第九節 選択肢
「――おお」
見つめる俺の前で、歓声にも似た静かな声が上がる。声音に含まれた喜色。
「これは良い部屋ですね、どうして中々。暫くは屋根のない場所での寝泊まりでしたが、今夜は羽を伸ばして存分に眠れそうです」
案内した先の個室に入って満足そうにしているエリティスさん。そう言いつつも気になるところがあるのか、シーツの皺を伸ばしたり、調度品の位置を変えたりずらしたりしている。……屋根のない場所? 独り言の内容に疑問を覚えつつ──。
「――それで」
入り口近くで立ち尽くしている俺に向けて。振り向いたエリティスさんから、唐突に声が飛ばされた。
「なにかお話があるようでしたが、どういったご用件でしょうか」
「あ――」
――気兼ねなく話をする為に手を打ってくれたのか。疲労のせいか鈍くなっている頭で今更理解しつつ、俺たちの事情を話し始める。……フィアを助けようとしていること、その為には、かのアイリーンを倒す必要があること――。
「――なるほど」
聞き終えたエリティスさんが眉根を寄せる。……当然の反応だろう。
「それはまた何とも難しい状況ですね。賢王嬢らの判断も分かりますが、さりとてMr.蔭水方としましては素直に頷くこともできない……」
端的にまとめられた状況。こうして言葉にして出されてみると、自分の置かれた状況がどれだけ厄介なものか、身に染みて分かってくる気がする。……改めて。
「それで私に、アイリーンをどうにかする方法があるかどうか、知っている限りでいいので教えて欲しい……と」
「……はい」
無理は承知。だが今の俺たちにはとにかく当たれる可能性を当たっていくしかない。見込みがどんなに薄くても。藁にも縋る思いで頷いた俺に。
「……まあ、ないこともありませんがね」
「え――?」
余りにさらりと口にされた台詞。呟くように言われた予想外のその台詞を、思わず聞き落としそうになって訊く。……まさか。
「ああいえ。誤解させるといけないので、丁寧に言い直しますが」
本当に? 半分疑心暗鬼になっている俺に対し、エリティスさんが柔らかな笑みを見せる。話に食いついた俺を少し抑えて、執り成すような素振り。
「可能性のあるかもしれない事柄を一つ知っている、というだけのことです。厳密には、知っているとは言えないのかもしれませんが……」
「――教えてください」
気乗りのしなさそうな口振り。そこを押し切って頼み入れる。
「どんな些細なことでも良いんです。――お願いします」
「……」
手掛かりになり得るのなら今はどんな情報でも欲しい。頭を下げた俺に対し、エリティスさんは暫し沈黙して。
「――まあ、そう急がないことです」
そう言って立ち上がると、なぜか俺に背を向けた。……歩いていき。
「急いては事を仕損じてしまいますからね。早急な決断というものは後から振り返って見てみると、思わぬ後悔を生み出す要因になっていることもあります」
パックを取り出して、ポットからいつの間にか沸かしていたらしいお茶を淹れる。二人分のカップに注ぐと、俺の目の前にまで持ってきた。受け取り湯気立つ紅茶を見つめる俺の前で。
「……」
香りを楽しむように眼を閉じて、ゆっくりとカップを口に運ぶエリティスさん。……そこだけ時間の流れが違う。午後の優雅なティータイムのような、余りに雰囲気の隔たる光景に少しばかり焦りが募り。
「……エリティスさ」
「――愛しい恋人は最悪の魔女として敵方にあり、いつ生命が消えてしまうとも分からない」
声掛けを遮ったのは、歌うように口にされた相手のその言葉。
「周りからの協力も充分に得られてはいない。自分たちだけでどうにかするには、とにもかくにも足りないものが大き過ぎる……」
言葉の余韻を噛み締めるかのように徐に眼を開ける。
「実に厳しい状況です。それに対してどのような選択を採るにせよ、誰も当人を責めることなどできないでしょう」
