第七節 リゲル・G・ガウス 前編
金曜日となる翌日は恙無く終わり――。
今日は早くも土曜日。俺とフィアの時間割では授業は午後に一つ入っているだけなので、昼食も兼ねて早目に家を出てきている。ここ最近は学園で食べることが多かったので、偶には外で食べることにしてみた。
学園の近くは学生街、とまではいかないが、それでもシトー学園に通う学生を考慮したような手ごろな価格の店が色々とある。この辺りを飯目当てで回るのは初めてのこと。フィアと回りつつ幾つか気になる店を見付け、迷い――。
「……それにしても」
結果的に入ったのは一件の洋食屋。……個人的にはあることを確かめたくてこの店を選んだ。
「どうかしましたか?」
「いや……」
口に運ぶ鶏肉入りのケチャップライス。舌の上に広がる味わいを噛み締めつつ。
「本当に料理が上手いな、と思って」
「っ」
照れたように目を逸らす。
「……そうですか?」
「ああ。――正直言って、驚かされた」
あのあとで分かったことなのだが、フィアは和食以外の料理も得意だった。昨日食べたオムライスも、こうして店のものと比べてみるとよく分かる。
無論これらの料理も美味い。美味いのだが、フィアのは更になんというか、もう一段奥の深い味わいであるような感じがする。高級な食材も、変わった調味料も使っていないのに……。
「俺もフィアほどじゃなくても、最低限のものくらいは作れると良いんだけどな」
「そんな。私の方がお世話になっているんですから、黄泉示さんは――」
「ああいや、違う」
やんわりと否定してから、どう言ったものかと頭を巡らせ。
「――元々今回の一人暮らしを機に、自炊もするつもりだったんだ。外食ばかりじゃ栄養も偏るし、出費も嵩むし。先のことを考えても、簡単な料理くらいできるようになっておいた方が良いと思って」
「あ……そうだったんですね」
「まあ、結局できてないんだけどな」
フィアの件に、始まったばかりの授業など。新生活が予想以上にドタバタしていて、手を付けるのが何となく億劫になってしまっているというのが現状になる。出費や栄養バランスに目を瞑れば外食はやはり手軽で――。
「……あの」
時間が掛からないのが便利だ。洗い物の手間もないと、そう思っていたところでフィアが切り出す。少しだけ躊躇いがちに。
「私で良ければ、教えられるかもしれません」
「え?」
「その、お料理を」
「……」
言われて気づく。それは……。
「……そうなのか?」
「はい」
……そうか。
それは思い付かなかったが。昨日見た限りでは、確かにフィアの料理の腕前は見事なものだった。言う通り頭の中に調理方法が浮かんできているのなら、それを他人に教えることもできるはず。
「……なら、頼みたい」
願い入れと共に思い起こすのは今日の時間割。幸いにしてかなり時間はある。敢えてあとにする動機はないし……。
「今日の夜からでもいいか? 早速で悪いんだが……」
「大丈夫ですよ。黄泉示さん、お料理の経験は」
「……全くないな。皮むきくらいならできるかもしれない」
〝ガキがそんな気ぃ使わなくて良いっての。お前は大人しく坐ってろ坐ってろ〟
俺が手伝うと言っても小父さんはそんな調子で、頑として手伝わせてはくれなかった。最初こそ飯の不味さと台所で悪戦苦闘している小父さんを見かねて言い出したのだが。
それから小父さんの腕前は上達して食卓に出る料理は少しずつ美味くなっていったし、何度言っても断られるので俺から調理場に立つと言うことはこの頃では殆んどなくなっていた。調理の様子を見てはいたから、右も左も分からないというわけではないが。
「分かりました。でしたらまずは、簡単なところから始めていきましょう」
「ああ――」
そんな話をしている内に食事も終わり、会計を済ませてフィアと共に外へ。時刻を見るが、授業まではまだ少し間がある。辺りを物色でもしながらぶらぶら歩いて行けばいいか、と。
「――」
歩を進めた矢先、耳に届いてきた物音にそちらを見る。日の差し込んでいない路地裏で蠢く何人かの人影。
その内の一人に見覚えがあった。……スーツにサングラス。教室で一人無視されていた、あの男だ。響く鈍い音と呻きは、間違いなく乱闘によって起こされているもので。
「黄泉示さん?」
「いや……」
取り繕うより早くフィアがその方向を向いてしまう。目にしただろう光景に、その眉根が僅かに寄せられるのが分かった。
「……あの人、クラスにいた人……ですよね」
「多分な」
あの恰好は中々インパクトがあるし、見間違いとは思えない。あんな素行が知られていたとすれば、教室で避けられているのも頷ける。暗がりで殴り蹴りする音に続いて、誰かが倒れるような音が響き――。
