはない。症状の進行度合いが如何に緩やかになったとしても、致死率は同じ。最後には必ず死ぬのだ。
「――」
壁に詰まった。移動法の操作ミス。先ほどまでならあり得なかっただろう失態を犯す辺り、発熱から来る意識の朦朧化が起きている。僅かにふらつく足下は眩暈のせいかと、それ以上考えることもなく距離の詰め切りを兼ねて放つ体当て。
――硬いな。
背中をぶつけながらもギリギリで押し潰しから逃れた動きに目を眇める。強化法か、それとも運か、両方か。通常の通打では中々にその命に手が届き切らない。しかも――。
「――っ‼」
立たされているのは煮え滾る淵の待つ剣ヶ峰。僅かでも踏み外せば死に落ちる。悴む手足には突風が吹き付け、まともに立つことすらままならないはずだ。
だと言うのに支部長の眼は死んでいない。その眼にはまだ、この支部長特有の勝利を狙う鋭さが残っている。
――何が拠り所だ?
元よりあれだけで押し切れる腹積もりではあるまい。先に打つつもりだった手か? だが、今のこの状況下では。
「ッ! ッッ‼」
アデルの拳撃が支部長の体を打つ。筋を抉り、肉を潰し、骨と内臓を軋ませる。耐え続ける支部長の身体が、徐々に崩れ――。
「――」
懐を弄る所作。服の中で何かを掴む動きを、アデルの目は過たず捉えた。
「――これか」
呟きを置き去りに距離を無くして取った左腕を捻じり上げる。上げられる悲鳴の成り損ないの如き声。痛みに応えた凄まじい膂力で外されるが、その弾みで血に塗れた指先から、硬い音と共にそれが落ちる。
「――」
機は与えずに。見越していた動作で摘まみ上げたのは透き通る一個の玉。用途は分からずとも、そこに強力な魔力が秘められていることがアデルには分かった。
「――残念だったな」
保有は不要。遥か後方へと投げ捨てる。残る憂いも消した。出し殻となった支部長に対し最早遊びの余地はなく、真剣な歩法を以てアデルは死角から距離を詰める。――その武術の腕前は正に達人。
気血を操ることにより手足は時に鋼の如く強靭に、時に柳の如くしなやかとなる。動力源となる足腰から力みなく力を伝えての堅硬な剛の通打。岩を砕き鋼を曲げるその威力は、人の身でありながら既に凶器。
だが実を言うならば――その剛撃こそがアデル・イヴァン・クロムウェルという技能者の本領であることはない。
「――」
整える用意は掌底。掌を通じて勁力を伝え切ることによる内部破壊。単純な外的破壊ではなく、外傷なく内部にダメージを浸透蓄積させる殺し技。練り上げた技術が生んだ奥義の一つ。
渾身の通打であれば強引に殺すことも可能だろう。支部長の強化は強力ではあるものの、破れないほどではないとアデルは見て取っていた。それでも万が一というリスクはある。アデルが選んだのは目の前の支部長を殺す確実な選択肢。固い掌がその胸元に触れ――。
「――ッ」
親友を殺した技の脅威を理解しているのか、形振り構わぬ動きで支部長が掌底から身体を外す。過たずその機に叩き込んだ蹴り。腹部に直撃した衝撃を受け、胃液と血の入り混じった液を撒き散らしながら転がった支部長。
「ゲエッ! カハッ――」
「……」
どう見ても死に体だ。処理をする際の詰まらなさ。面白みに欠ける決まりきった手順をなぞることへの退屈を覚えつつ、一つの区切りをつける為にアデルはその肉体との距離を縮める。……《蒼白の死》の代償。耳元に響く怨嗟の声が徐々に大きく近くなってきている。このまま病死を待つ手もあるとはいえ、余り長く続ければ消耗が大きい。
早目に終わらせるに越したことはなく、立てないその身体の頭蓋を踏み割るつもりで意気を巡らせ。
「――」
有り得るはずのないその事態に、心底から驚愕した。
――なに?
