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第二十六節 フィア・カタスト

 

「――ッッ‼」


 走る。走る。走る。全力で、脇目もふらず、後ろを省みることもなく。


「急いでくださいッ‼」


 先導は郭。フィアが強化魔術を覚えたことで全体の移動速度は速まっている。一番近いゲートより脱出する。そういう手筈だ。


「――っ」


 先輩たちの顔が過る。この状況で待っている余裕はない。各々が最善を尽くして、脱出していると信じるよりない――!


「――黄泉示‼」


 側面から響いた声。思わず振り向いたその先に、目を凝らすまでもなく見えた姿。


「――リゲル‼」

「リゲルさん‼」

「無事だったか‼ 良かったぜ‼」


 鼻頭を擦りながら駆け寄り、追い付いて俺たちと並走するリゲル。……スーツに幾つもの切れ目はあるが、概ね無事だ。


「賢王はどうしたんです⁉」

「冥王を呼んでくるっつってよ‼ 先に行けって――」

「――そこです」


 割って入る葵さんの声。――見えた。一角に、見覚えのある法陣が淡く浮かび上がっている。


「全員が入り次第転移します。用意を――」

「おうよ!」


 敵方はゲートを利用できない。一度離脱してしまえば追ってくることは難しいはず。緊張の途切れない戦況下で、漸く胸の内に安堵が過り掛けた瞬間。


「⁉」


 妙な、何か言いようのない感覚に足を止める。今、何か――。


「黄泉示さんッ⁉」


 前を行く。俺の挙動に気付いた、フィアが足を止めて振り返った――。


 ――刹那。


「――」


 その現象に、言葉はなかった。


 反応もない。だが一瞬で、その場にいる全員が同じだと理解する。……理解できてしまっていた。俺たちを襲ったのはそれほどまでに唐突で、決定的な変化。


 ――動かない。手が、脚が。蛇に睨まれた(かわず)の如く、切っ先を突き付けられた虜囚の如く、完全に射竦められている。


 いや、そんな喩え方では不十分だ。融けた鉛の大海に重りを付けて沈められているかのような、この感覚は。


「……」


 ――見るな。


 硬直した全身。辛うじて心臓だけが呼吸(いき)をしている。音が五月蠅い。鼓動の音が、やけに大きく聞こえる。そんな中。


 本能で、直感で。感じた脳が理性を振り切り、どうにか視線だけをそちらに向けさせることに成功した。


「――」


 初めは何もないと思った。次に、それが溢れ出る黒だと気付いた。


 その中心に立つモノの姿を見止めることは、最後まで心が拒絶していた。


 ――違う。


 その事を思い知らされる。自分などとは根底から違う存在。自らが人でなく羽虫だったのだと錯覚するほどに、圧倒的な存在の重さを以て其処に立っているなにか。それと同時に――。


 身体の奥底から湧き上がるような、負の情念を自覚する。……恐怖、絶望、畏怖。そのどれでもあってどれでもないような、混濁した負そのものの感触を。暴れ出しそうな、泣き出しそうな、叫びたくなるような、今すぐ逃げ出したいような、これは。


「――どれだけの(つわもの)たちかと思ったが」


 そのヒトガタから発せられる音。それだけで全身が揺るがされる。――歯の根が合わない。マズイと全身が全霊で叫んでいるにも拘らず、カチカチという音が鳴り止んでくれない。


「……」


 睥睨する。ヒトガタの眼差しが、俺を捉える。……静かに。極大の存在を纏いつつ歩み寄ってくるその姿。圧し潰されると直感的に思った瞬間、抜かれた黒紫の剣が意識を釘付けにする。


 ――死ぬ。


 殺される。徐々に迫る切っ先。痛いほど理解しているのになぜか、身体を動かすことができない。報われない懸命さの中で。


「……ッ‼」


 恐怖に思わず目を閉じた――俺の脇腹に、鈍い、衝撃が走った。











 ――戦場。


 その認識を抱く誰もが目を疑うほど無造作に、永久の魔は自らの身を晒している。……変わらぬ空虚を湛えたまま睥睨する光景。映る六つの人間。何れも年若く、青年の域は脱していないように見えた。しかしその力が外観相応には侮れないという事実を、永久の魔は既に聞き及んでいる。