俺の瞳を一瞬見据えて、エリティスさんが浮かべたのは気遣うような穏やかな笑み。
「仕方のないことではないですか。決して誰が悪いというわけでもありません。貴方が諦めたのだとしても、それは周りを考えた上での苦渋の決断だと言うことができる」
カップを目の前のテーブルに置いて、膝上で軽く手を組んだ。
「私はそう思います。Mr.蔭水は、どう思うのですか?」
「――っ」
試されている。穏やかな声音の中にも真剣な表情を見て取って、言葉を選び出す。……俺は。
「……フィアは」
大切な相手。それもそうだ。単なる友人や仲間や、或いは恋人と言うのとも違う。……だが今エリティスさんに対して言うべきなのは、きっとそれではなく……。
「永久の魔の攻撃から、俺を守ってくれました」
敢えて思い出す。忘れられない、眼と心に焼き付いているあの情景。
「……永久の魔の前に立ちはだかった、フィアの顔を見たんです」
僅かに振り向いて俺を見た顔。あれは、とても、眩いほどに強く――。
……とても悲しい、覚悟の顔だった。
「……フィアには、笑っていて欲しい」
自分が死ぬことを受け入れたことへの。世界からいなくなることを受け入れたことへの。望まない結末を、それでも受け入れようと決めたことへの。
「変な言い方ですけど……幸せでいて欲しいんです。……あれで終わりになんて絶対にさせないし、させたくない」
だから。俺の中にある決意。それを確かに内に捉えて。
「……そう、思います」
伝え切った。……目の前のエリティスさんの表情は、無言。
「……」
組んだ指は開かれていないまま。いつもの穏やかさでさえどこか鳴りを潜めている。真剣に俺を見ているような、しかしそうではないような、不可思議な瞳。
「……それは」
ひたすらに待つ。俺の意識に届いたのは、あのエリティスさんが発したとは思えないような、月影の生む影のように酷く清澄な声の音。
「それは例えば、自分の魂を悪魔に売り渡してでも?」
「――」
……これは。
……これは、重い問いだ。
生半可に返すわけにはいかない。静かに俺を見つめるエリティスさんの眼差しが、これまでとは明らかに違っていることを訃げている。……問われているのは、生命を掛ける覚悟があるか否か。
「……はい」
それを分かっていて、俺は答えた。
――諦めたくない。
例え俺自身がどれだけの犠牲と代償を払おうとも。この結末を受け入れることだけは、絶対に。
「……」
暫し俺と視線を合わせる形になった、エリティスさんが天井を見上げる。剃り残し一つない、手入れの行き届いた顎が動く。口の中で呟いた台詞――そうですか。
「――Mr.蔭水」
視線を下ろして姿勢を正す。指を解き、燕尾服の内側を弄ったエリティスさんが、その指に掴んだ何かを取り出した。
「これを」
落ち着いた仕草で差し出されたのは、一枚の古びた紙の巻物。それ自体にも文言の書かれたリボンのような黄土の布紐で止められている。これは……。
――いや。
手に取って違いに気付かされる。普通の西洋紙より、重い。滑らかで厚みのあるそれは、皮だ。人の手で嘗めされた、獣の皮……。
「その獣皮紙に記されているのは、私が魔術研究の副産物として発見した、古代の失伝魔術です」
……失伝魔術。
「私には扱えなかったので効力の詳細は分からないのですが、解読した記録からするとどちらかといえば強化の系統に近く、それも現代まで残された魔術とは比べ物にならないほど強力な術法のようでした」
年季の入った様相を見つめながら聞く。……凄まじく強力な強化の魔術。理想的な内容に身体が震える。もしそれが本当ならば、アイリーンとの戦いでこの上なく役に立つことは間違いない。ただ……。
「発動に必要なのは呪文詠唱のみ。文言は解読して記してあります」