思わず問うたのは確かめるまでもない事実。……《蒼白の死》が。
解けている。これまで慣らしてきたあの特有の感覚が。耳元で囁き響いていた声ごと、消え去っている。
力の制御を誤ったのか? この自分が? 発動中に聞こえる恨みの声が、先の瞬間いつもより一際強く聞こえた気はした。
しかしそれだけで――。
「――ッ!」
我を取り戻したとき。最後の力を振り絞るかのような速さでアデルの眼前に迫っていたのは、最早問題ともしていなかったあの支部長。その射殺すような眼の光に、これこそを狙っていたのだと悟らされる。……なるほど。
既に間合いは圏内。疑問を押しやってアデルの直感が機械的に判定を下す。防御と回避は不可。一撃を許すという予測の通りに、構えから支部長が拳を放った。
「――」
攻撃を許したところで支部長は既に創痍の身。重傷のその身体で繰り出す一撃に威力がないなどとは、アデル・イヴァン・クロムウェルは考えない。例えどれだけ疲弊し傷付き切っていようとも、身に刻み付けた技術から放たれる攻撃は相応の威力を持っていて然るべき。
魂まで染み透るような訓練は時に意識のない状態でさえ完璧なまでに精緻な技を披露させることがある。重傷程度でその恐れは消えはしない。此方に失態がある以上、骨の一本や二本は当然持っていかれることだろう。無論、支部長のその命と引き換えにだが。
交錯で狙うは鳩尾。相応しい対処はやはり鍛え上げてきた身体が知っている。激突する瞬間に合わせ、その威力と相殺するように勁力をぶつけようとし。
「――」
直後に伝わったあまりにも軽い感触にアデルは眉を顰める。……置かれたような拳の感触。備えて硬化した鉄扉の如き肌に伝わったのはただ触れただけのような無威力さ。自らの掌底のような予備動作ですらない。何かの間違いかとさえ思うような感覚に一瞬、備えていた指先が鈍り。
「――」
目を見開くことさえできないまま。アデル・イヴァン・クロムウェルの、鼓動が止まった。
――来た。
「――ッ‼」
信じて全てを賭けていた瞬間。発条の如くに立ち上がり駆け出し、嘘のように軽くなる身体を前へと動かしながら、立慧は思考の内で起きた出来事を追認する。――対象の気運を下げる術法、【衰気】。
自身の運気を上げる【旺気】と違い、他を対象とするためレジストその他の障害に遭い易く、同格以上の相手に対しては僅かにしか下げられない欠点を抱えている。素人が相手ならいざ知らず、訓練を積んだ相手との実戦に於いては不向き――。
これまで長らくの間そう捉えていた技法。アデルとの戦いを決めた当初になっても、立慧が特別注目することはなかった。目が向いたのは戦術の組み立てを幾度となく考え、どう考えても自分の持つ手札でアデルを追い詰めるには足りないと分かってから。
見つめ直してみても、やはりこれまでのように考える限りでは効果的な運用は難しい。だがそれは、【旺気】と同じような用い方を何気なく前提してしまっているからではないのか?