 世界の側に残された戦力。圧倒的不利な情勢下にありながらも諦める事なく、しぶとく活動を続けてきている。今回も『アポカリプスの眼』が総力を結集した戦いでありながら、実にこれだけの人数が逃げ遂せようとしていたのだ。事実認識として目の前にいる人間たちが、それなりの力を有していることを認めぬわけにはいかない。


 ――ただ、それがどうしたというだけの話なのだが。


「……どれだけの兵たちかと思ったが」


 必要のないことを敢えて声音に変えて出す。……暫し反応を窺うが、相手方に動きを見せる者は依然としていない。動かないのではなく、動けないのだ。


 人間全ての負の情念をその身に宿し纏う永久の魔。溢れ出る濃密な邪気。負の情念が具象化したその邪気は、認識した者の心に同様の情念を想起させる。何れも根源的で、抗い難い情動たち。耐性のない人間であればそれだけで精神を蝕まれ、狂気に墜ち、命を絶つほどに。


 寧ろ動きを止めている段階であることこそが、皮肉にも青年たちの胆力を示しているとも言い換えられた。……心を喰われはしない。だが、振り切ることもまたできない。


 負の情念に縛られた時点での決着。これならばまだ、かの地で自らに向かってきた者どもの方が気概があったと言える……。


「……」


 胸に浮かんだ詰まらぬ感想を押し流す。負の情念の化身となった自らの前では、全てが同じ。抵抗と呼べるものにすらならぬまま、押し潰されていくだけだ。……かつての王たちが、そうであったように。


〝……面倒な注文を付ける〟

〝いやー……済まないね〟


 きまり悪そうに頬を掻くヴェイグの姿が脳裏に浮かぶ。


〝基本的にはアポカリプスの眼に任せているけど、もしものときは貴方がやってくれると助かるよ〟


「……」


 付けられた注文。それを思い返したところで回想を打ち切って、永久の魔は歩みを進める。


 ヴェイグより言い含められたのは、少女の回収。死体ではなく、息のある状態で連れて来いということだった。


 動きの止まっている彼らを薙ぎ払わないのもそこに理由がある。……繊細な調整は難しい。標的の制縛に留め、連れ帰りは他の連中に任せるのが良いと考えるなら、この時点で既に目的は達せられたようなものでもある。


 とはいえ――。


 障害を前にして排さない理由も有りはしない。前より順番に一刺しずつ。それだけで事足りる以上、敢えて避けることもない手間と言えた。


「……」


 永久の魔は距離を詰めていく。最も手近なのは刀を手にした青年。恐怖に塗り潰されたその情動から、動くことができないのは火を見るよりも明らかな事実。切っ先が心臓を貫く最期のときまで、その心は恐怖に覆われたままだろう。剣を抜き、更に近付く。


「……」


 予想通り青年に動きはない。揺れるのはただ、闇より深い黒紫の剣身。間合いに入る。剣を構える。そのまま切っ先を左胸へと差し向け――。


「――」


 跳び出した影に、突き出そうとしていた腕を止めた。


 ――一人、動ける者がいたか。


 僅かに起こる機微に釣られるようにして目を向ける。――場には似つかわぬ白。可憐な衣服の裾をはためかせ、その矮躯からは想像もつかないほどの速さで迫るのは、件の少女。


 呪縛を振り払っただけでなく、敢えての突貫を選んでくるとは――。


 剛毅な娘だ、と永久の魔は無感動に思う。だからこそ、ヴェイグに目を付けられたのかもしれない――。


「――ッ‼」


 伝わってくる意気の集中。同時に少女の身より光が溢れ出る。紛れもない強化法だが、纏う魔力と純粋性が尋常ではない。低俗な怨霊ならそれだけで滅し得るほどの輝きに加え、それ以外に守りを張る魔力の動きも感じられている。


 ――なるほど。この娘は神聖の支配者……。


 永久の魔は理解を終える。神聖の属性は負の情念と相性が良い。支配者が動員できる膨大な魔力量を頼りに、仲間の身を守るつもりか。


 ――下らん。


 推測を追認するように展開されていく光の盾。それらを一切省みることなく、無造作に剣を突き通す。


 ――先の呪縛を振り払うに当たり、その適性はさぞかし役に立ったことだろう。


 薄紙の如くに破り割られていく障壁。……むざむざ突貫を選んだのも恐らくはその相性差あってのこと。闇は光によって掃われる。童子でも思い付くような素朴な発想といえ理には敵っており、その意味で少女の選択は決して間違いであるとは言えない。


