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第十節 未知に挑む

 

「……」


 礼を言い、エリティスさんの部屋から退出して少しして。


 俺は一人、訓練用の部屋にいる。……朝になるのを待てず。見つめているのはエリティスさんから渡されたあの巻物。


 話が終わるのを待っていたらしいリゲルとジェインには簡単に事情を話した。……アイリーンに対抗するための手段となるかもしれない技法。それをエリティスさんから預かったのだと。


「……」


 ――なにが起きるのかも、どんな効力なのかも分からない。


 改めてその言葉の意味を噛み締める。……だが、他に考え付くような方策はなかった。今日のジェイン、リゲルとの作業を検討してみても、アイリーンを死なずに確実に捉えるなどという無茶は、やはりこのままではどうあっても成り立たない。……精々死ぬ気でやってどうかというところ。それにしても可能性としては無きに等しい。


 ジェインの言うように、賢王を納得させるには絶対にやってみせるという決意だけでは足りない。……渋々でもいい。賢王が首を縦に振るだけの、根拠をぶつけなければ。


 ――とにかく試してみよう。


 心を決める。単純な攻撃系統の魔術ではないとエリティスさんが言っていた以上、試してこの支部が吹き飛ぶようなことはないはず。


 今の俺には円環がある。もしもの場合でも、キャンセルすることくらいはできると断じて、――それでも慎重に。致命的な失敗は許されない。


「……」


 紐の封印を解いて、開いていく。……顕になった獣皮紙の表には原文と思しき読めない文字の羅列と、そこから少し距離を空けてエリティスさんが解読したと思しき音の訳が書かれている。……意味はまるで理解できない。字面から何かを読み取ることを早々に諦めて。


「――〝Páre píso〟」


 挑むような心持で。一語と思しき音の纏まりを口にした。


「――」


 続けようとした喉が止まる。……なんだ? 今の感じ。


 底知れない深淵を覗き込み。不意に、全ての足場を失ったような。


 ――落ちていく――


「――ッ」


 ――ゾワリ、と。


 全身の毛が逆立った。……歯の根が合わない。意志を無視したカチカチという音と共に、身体中がわけもなく震え始める。脚がガクつく。


 呼吸が辛い。足下から這い上がってくる悍ましい空気。身体中に穿たれた無数の黒い穴を通るような。全身全霊が、俺の全てがこの感覚から逃げ出したいと叫んでいる──‼


「ッッ――‼」


 ──堪らずに。手にした獣皮紙を、思い切り放り投げ捨てた。……同時に、あの悍ましい感覚が引くように消えていく。戻ってきた世界を確かめるようにして。


「……はっ、はっ……」


 ……なんだ、今のは?


 切れ切れになる息の合間から止め処なく噴き出してくる冷や汗。……腕の震えが止まらない。寒い、暑い、いや、そのどちらでもない。凍るような熱と燃えるような冷たさの二つを、皮膚と身体の内外から同時に感じているような未知の感覚。


 刃を首筋に当てられるような父の殺気とも、初めて円環を身に付けたときのえもいわれぬ不気味さとも、永久の魔を前にしたときの根源的な恐れとも違う。……得体の知れない拒絶感。そう言い表すことしかできないような、ナニカだ。


 ……なんなんだ、これは。


 答えの出ない問いを重ねて自分自身に問う。……分からない。そうとしか言えない。蘇って来るのはエリティスさんが扱えなかったというその言葉。……制御のために円環を使ったとして。


 果たしてそれで扱えるようになるのか? ……これが。


「……」


 ……どうする。


 他の方法を探すか? 目を瞑り、逃げる為の言い訳を探そうとする頭で考える。……どちらにしても博打になる。


 期限内に他の方法が見付かる保証はない。見付かったとしてもその実行のための準備期間がなければ見付からなかったのと同じこと。あと数日のうちにそんな方法が見付かるとはとても思えない。そもそも真っ当な手段ではどう足掻いても不可能だと思えるような状況だからこそ、これに手を出しているのだ。あの拒絶感をどうにかできるようになるなど、それもやはり想像がつかないが……。


 だが逆に。ここまでの惧れを感じるようなものであるならば。


「……」


 開いた視界に裏向きのまま落ちている獣皮紙が映る。……この希望の見えない状況を打開する、唯一の手掛かりになるのかもしれない……。


「……っ」


 ……あの感覚は殆んど生理的な、反射と言って良いようなものだった。


 震えの残る身体を置いて考えだけを先に進める。それを抑え込むには円環の力を借り、全身を固定して拒絶を強制的に押さえ付けるしかない。それで上手く行くのかは分からないが、とにかく今は耐えることが必要だ。


「……」


 覚悟を決めるためにもう一度目を閉じる。震えを止める為の黙想。胸に焼き付いたあの情景を思い浮かべ、眼を開く。


「……よし」


 しゃがみこんでいた膝を上げる。……視線の先にある獣皮紙を拾い上げる。円環を稼働。離さないよう指に力を込めた状態で、全身を固定。……行くぞ……!


「……〝Páre píso〟……ッ‼」


 文言を口にした直後、祈りも虚しく再び這い上がってくるのは悍ましいあの感覚。


「……ッ‼」


 戦慄く身体を固める筋力で強引に押さえる。……耐えろ。耐えろ……ッ!


