第十六.五節 レジェンド
「ッ――」
消える浮遊感。靴越しに足裏の感触を確かめ、ガイゲは地に足が着いていることを把握する。ざらつくような砂礫を踏んでいない。それだけでも先とは違う場所であることが窺える――。
――転移法か?
ヴェイグの計らいにより、此方に来てからの移動の殆んどはそれで行っている。……感覚としては僅かに違うような気もするが、概ね同質だ。予備動作を一切感じなかったということは、前以て仕込まれていた証左。それも、自分にも通用するほどに念入りに。
――暗い。空と風のない室内。戻ってきた五感からある程度の広さのある閉鎖的な空間であることを理解する。一寸先も見えぬ中、所々に置かれた蝋燭の浮かぶが如き朧気な明かりだけが、ガイゲの視覚像を弱々しく支えていた。
「――ようこそ、私の屋敷へ」
声より先。感じた気配で既にガイゲはその方角へと振り返っている。
「歓迎しますよ。《誅滅の黒騎士》殿」
「――また随分と陰気な屋敷だぜ」
視界に収めた其処にはなにもいない。聴覚を完全に欺く音響操作。ただ見通せない闇が広がっているのを目にし、ガイゲは小馬鹿にするように軽く笑った。
「王を名乗る臆病者には似合いの棲家ってわけか。ま、直ぐに引き摺り出してやるがな」
「これはまた。品性無き犬の言葉とは思えませんね」
反響させた声で自らの位置と空間の構造とを把握する。そこかしこを埋め尽くすような無数のナニカ。歪な形状。以前の戦いを踏まえれば、なにが待ち受けているのかは明らかだ。
「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや。雇われ者に王の矜持など理解できるはずもありません。言葉を尽くすだけ無益というものですよ」
「生憎だが、俺はてめえよりよっぽど優れた王を知ってる」
大凡の把握を終え――貫くような眼差しで臨戦態勢を整えた。
「ごちゃごちゃ言ってねえで掛かって来いよ。それともこっちから行くか? 恐ろしいこの俺の為にどんな仕掛けを用意したのか、試して――」
空気の乱れに剣を振るう。捉えたのは固い感触。予想を上回る硬質に僅かに力を込め、必要最小限の力で以て破壊した。
「――っと」
端から小手に絡み付いてくる糸。鎧の継ぎ目を縫うように狙うそれらの位置をずらして受け、一息で引き千切る。然程の抵抗は感じない。膂力が強度を完全に上回っているが故。背後から新たに襲い掛かって来た二体の人形を見るまでもなく蹴散らしながら――。
「――随分と貧相な持て成しじゃねえか」
ガイゲは言う。更に前方から二体。風切り音を上げて掌から飛び出て来たナイフをいとも容易く掴み取ると、振り回して残る一体共々打ち壊す。
「こんなチンケな仕掛けじゃ腹の足しにもなりゃしねえ。てめえの語る王とやらも高が知れるな」
「まあ、そう焦らないことです」
そこかしこで一斉に軋みを上げ始める駆動音。夥しい数の無機物が擦れ合い、押し合い、聞く者を不気味にさせるような不協和のざわめきを奏でている。
「人形はまだまだたっぷりとありますので。飽きるまで堪能していって下さいね。――死ぬほどに」
偽りない殺意の込められた言葉。底冷えのする声色と共に、蠢く人形たちが雪崩の如く押し寄せてきた。
――詰まらねえ手を打ちやがって。
無縁。焦りとは程遠い苛立ちにガイゲは意識せず舌を打つ。陣地に連れ込めばそれなりにやりそうな輩だと思っていたが、まさか数に物を言わせた物量戦を仕掛けてくるとは。
完全に予想の外。期待外れにも程がある。勢いに任せて振るった漆黒の処刑剣が雪崩れ込むヒト型の質量を押し返し、打ち崩していく感触を掌に覚えながら。――《誅滅の黒騎士》。
ガイゲはかつて百万の異教徒を殺戮した『伝説』である。逸話を軽くでも調べたのなら対多人数戦を得意としていることくらいは簡単に知れるはずであり、当然それを前提とした用意をしてきていると思っていた。……悪手も悪手。