実際の効力は分からない。それにエリティスさんが使えなかったということは、それだけ扱いの難しい魔術だということで。
「解読通りの術法であれば、殺さずにアイリーンを取り押さえる目的にも役立つことでしょう。……無論、使いこなせればの話ではありますが」
「……」
「――あなた次第です。Mr.蔭水」
「――あれ?」
決定的に緊張感というものに欠けた声音。初対面の者が聞けばあどけないとも受け止めるだろうその声を、賢王は不定形の異形、蝕腕に絡め取られたかの如き心境で耳にする。
「賢王ちゃんだ。どうしたの? 珍しいじゃない。こんな短い間に二回も来るなんて」
「――シンシア」
涼しい顔付きで剥き出しの岩肌に腰掛けているのは、賢王にとってよく見知ったその逸れ者。……構える心持で暗黙の眼差しを注ぐ。自分が何を言いたいのかは、この女なら既に存分なまでに了解しているはずだった。
「ちゃんとお返事も描いたのに。案外律儀なんだね。賢王ちゃん」
三大組織に抗する反秩序者たちの派閥。その頂点に君臨する五人の王が一人、――賢王。
特殊技能者界に於いて絶対的な畏怖の象徴とされる凶王の威圧を前にして、シンシアは僅かばかりの色も変えない。敢えての不遜とも傲岸とも違う。畏れる必要がないからそうしないのだという、ただそれだけの態度。尤も――。
「人形だけでは足りませんでしたか?」
「ううん? そんなことないよ?」
この逸れ者が何かを畏れるという様は。……少なくとも賢王には想像ができなかった。常人と比べて圧倒的な歳月を生きてきた者たちが持つ、どことなく超然とした、深い黒淵のような雰囲気。
「何だかんだで賢王ちゃんって私のことよく分かってるんだなあって。ちょっと感心したくらい。――けど」
其処に来て漸くシンシアが賢王を見た。己の弱所を弄り、抉り出されるような不快感に、表情に表れそうになる機微を押さえる。
「考えてみたら、初めてだと思ったの。賢王ちゃんが、高が他人の為にここまでするなんてこと」
誰かに呪具を渡すときに見せるあの表情。いつ見ても悍ましいとしか映らない、自然に歪な笑み。
「そう思ったらちょっと試して見たくなっちゃって。ごめんね? 悪気はなかったんだ」
「……シンシア」
有耶無耶にしに掛かる。それでも此度の賢王が退き下がることはない。眼差しに意力を込めたまま、十秒近くの睨み合いが続き……。
「……ふぅん」
シンシアから発された色のない声音を耳にした瞬間。不吉な予感が賢王の全身を走り抜けた。
「……しょうがないなぁ」
子どもの駄々を受け入れる母親のように足を組むシンシア。次に笑顔を見せた時には、既に不吉な感覚は消え去っていて。
「優しく殺してあげる。それでいいんでしょ?」
「……ええ。そうしてくれれば、互いの間に溝を作ることは避けられます」
「そうなんだ。じゃあ、賢王ちゃんに免じてそういうことにしといてあげよっかなー」
解いた脚を空中にぶらつかせる。少なくともその目論見を変えられたことを感じて、賢王が背を向けた。
「――お子ちゃまだねぇ賢王ちゃんは」
その背を切り付けるように届く声。
「王様っていってもまだまだ。私みたいにはなれないね」
「……貴女のようになりたいなどと、言った覚えはありませんよ」
「連れない連れない。そういうところも好きなんだけど、さっ」
振り返った視界の先。岩肌からシンシアは軽やかに飛び降り、着地の衝撃でとと、とふらついた。
「――またね。賢王ちゃん」
別れの挨拶とばかりシンシアが手を上げる。
「面白いものがあったら教えてね? 待ってるから、私」
その笑みは晴れやかで、底抜けに暗い。
「……ええ。また」
言い残して賢王は外に出る。夜中の空は黒く、吐く息は幾許かの白みを帯びている。
――雲外に細く覗く姮娥を目にして、賢王は歩みを踏み出した。