そのことに気が付くには更に時間を要した。持続的に対象の気運を引き下げるのではなく、効果帯を絞り、限られた時間内に気運の引き下げを集約する。変化に応じられるような即効性を求めるのではなく、一定の時間を掛けて初めて機能する、いわば時限式の爆弾として。それならば。
――運用できる。確かめられたのは結局はこの土壇場になってから。相対して真っ先に用意しておいたギミックが、思いもかけぬ大役を果たしたのだ。精々僅かの隙を作れれば良いと考えていたが、先ほどまでのあの異常な体調の変化が消え去ったのは間違いなくアデルが何かしらの制御を誤ったため。そして――。
「――」
同時に生まれた隙へ、縮地法を用いて既に立慧は接近している。――入る。この間合い、このタイミングなら確実に。漸くこの男に直撃する拳撃を放てる。
「――」
間に合わない。恐らくはそう見て取ったアデルもまた、返しの用意を整えている。足を肩幅に開き、脇を締め、明らかに待ち構えるその対応。狙いは相討ち。立慧の拳撃が届いた一瞬あとに此方の身体を打ち抜く構えだ。アデルの肉体は鋼の如く鍛え上げられた正に鉄壁の要塞であり、虎の子である『金錬丹』の強化を受けてなお自身の拳撃はその前に致命打とはなり得ない。肉体技法に関する彼我の実力差。覆しようのない差を完全に見通されている。
――だからこそ。
「――乾坤一擲」
拳の威力ではなく、術を使うのだ。
「【横拳絶命】‼」
放つ拳撃。それは自身を通して相手の体内に負の気を伝える術法と、肉体技法である【横拳】との併せ技。
拳撃が対象に伝えるはずだった威力を全て術の効力へと転化し、対象の気運を極度の負に振り切らせることで発作的な心停止へと追い込む術。【衰気】が効いている今このタイミングでしか使えない即死の一撃。肉体の強度など関係ない。この一撃で確実に息の根を止める――‼
「――」
拳が力なく肌を打った瞬間、伝うアデルの脈拍がただ一度だけ大きく波打つ。見開かれた眼。返しの拳撃は、立慧の身体まで伸び切ることなく。
アデルを支える心臓の脈動が、完全に停止した。
「っ……」
――決まった。
焼け付くような全身の痛みを覚えつつその死亡を確認する。……完全に死んでいる。これで――。
「――ッ‼」
刹那。目の前を覆う白に立慧は反射的に目を細める。轟々と燃え盛る白炎。立ち昇る火柱から身を引き切る暇もなく、飛び出してきた万力のような指に腕を掴まれた。
「――恐ろしいな」
手に立慧を捕えたまま。炎を背に現われたのは、脈動を取り戻したアデル・イヴァン・クロムウェル。本山でも見せた自身を焼き尽くしての復活劇。それが今此処に来て再演されたのだ。
「執念。それだけで此処まで這い上がって来るものか」
もがく立慧の抵抗に対し、逃さぬとばかりに指が肌と肉に喰い込む。必死で力を込める腕にそれでもなお指は沈んでいき、皹の入る骨を潰される激痛が歯を食い縛ってなお、立慧の表情を歪ませた。
「お前を見くびっていたらしい、范立慧」
苦悶の中で仰ぎ見たアデルの面。瞳に湛えられたのは、偽らざる感心の情。
「――ではな」
「……馬鹿じゃないの?」
その指が心の臓を貫く寸前。僅かな声の震えを自覚しつつ、立慧は視線で触れる距離に立つ相手を射抜く。
「――見くびってんのは、今もでしょうがッッ‼」
最大凶の効果はまだ残っている。掴まれた右腕を一気に引いて重心を崩す挙動は、かつて見せられた田中の動きから取り入れたもの。
【横拳絶命】は、本来伝えられるはずだった拳撃の威力を術の効力に転化させる技。
――ならば当然、その逆も。
「【生気炮拳】ッッ‼‼」
叫ぶ気迫に合わせて左の足、腰、肩を一息に入れる。連動する全身の力を受けて撃ち出される砲弾の如き左拳。最大吉の効力全てを威力にプラスした痛恨の一撃が、守りの反射を抜けてアデルの身に直撃した。