「――【聖典詠唱】」
わざわざ闘いの場を用意しておきながら、相手の十八番に戦力と労力を注ぎ込むとは。休みなく全方位から向かって来る人形たち、何ら脅威にならないそれらを気ままに剣と拳と足とで叩き潰しながら詠唱に掛かる。楽しめそうならば暫く付き合ってやるつもりだったが、最早その気分ではない。紡ぎ出すのは聖典詠唱の中でも最上位に位置する秘跡。どれだけ仕込みに手間を掛けようが数を増やそうが、これで終わりだ。
「【創世記・ソドムの火】!」
押し寄せる木偶どもの抵抗虚しく詠唱が完成する。周囲全てを一瞬にして白に染め上げる怒りの炎。暗闇も隠された仕掛けもなにもかもを焼き尽くし、塩のカタマリへと変える。発動するその威力は最早何人にも阻止することなど能わず――。
「――っ」
「――おや」
訪れた無変化に、迫り来た矮躯を砕き散らしつつ瞠目した。――耳を打つわざとらしい声。
「意気込んでなにか吠えていたような気もしましたが。口だけでしたか。安心しました」
「……てめえ」
発動しない。教会の秘跡たる聖典詠唱が、完全に封じられている。聞こえる方角を睨み付けようとしたところで死角から放たれてきた鉤爪。これまでとは趣を異とする冴えた一撃に、反射的に受けた剣身が揺れる。
「気に入らないから盤を引っ繰り返すなど、余りに大人げないというもの」
――鋭い。眉を顰めて下がったところに繰り出される再度の糸。同じように引き千切ろうとして直ぐに気付く。感触が強い。同じだけの力では千切れないことを察して致し方なく更に力を込めた。
「走狗が王の余興に付き合うのは世の摂理。身を以て思い知ってもらいましょうか。躾けのなっていない、貴方には」
「――ッ!」
群がる人形の手足を弾き飛ばして滝の如き糸の奔流から逃れた矢先、その現象を見咎める。……砕け散らしたはずの傀儡の破片が、再生している。見えない誰かの手を受けているように独りでに組み上がり、元のヒトガタへと――。
「――仕掛けはたっぷりと用意してありますので」
図ったようなタイミングでの声掛けが、意識を叩いた。
「最期まで楽しんで逝って下さいね、誅滅の黒騎士殿」
「……やるじゃねえか」
じりじりと押し寄せる底なしの傀儡と見えぬ敵。一気に沼と化したような暗がりを見据え、覇気を漲らせてガイゲは笑った。
「久々に楽しめそうだぜ。精々持たせてくれよ」
「――」
闇。僅かの光さえない黒の中で死神は眼を開ける。……転移法。
術法には疎い死神だったが、ここが先ほどまでとは違う場所であるということは当然の如く理解できていた。空に漂う香りからしてまず違う。眼を開けてもなんら変わりのない闇の最中で、十二分に環境の把握ができていることを確かめつつ。
「……」
――いないがいる。その程度は死神にも予想が付けられている。ここまで整えておいていないということは有り得ない。これは勝負。どちらの格が上かを決める戦いなのだから。
――そしてその時点で既に、相手の優位は瓦解したも同然だった。
同業者である死神ですら何も感じ取ることのできない遮断技術。気配、魔力、殺気全ての完全な押し殺しは見事と言う他にない。魅せることで殺す自らとは凡そ対照的な殺し方だが、その最上はやはり気付かせずに殺すことだと死神は考えていた。死んで初めて気付くことになる殺し。これだけ執拗な遮断技法の磨き上げは、恐らくはそれに特化しているが所以のもの。警戒に入らせてしまった時点で敵の最善手は潰されており、それは決して小さくない有利になる。
「……うふふ」
――不思議なものだ。
死神は思う。殺し屋としての矜持などどうでもいいと考えていても、重ねてきた行いはそれなりに自分の中で大きな結び目を築いているらしい。今この場に至っては、前回の不完全な幕切れからこの時に至るまで、ずっと相対を待ち望んでいたような気さえしてくる。