駆け出したリゲルを追って男たちは更に路地の奥へと進み、姿を消してしまった。それでもまだフィアは少しの間、何か物言いたげな視線で路地裏を見ていたが。
「行こう」
「……はい」
こんなことで授業に遅れても仕方がない。急かして歩き出した俺に着いてきながらも、フィアはどことなく、後ろ髪を引かれているようだった。
「え~……」
――学園に到着して。
「蔭水、蔭水」
「はい」
名前を読み上げながら丸眼鏡越しに学生を見渡す、老講師の視線に軽く手を挙げて答える。今日初めてとなる授業。珍しく口頭で出席を取るということで、一人一人確認されている。少し間を置いてから、呼ばれた自分の名前にフィアも返事をして。
「え~……」
それから更に何人かの名前が呼ばれたのち。のんびりとしながらも途切れることはなかった講師の声が、唐突に一瞬、止まった。
「……リゲル。リゲル・G・ガウス」
それまでとは違う。ぼそりと挙げられた名前に連れて、微かに教室内に走るざわめき。……なんだ? この反応は。講師の視線と共に暫く間が空けられるが、答える声は上がってこない。
「……いないのか」
講師が手元の出席表にチェックを付けていく。……疑問を覚える一方で、目の前の現象にはどこか見覚えがあるような気もする。もしやこれは。
「――」
ガラリと。とある可能性に思い至った正にそのタイミングで開いた扉。遅れの申し訳なさなど微塵も感じさせない悠々とした足取りで入って来たのは、先ほど目にしたばかりのスーツ姿。
「……来たか」
そのまま黙って中央の席に着いた男を目に一つ呟き、特別なにも言うことなしに講師は手元の表に修正を加えていく。……やはり、あいつがリゲルか。
相変わらずの手袋にサングラスだ。黒地に覆われた手脚は分からないが、入ってきたときに見えた横顔に貼られていたのは数枚の絆創膏。セットされた後ろ髪もよく見れば乱れている。先の乱闘の影響と見て恐らく間違いない……。
「……」
送る視線の先でリゲルは足と背を投げ出し、いきなりの睡眠を取る構えを取っている。寝ているだけの授業に、なぜ乱闘のあとでわざわざ出に来るのか。
「呼ばれてない学生はいないかな? いなければ、講義を始めようと思う」
疑問を余所に授業が始まる。リゲルから視線を移し、講師の声に意識を集中させた。
――それから――。
「――じゃあ、一緒に作ってみましょうか」
「ああ」
フィアに料理を教わり――。
「……いや、そこはこうなんだ」
「あっ、こうですか……」
勉強を教え――。
「今日はどうします? 黄泉示さん」
「……そうだな」
久々の日曜日。当然のことながら俺もフィアも特に決まった用事はなく。
「偶には散策でもしてみるか。この辺りを、こう――」
フィアと一緒に外を歩く。休日を挟んでの一週間の残りも過ぎて行き。
「――」
月曜日、本日最後となる授業を終えた。……これで丁度予定を一周した形になるわけだ。
「どうだった?」
帰り道。フィアと並んで歩きながら、そのことを訊く。
「授業。変更したいのとかあったか?」
「……いえ」
少し考えたのち、言葉を口にするフィア。
「大丈夫そうです。やっていけると思います、お陰さまで……」
「……そうか」
――なんとかなりそうだ。
俺の方も、フィアの方も。始めはどうなることかと思っていたが、どうにか。そのことに安堵しつつ──。
「今日は遂にオムライスに挑戦ですね」
「ああ、そうだな」
フィアが言う。俺が教えてもらっている側なのに、まるで自分のことのように嬉しそうに。
「少しずつ上手くなってきてますから、この調子で頑張りましょう」
フィアの教え方はとても丁寧だ。急かすようなことをせず、毎回手本を見せてくれる。手取り足取りという感じで、不器用を自認している俺としては大変ありがたい。フィアの言う通り、ゆっくりとではあるが次第に慣れてきてもいるし……。
「帰ったら復習をしよう。今日の分なら料理の前までに終わるはずだ」
「はいっ」
応える声。そこに表れている、一つの変化を思う。……やはり。
――このところ、フィアが前よりも明るくなっている気がする。
微細な変化ではあるが。寧ろ記憶喪失という事情を踏まえれば、此方の方が本来のフィアなのだと言って良いのかもしれない。かく言う俺の方も始めのような他人行儀な緊張感は減ってきている。どう表現したものかは分からないが……。
「~~♪」
「……」
――順調だ。
何もかもが上手く回り出しているような気分。視線の先に広がっている青い空と、雲。フィアが鼻歌を口ずさむのが聞こえてくる。――珍しい、覚えている限りでは初めてとなる彼女の所作に少し驚きつつも、その穏やかな春の喜びを表現したような曲の題名を訊こうとして――。
「――嘗めてんじゃねえぞ、テメエ‼」
「――ッ」
滑らかなメロディーを掻き消す罵声が、俺の思考を唐突に遮った。
何だ――?