 ――だが、格が違う。


 永久の魔の身を覆うのは人間全ての負の情念。幾千年にも渡り億を超えて重ねられた歴史的負の蓄積は、そこから生み出される膂力だけでも優にあらゆる守りを貫けるほどに至っている。如何に支配者の適性と雖も、所詮は人一人の力。


 一滴の滴で、燃え盛る大火を消せはしない――。


「ッ‼」


 敗北を悟った少女が歯噛みする。青年の前に張られた障壁の枚数が尽きる。黒紫の剣が、得物の心臓を貫く直前。


「――」


 青年を突き飛ばした少女の所作に、永久の魔は僅かに瞠目する。神聖の支配者にそぐわない荒い身ごなし。一か八かで魔術を放ってくるかと思ったが……。


 ――どちらにせよ違いはない。


 そう処断する。少女はヴェイグより生きて連れ帰るよう言い含められている。元より標的にさえ含まれてはいないのだ。自らを犠牲に逃したつもりだろうが、この距離からならば幾らでも変更が利く。必然の動作として剣先を青年の側へ向け直し――。


「――」


 動きが止まる。変えられるはずだった黒紫の軌跡は、遂に最後までその軌道を変える事無く。


 剣が、立ちはだかる少女の肉体を貫いた。



 














「――」


 衝撃。予想していたのとは異なるその感触。生温かい何かが飛び散る。


 ――これは。


 俺の血じゃない――?


「……」


 抉じ開けた俺の眼に、映り込んだのは。


 純白。両手を広げ、何かを守るように立っているその姿。


 違和感。背中の中心から突き出された、黒の異物。周囲の白を食み進むのは、これまでに幾度となく目にした――。


「フィ、」


 血。それを意識した瞬間。


「フィアッッ‼」


 これまでに聞いたことの無い絶叫が、他ならぬ俺自身の鼓膜を揺らした。





















「フィアッッ‼」


 叫びが届いた瞬間、何が起きたのかを理解する。


 ――しまった。


 内心の舌打ちと共に、永久の魔は剣を引き抜く。溢れる血流。声も立てる事なく地に伏す少女――。


 神聖の魔力で肉体を強化していたとはいえ、背面まで貫いた刺し傷は紛れもない致命傷。即死でないのが救いと言えば救いだが、早目に措置を取っておくに越したことはない。


 その前に――。


「ウラァッッ‼」


 ――まずは小蠅の始末からか。


 少女が突き刺されたのとほぼ同時。弾かれたかの如く動いていた青年が、永久の魔へ向け拳撃を撃ち放つ。周囲の空間が歪むほど強大な重力を集中させた拳。側頭部を狙ったのは、仲間たちから脅威を遠ざける意図を以てのことか。


「……」


 音は鳴らない。振動も起こらない。放たれた全ての衝撃を邪気と肉体とが吸い込んだ証。快心の一技に対しても微動だにすることなく、露ほどの脅威も感じぬまま、塵を払うかの如くぞんざいに永久の魔は剣を走らせる。既に見切った速度から避け切れぬのに充分な膂力を引き出した。驚愕に動きが止まっていることからしても、回避は不可能。


「【時の加速・三倍速】‼」


 伝わる波動。魔術が作用した瞬間、青年の動きがそれまでとは段違いの速度を発揮する。迫る剣先を掻い潜り、稼いだ間合い――。


 ――面倒だな。


 浮かんだのはそんな感想。追えぬわけではないが、一々狩猟者の真似事をするのも煩わしい。手近な者から片付けて行くか。


「〝水よ――〟」


 再度の波動に連れて、永久の魔の周囲を霧が取り囲む。……認識阻害。加えて少女と青年の居場所を隠すよう、濃霧の様々な個所から気配を感じる。


「……」


 詰まらぬ足掻きだと思いつつ、永久の魔は掲げた剣を振り下ろす。負の情念の化身たる永久の魔は、自身の力の源たる情念の発生地――即ち人間の居場所をピンポイントで探知することができる。その気になれば半径数百キロの範囲を覆い尽くすそれは個人の識別こそ成し得ぬものの、幻惑や穏形などの攪乱一切を無意味と成す。