「グ――ッッ!」
「ハアアァッッ‼‼」
鎧の如き筋肉の抵抗を感じ、導引の気息と共に抉り込む。――既に虎の子の炎化は使わせた。全てを注ぎ込んだこの攻撃から逃れることはできない。確信を以て吐き切る息。千切れるような腕の痛みにも構わず、最後まで乗せ切った一押しが。
「フッ……ッッ‼」
堅固な城壁の如き肉体の抵抗を破り、撃ち抜いて。主の意に反して身体から息が吐き出される。押さえる力の抜けた右腕。拳に伝わる会心の手応えはつまり、拳撃の衝撃全てを余すとこなく伝えきったということに他ならず。
「――」
断末魔の声すら上げられないまま悶絶し、真後ろへ。両腕を大きく広げた男の、目の前の身体が崩れ落ちた。
「――はっ! ……はっ――」
術の効力が切れた。そのことを意識しながら、荒々しい呼吸が喉を焼いていく感触を立慧は味わう。身体を巡る血流の勢いが限度を超えたのか、鼻から流れ出すのは一筋の血液。ドロリとしたソレを拭う余力もなく、裂けた唇で受け止め。
「は――はっっ」
上下する肩で息を吐きつつ、見遣るのは大の字に倒れた男の容態。……気絶している。そのことを入念に確かめて、懐から縄を取り出した。葵から預かってきた特別頑丈な縛縄。
「……うっ」
そこかしこに走る痛み。種々の苦痛に耐えながら、強化の残されている内に目の前の身体を縛り上げていく。小指一つを動かす隙間もないよう、何重にも、何重にも、念入りに縛り上げ。
「……こいつ、重ッ……‼」
裏返そうとして歯を食い縛る。感情のまま足を使って乱雑に転がし、硬く絞り上げた結び目。それと同じものを何個も作り、漸く拘束を完了させた。
「……っ、っ……」
――やった。
簀巻きにしたアデルの姿。それを眺めている内にどこか信じられないような思いが湧きあがってくる。……倒したのだ。あのアデルを。自分一人で、なんとか――。
「……どうした」
安堵と歓喜の最中。届く言葉に、覚えるのは一瞬の戦慄。
「殺さないのか? 親友の仇である、私を」
「……」
この期に及んでの軽口に薄らと開いている右眼を睨む。……見上げる眼光に覇気はなく、声色は満身創痍。間違いなく死に体だ。
「……殺す価値もないわよ。あんたなんて」
言い切った返し。告げられた台詞に、アデルは暫し無言のまま立慧を見遣り。
「……そう……か」
口の端で微かに笑みを零して眼を閉じ。それきり、喋らなくなった。
「……っ」
念のため。数秒間そのまま様子を確認する。今度こそ間違いなく気絶したことを確かめると、身体の真横から伸ばしていた縄、その端を掌に巻いて握り締め、背に掛けて一息に引っ張る。
「……ッつう……!」
重い。全身が筋肉でできているせいか、アデルの身体は見た目から量る以上に重量がある。先ほどより強烈に全身で弾ける痛みに思わず舌を打った立慧。……あれだけ強化したはずの拳が、潰れている。執拗な打撃を受けた腕には鬱血した鮮やかな痣、骨には皹。万力の如き指腹に掴まれていた服は千切れ、その下から変色した肌が覗いている。
「く……はっ……」
強化の効力は既に切れた。最後まで気運の向上に使い続けた魔力は枯渇し、金錬丹の重い副作用が出始めている。身体中の筋と筋肉とが強張り縮む。皮の剥げていた足裏は歩くだけで焼けるような痛みを訴え、同時に始まる意識の低下。呼吸の苦しさとも相俟って、まるで今なお炎にまかれているような錯覚すら覚えてくる……。
「――っ。……ッ」
僅か数歩でも止まる足取りに息を荒げ。それでも進む。立慧は奥へと。
「……待ってなさいよ」
唇から零れるのは悪態。思い浮かぶその姿に、感じている苦痛全てをぶつける心持で。
「今、私が……」
苦難の囚人のように、自ら背負う重荷を引き摺り、血の道筋を作りながら。
一歩一歩。立慧は、先へと歩いて行った。