「楽しいですね。こういうのは」
矜持を抜きにしたとしても、同格の同業者と腕比べができるなど滅多にある機会でないことは確か。これまでの殺しが単純な一人遊びだったとすれば、今のこれは二人の遊戯。今までにない、新しい楽しみ方だ。
――さあて。
手の内を見切られればそれで終わり。どちらがより先に殺し、或いは殺されることになるか。
命一つを賭札にした遊戯。この世で最も面白い遊びを、心行くまで死神は愉しむ――。
「……」
――《戦神》、ヤマトタケル。
凍風吹き荒ぶ対峙の中で葵はその情報を纏めに掛かる。直接の邂逅は初。しかし一度矛を交えた賢王、冥王の両者から大凡の特徴は聞き終えている。出自に違わず対多人数の殲滅戦に長けた相手。一対一の単体戦に持ち込んだそれだけでも、まずは長所の一つを潰せたと言えなくもない。……全てを悲観的に捉えるのではだめだ。
軽率に希望を織り交ぜた観測は自らの首を絞めるだけだが、置かれた状況が既に最悪に近い以上、少しでも穿てる可能性を考慮して行かなければ始まらない。例えどれだけ僅かなプラスだとしても、積み上げていかなければならないのだ。
「……なぜ見逃したのですか?」
手始めとして投げるのはその問い掛け。郭たちが走り抜けている間、ヤマトは何の妨害をするでもなく、その深沈したような瞳を僅かに動かしただけだった。葵が事前に聞いていた情報の通りであるならば、多数を相手にしてこそヤマトの本領は発揮される。そして彼女にとってあの人数程度の足止めは、至極容易い芸当と言っていいはずだったのに。
「……ン」
受け取られるかとの懸念を余所に、問われたヤマトは睫毛を揺らして視線を伏せる。そのまま少し、考えるようにして。
「マア、イッカッテオモッタカラ」
葵にとって全くの考えの外にある言葉を、口にした。
――まあ、いっか?
「ナニモイワレテナイシ。オウサマモトラレチャッタシ、キョウハアンマリ、ヤルキナイ」
信じられないような台詞が紡がれていく。演技や嘘偽りを考えないのなら。それは正にあどけない、子どものような答え。
「貴方たちは、ヴェイグの意志に基づいて行動しているのではないのですか?」
そのあどけなさに乗るようにして尋ねる。レジェンドとアポカリプスの眼の首魁であるヴェイグ・カーン。彼女たちが彼に喚ばれて現世に蘇っている立場である以上、その目的から外れるような真似ができるとも思えない。そして、ヴェイグが目指しているものは。
「ソウダヨ? ヴェイグ、スキニシテイイッテイッテルカラ」
「――」
――好きにしていい?
どういうことだ? それは。
ヴェイグ・カーンの目的は滅世であり、それに抵抗する自分たちの殲滅で――。
「――ヤルンデショ?」
掛けられた声に思考を中断する。
「ダカラノコッタンダモンネ。ナラ――」
手套に覆われた指が柄に手を掛ける。鞘に収まっている一振りの剣。抜き放たれていないその状態ですら一目にも禍々しい気配を放つそれが、ヤマトの動作に連れて一層強烈な邪気を発し。
瞬間、符を交えて荒々しく編まれた縛縄が、握り締める外套の上に巻き付いた。
「……アレ?」
「――【大祓】」
動かない。少女の意外を余所に打たれる一手。発動した結界の輝きが邪気を抑え、少女と剣との纏う気配を小さく見せる。
あのメンバーの中で葵が残った理由。――それは偏に、ヤマトタケルが呪具の使い手であるということ。
負の感情を糧として生み出される呪具とは、即ち穢れ。『祓紋の八家』第七席、異形の浄化と祓を専門とする櫻御門家に生まれ育った葵にとって、それは幼い頃より習い覚えてきた術理を存分に発揮できる格好の的であることを意味している。
「〝いとあやしき穢れと禍。直毘の神の御名におきて祓へ給い直し給い清め給ふこと〟――」