凡そ聞き慣れない内容の言葉に声の出どころを探す頭。向けた視線に、それらしい集まりが映り込む。……俺たちが進んでいる道。
そこと交わっているさほど広くない通りに、十数名ほどの人間が集まっていた。人相で判断するのは方法として不適切かもしれないが、何れも見た感じではかなりガラの悪そうな連中だ。
「……」
――そしてその男たちに囲まれた中に一人、見知った顔があった。
サングラスにスーツという、嫌でも目立つような特徴的な出で立ち。キッチリと撫でつけられたオールバックの髪に、両手に嵌められたこれまた黒をしたレザーグローブ。
「リゲルさん……でしたよね?」
俺が思い出すより一瞬早く、フィアがその当人の名前を言う。――リゲル・G・ガウス。間違いない。俺が名前を憶えている数少ない学生の一人。といっても親交も何もなく、ただその印象が余りに強烈だったというだけのことに過ぎないのだが……。
――あんなところで何をしてるんだ?
疑問が先に立ち、その場で少し様子を見てみる。その光景に周囲を行き交う通行人も、何人か足を止めてその様子を窺っているのが見えた。
「やっと会えたな、リゲルさんよぉ」
リゲルの周囲を囲む男達の内、一人が話し出す。
「こうして人を集めるのには苦労したぜ。何しろ、いつどこであんたの親父さんの目が光ってるか分からねぇ。どいつもこいつも皆怯えちまってなあ」
そう言いつつ男はどこか遠くを見るように目を細める。……話し振りから察するに、あの男が男たちのリーダーのようだ。直後に視線をリゲルへと戻した男の目には、剣呑な光が宿っているように見えた。
「だがあの野郎は今頃国の外だ。明々後日までは戻らねえってことが分かって、漸くそれが適ったってわけだ。……どうした? さっきから黙りこくって。俺たちに何か言うことの一つでもねえのか?」
その言葉に、周囲の男たちが低い忍び笑いを漏らす。
「……」
そんな明らかな嘲りにも、リゲルは沈黙を守ったまま。特に気分を害したような様子もない。動じていないような。
「……黙ってねえで、何か一つでも言ってみたらどうなんだ?」
その反応に、寧ろ挑発を仕掛けた男の方が苛ついている始末。男の声は静けさを保ってはいたが、内に秘められた怒気は隠しようがなかった。その言葉を受けて、遂にリゲルが口を開き――。
「お前ら、誰?」
「――は?」
言葉を受けた男たちが絶句する。……それはそうだろう。
「わりぃんだがマジで覚えてなくてよ。どこで会ったか教えて――」
「――おい」
何を言ってるんだ、あいつは。その応対で怒りが頂点に達したらしい。額に青筋を浮かべたリーダー格の男が、一歩前に出た。
「ふざけてんじゃねえぞ。この場でぶち殺されてえのか?」
「そう言われても知らねえもんは知らねえよ。名乗る気がねえんなら、さっさと――」
「――先日お前の親父に潰された、カッサンドラファミリーだ‼」
耐え切れなかったのか、取り巻きの男が叫ぶ。……ファミリー?
マフィアの用語だ。それを耳にした通行人のうち何人が、そそくさと逃げるようにしてその場をあとにしていく。……顔を隠しながら。リゲルの漏らした溜め息を見て、更に勢いづいたと見える取り巻きの男。
「思い出したか⁉ てめえらのせいで俺たちは――」
「――知らねえっつってんだろ」
一変。別人かと思うほど明瞭にドスの利かされた声音に、身を乗り出していた男が後ずさった。
「それなら俺なんか相手にしてねえで、親父の所に行けよ。その方が話が早えし、よっぽど筋が通ってんだろ」
「分かってねえなガキ」
再び話し出すのはリーダー格の男。嗤い声に籠められているのは、内に沸々と滾る怒り。
「ただの復讐じゃ足りねえんだよ。大事なものが壊される苦しみを、たっぷり味わわせてやらなきゃ気が済まねえ」
「お前らのファミリーじゃ、ガキに借りを返すのが普通なのかよ」
本物の脅迫染みた台詞に全く怯むことなく言葉を返すリゲル。……どんな胆力だ。
「ま、仕方ねえか。わざわざ親父がいなくなるのを待ってた連中に、親父を直接狙うなんて度胸があるはずねえもんな」
続けざまの挑発。皮肉染みたリゲルの言葉を耳にした、男の顔色が変わる。
「……てめえ」
「お前らみたいのには慣れてるし、別に良いんだけどよ」
スッと腕を上げ、掌に右拳を叩き付けた。……速い。辛うじて目視できた拳の動き。威勢よく上げられたその拳撃の音に、周りの男たちも少したじろいでいるように見える。
「ここんとここっちも苛ついてんだ。ストレス解消のサンドバッグになってくれるってんなら、喜んで相手してやるぜ」
「……嘗めやがって」
ボクシングのような構えを取るリゲル。リーダー格の男が憎悪一辺倒の目付きでねめつける。
「掛かれてめえら! レイルの野郎に、目に物見せてやれッ‼」