 二人の位置は先ほどから動いてはいない。永久の魔には理解できた。仲間が先と同じ補助を掛けているようだが、悲嘆に暮れるその身では逃げることすらままなるまい。このまま――。


「……」


 僅かな違和感が、振り下ろし掛けられていた剣先を止める。……感じていた負の情念。


 それが、あろうことかただの一瞬で消え失せたからだ。いや、正確には消えたのではなかった。十メートル近く場所を移動しただけ。だがただの魔術とは違う――。


「……」


 ついで仕掛けられたのは、聖気を感じる結界。自らの動きを僅かでも阻害しようという狙い。


「……ふん」


 纏う邪気を攀じるようにして結界を破砕する。ついでとばかりに視界を覆う鬱陶しい霧を攪拌。勢いを付けて消し飛ばす。


「『永久の魔』とは――」


 晴れた視界に映り込むのは、新たに現れていた硝子玉のような目をした女。


「つくづく大物に縁がありますね、全く忌々しい――‼」


 現状を正しく意識しているのか。焦りの感情が色濃く伝えられてくる。……その後ろ。


 一切の気配無く立つ影を永久の魔は認識する。……あれの仕業か。


 ――面倒だ。


 再度そのことを思う。ただの一掃。殺していいのであれば楽に片が付けられる。要するに、あの少女さえ手中にいれば良い話なのだ。


 永久の魔の意図を反映するように、立ち込める邪気の一角が蠢く――。













「――ッッ‼」


 崩れ落ちるその身体を抱き留める。余りに軽く、余りに力ない感触――。


「フィア、フィアッッ‼」

「――」


 返事はない。ただ、僅かに眉根と口元が動いた。――生きている。直ぐにでも治癒を――。


「――」


 しようとして腕が止まる。……『破滅舞う破滅者の円環』にできるのは、あくまでも俺自身が持つ既存の能力の強化だけ。ならば。


 今までに一度も習い覚えたことのない治癒は――。


「……さん」

「――フィア⁉」


 周囲で起こされる喧騒。それも耳に入らない。ただフィアが唇を動かした、そのことだけに必死で意識を集中する。


「無事……ですね。良かった……」


 口元が僅かに歪む。笑みを浮かべているのだと気付いた時には、フィアの表情は既に元の虚空を見つめるかのような面持ちに戻っていた。


「なんで……なんで」

「……黄泉示さんは、いつも私を助けてくれるじゃないですか」


 庇ったのか。繰り返す俺に、力なくフィアが呟く。


「だから今度は、私が……」


 ――影に呑まれる。暗転した一瞬後に広がるのは、位置を変えただけの同じ光景。フィアの身体は、相変わらず俺の腕中に納まっている。その身体から零れ出る鮮血が、俺の掌を濡らして。


「痛い……寒くて、怖い……です」


 握り締めた掌が震えている。徐々にその身体から、熱が失われていくようで――。


「でも、最期はちゃんと――」

「フィ――」

「蔭水ッッ‼」

「危ねえッ‼」


 二人の声。次いでその意味を理解する。


 凝縮された濃密な邪気。巨大な腕の形を成したそれが、俺たちに迫って来ていて――‼


「――させません」


 耳に声が届く。その一瞬。


 何が起こったのか、分からなかった。


「――」


 立ち上がったフィア。煌々と輝ける光を受けて、動きを止めた邪気が崩れ落ちる。


 伸ばそうとした手が止まる。緋の滲んだ背中に溢れる、決意……。


「――行って下さい」


 どこか不安になるほど強く、静かな声。


「ここは、私が食い止めますから」


 一歩一歩遠ざかる。その後ろ姿に、声を掛けることはできていない。


「――賢王さん」


 僅かに振り向き――。


「黄泉示さんを、頼みます」


 其処に来て初めて、フィアが何をしようとしているのかを理解した。


「させ――ッ‼」


 円環の力を稼働させ、跳び掛かろうとした瞬間。


「――⁉」


 首筋に走る軽い感触。……何だ? 意識が……。


「フィ……ア……ッ」

「――冥王」


 賢王の声。同時に先ほども感じた、身体が何かへ沈み込むような落下感を体験する。


 飲まれる寸前、閉ざされていく視界の中で、最後に捉えていたのは……。


 見通せない闇。それに相対する、眩い一人の背中だった。



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