 絶対に、この手を――‼


「――ツッ‼」


 不意に掌に沈む感触。それまでの忌避感とは全く質の違う鮮烈なその痛みに、力の緩んだ腕が跳ね上がる。――しまった。


 思う間もなく宙を舞い、パサリと落ちた獣皮紙。呆気なく崩れたことに半ば呆然としながら、開いた掌に目を落とした。……滲む緋。


「……っ……」


 じくじくした痛みを訴えている真新しい四つの傷口。五本の指の全てが強張り、筋と曲げた節とが痛みと共に軋みを上げている。……円環の調節をしくじった。拒絶感に耐えようとする余り、力を入れ過ぎたのか……。


「……」


 掌から湧いてくる血の泉から目を逸らし、考える。……拒絶感に耐えられるだけ円環の力を使い、同時に自らを痛めない適切なレベルでの調節を行わなければならない。それだけでも著しく困難だが、気になるのは今の二回目で新たに覚えた感覚。


 一回目より僅かにとはいえ長く耐え切ったせいか、あの拒絶感とは違う別の感覚があった気がした。全力で拒絶している肉体を何かが食み進んでくるような。指先から冷たい金属が体内に流れ込んでくるような、そんな異常な感覚……。


「……」


 ――このまま続けていれば、俺はどうなる?


 そんな疑問が脳内に浮かんでくる。エリティスさんは強化系統に近いと言っていた。俺の知っている強化とはまるで別物だが、それでもこの術が術者になんらかの影響を及ぼすものであることは確かだろう。……仮にこの呪文をものにできたとして、俺は。


 ――そのときも、今の俺のままでいられるのだろうか?


「……」


 ……分からない。


 分からないのだ。何も。手掛かりも頼りも推測もない。不安に釣られるようにして否応なく迷いが襲ってくる。


 ――なら、諦めるか?


 フィアを。彼女が生きて、再び笑ってくれていることを。その為の手掛かりを掴むことを。


「……」


 ……そんなこと。


 できる、はずがない。


 俺は……。


「……」


 落とされた獣皮紙を再度拾う。立つのを止めて床に胡坐をかき、余計な力を使わないようにする。


「……」


 書かれた文言を睨み付けた。……こうなれば、あとに残るのは意地だけだ。


「――っ」


 ――何かが掴めるまで、やってやる。















「――良い月ですね」


 外。月明かりの夜にてジェインはその声を受け止める。


「美しい……まるで女性の様です」


 わけの分からない台詞を呟きつつ目の前を歩くのはエリティス・デ・テルボロフ。黄泉示から魔術を預かったと言う話を聞いたあと。書庫に向かう途中で外に呼び出されたのだ。


「……なんの用ですか?」


 ただでさえ今は時間が惜しい。それ加えてジェインとしては、目の前のこの逸れ者を疑わしく思っている心持もあった。明かせない私用とやらで協力を放り出した態度。黄泉示に渡した魔術とやらも、果たして信頼できる効力のあるものなのか。


「魔術を受け取ったという話なら蔭水から聞きました。それ以外に――」

「――懐かしいですね」


 唐突な台詞がジェインの言葉を切る。


「その魔術。デーツ嬢と同じものです」

「――」


 振り向きざまに見せられる意味ありげな表情。……それ以上口にされるまでもない。ジェインの脳裏に蘇ってくるのは、忘れることのできないあの記憶。


「……あの人を知っているのか」

「はい。とは言っても、それほど親しい間柄というわけではなかったのですが。偶々知り合う機会が得られましてね」


 以前に、と。言うエリティスを前にジェインは思案する。……この逸れ者が果たしてどこまで知っているのか。何を訊き、何を隠すべきか――。


「――私も彼女や貴方と同じですよ。Mr.ジェイン」


 ジェインの眼に映り込んだのは、穏やかなエリティスの面持ち。


「彼女が持っていたように、貴方も持っている。貴方が持っているように、私も持っている。私の扱えるあの魔術も――」


 掲げられた腕。袖を捲り上げた、その腕の真ん中にあるもの。


「――これのお蔭でして。厳密に言うならば、私の力というわけではありませんね」

「……っ」


 衝撃。……それに今の言い振りは。


「……一つ訊きたい」


 乾く口内を自覚しながら。


「あの人は今、どこにいる?」

「……」


 予想通り。問い掛けを受けたエリティスの眼には、一瞬影が差したように見え。


「……そうですね」


 息と共にその台詞を吐き出した。……回答をジェインは待つ。


「どうしてそうなっているのかは想像が付きます。……答えを告げることはできますが」


 ジェインを見るエリティス。瞳に映るのは思い遣りの色。


「必ずしも知りたいと願っていることとは限りません。それでも――」

「……構わない」


 ここまで来て、知らないなどと言う選択肢はあり得ない。


「――分かりました」


 一つ頷き、エリティスが口を開いた――。


 ――


「……他にもいるのか」


 訊き終えたジェインは、独り言のように呟く。


「ええ。少なくともあと五人は。この世界の何処かに」

「……」


 直ぐには言葉が出ない。話された事実を飲み込むのに時間が掛かる。


「……何なんだ?」


 漸く絞り出したのはその言葉。


「僕たちの持っているこれは、一体」

「……さあ」


 ジェインから顔を背けてエリティスが答える。長い髪に隠れたその顔。


「私には分かりかねます。私も、それを知る為に探しているのですが……」


 残響が夜気へと消える。横たわるのは暫しの静寂。


「――私は明日此処を発ちます」

「――なに?」


 それを破って口にされた聞き捨てならない台詞を、ジェインは反射的に問い返す。


「私用はまだ続いていまして。此処に来たのは前回の釈明に併せてその旨を伝えるためと、最後に何か力になれることがあればと思ったからです」


 貴方たちの、と。エリティスがジェインを見る。真意の読めない瞳……。


「……」

「具体的な効力如何については分かりませんが、Mr.蔭水に伝えた術法は強力極まりないものです」


 言葉のないジェインに向けて、エリティスが呟くように言った。


「伴う労苦も大きいことでしょう。――友として、彼の力になってあげてください。Mr.ジェイン」



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