術式を進める都度に思い出していく。祖母から叩き込まれた技と術。頭ではなく、身体が思い出していくのだ。充分に理解していたはずの手順は実際行うに連れて益々その滑らかさを増し、流水の如き流れとなって加速する。
――実際のところ、この一連の騒動以前に櫻御門家の術理を葵が使うことは殆んどなかった。
祓紋の八家が隆盛を極めていたと言われる平安から江戸までの時代ならいざ知らず、今は三大組織による秩序が確立し、科学が大手を振って歩いている現代。起こる異形への対処案件などごく僅かであり、協会にて新たな術理を身に付けたこと、葵自身に水の支配者という別種の稀有な才能があったことも相俟って、祓を旨とした櫻御門家の技法は長らく日の目を見ることがなかったのだ。それが――。
「――」
たったここ二カ月ほどの間でこうまで役に立つ羽目になるとは。家を出る際の祖母の言葉を思いだし、葵は更に集中を高めていく。――理解していない。
「……?」
自らにとって天敵とも言うべき術法で縛り上げられていっているにも拘わらず、ヤマトに首を傾げる以外の反応はない。……術理も相性も。やはりというべきか、まるで子どもだ。永久の魔を薄めたような穢れそのものの気配を抜きにすれば、それこそ初めて会ったときの彼らと何も変わらない。他の二者とは明らかに違っている。これならば。
「〝明き浄し正しき直き〟――」
戸惑いの隙に重ねて祓詞で縛り付けていく。ヤマトの持つ剣の邪気は膨大だ。一瞬たりとも気を抜けばそれだけで式を返されかねず、故に用いるのは零との戦闘にも用いたこの術法。祓の力を持つ縄と陣とを幾重にも幾重にも、抜けられぬよう隙間なく、破られぬよう緩みなく、記憶と技術を総動員して封じ込める。優位は間違いなく自らにあり――。
「――〝禊ぎ給え〟」
だからこそこの場での失態は許されない。レジェンドの一人を無力化する、これは千載一遇の機会。それを理解しつつ水系魔術と合わせて清めを施した水を放つ。――古来より水は清浄の側面を見出されてきた。水の支配級の適性を持ち、祓の技法に精通した葵ならば両者を複合させた術法の潜在性を余すところなく引き出せる。一分の抜かりもなく終えた手順。
あとは仕上げのみ。蓋を閉じ、穢れの全てを封じ込める段に掛かる。覆う光で最早ヤマトの身は見えない。きつく蜷局を巻く黒ずんだ荒縄は、その中心にある対象を確実に捉え。
――黒ずんだ?
「――」
気付かされた意識の陥穽に目を見張る。茶けた朽木の如き変色は、見紛いようもない縄の変質。
――侵食されている。
それも異様な速度で。濃度の高すぎる穢れに対し、清めの速度が追い付いていない。理解のままに紡ぎ出したのは櫻御門流ではなく、協会式のルーンの型。魔への対抗力を高め浄化を補助するそれを追加として空に刻み付ける。素早く動かした指の先で。
「――っ」
燐光する魔力により描かれたルーンが震える。呪いの脈動を抑え切れていない。逸る鼓動を抑えながら次に打つべき手へと詠唱を移行し――。
――その僅かに息継いだ刹那に積み上げてきた全てが瓦解するとは、葵とて夢にも思っていなかったのだ。
「――」
「……ウン」
紡ぐべき詠唱を断ち切られた葵の前で。完全に朽ち落ちた標縄。結界の光が、紫紺の炎の前に塗り潰される。
「チョット、チョウシワルカッタ。ケドナオッタ」
組み上げられた入念を崩したのは只々圧倒的と言える呪いの濃さ。即座に撃ち出した高圧の水流はレジェンドの顔面を直に撃ち、しかしそれでも一滴の血さえ流させるに至らない。胴目掛けて振るった水刃も同じ。軍服の裾は些かも揺らされず、得物に向けられたその注意を、此方に向けさせることさえ。
「ジャ、ヤロウ」
為す術ない。持ち手から選び出すべき術法さえ分からず立ち尽くしている、葵の前で。
少女の手繰る穢れが、その真価を顕にした。




