第五節 フィアの特技 前編
――翌朝。
「急ごう」
「は、はい」
今日は最も早い一時間目から授業がある。そのために出なければならない時間は昨日より早い。朝飯と支度を早々に住ませて、昨日の疲れのせいか珍しく遅起きだったフィアと共に小走りで学園へと急ぐ。朝の清々しい空気を味わう余裕もなく――。
「――っ」
何とか間に合った。席に着き、筆記具を出すと同時に入って来た講師。乱れた息を整えるフィアをちらりと見てから、教室全体に目線を戻した。
「おはよう諸君。お互い朝早くからご苦労と言ったところだが、早速始めていこうか」
出席や自己紹介など一切なく講義に突入する。隣の様子を気にしながらも、手早く整えていた用意で説明に耳を傾ける。
「――だ。それと……」
ホワイトボードに淀みなく書き付けつつ話していた教師の手がそこで止まり、注目を待つように眼鏡を押し上げる。
「連絡が今になって済まないが、実は予定より取得人数が少なかったもので、試験形態の変更を予定している。シラバスには最終日に試験を行うとあったと思うが――」
……発表形式か。
内心辟易する。しかも次回からグループを決めてそのメンバーで固定的にやらされるようだ。内容がそこそこ面白そうなので取ったのだが、手間が増えるのはなるべく避けたい。……変更候補だなと、そんなことを思っておく。
「では、次回から本格的に始めることにする。履修変更者はなるべく早めに――」
初回だけあって授業自体は簡単な導入と解説だけで終わった。荷物を片付け思い思いに出て行く学生たち。出口側にいるフィアが片付け終わるのを待って、俺も出ようとした。
「――教授」
そのタイミングで響いてきた声。教壇に向けて発された落ち着きあるその声に、つい、意識を向けてしまう。
「次回から発表に向けて複数人のグループを作るとのお話でしたが、発表を一人でやらせては頂けませんか?」
「一人で?」
「はい」
会話の主同士に気にされないよう、何気ない様子で振り返り見る。授業時と変わらず教壇に立っている訝し気な顔の講師。
その正面に立つ、一人の学生がいた。背はそれほど高くない。茶色がかった後ろ髪は短めで、耳元から見えるのは明るい銀色をした眼鏡の蔓。
「……意気込みがあるのは良いが、この課題は複数人でやることを想定して設定している。それにこの授業では、発表における学生同士の協力ということも――」
「必要ありません」
冷静に。一つ間違えればただ冷たくも聞こえるような言葉が、講師の発言を遮った。
「一人でできるので。僕は」
「……ほう」
――マジか。
面と向かってその行為と内容とを言ってのける度胸に舌を巻く。一気に緊張が漂うような教壇の空気。流石の講師もその物言いには、多少なり気分を害しているようだが……。
「それに――」
重ねて何か言う学生の台詞が小声になる。恐らくはその思惑通り、この距離では上手いこと耳に入っては来ない。
「……なるほど」
無音にも等しい何秒かのあとで、講師が頷いたのが目に入った。
「まあいいだろう。但し、自分から言い出したからには此方も手心は加えない。評価は甘くしないから、そのつもりでな」
「勿論です。ありがとうございます」
会話が終わる。軽く会釈して席へと戻っていく学生。荷物を片付け、間も無くこちらへ向かって来るだろう所作を予想して。
「行こう」
「はい」
何も言わず静かに待っていてくれたフィアと共に。教室の外へ出た。
「……凄い奴がいるな」
廊下。教室から離れるよう足を進めながら、思わず呟く。
「一人で全部やるっていうのは、凄い自信ですよね」
「ああ」
頷く。多少の自信家なら正直鼻に付いたと思うが、あそこまでだと却っていっそ清々しい。講師の発言を正面から遮るなど、多少の自信程度ではできないことだろう。少なくとも俺には無理だ。よっぽどの自信がなければあんなことは――。
「そうだ。さっきの授業」
思い出す。……グループ発表がネックだと言うのは、少し言い辛い。
「……あまり興味が持てなかったから、他のに変えようかと思ってるんだが、どうだった?」
「あ、そうなんですか?」
「ああ」
そうでなくとも講師が授業中説明していた内容は中々に大変そうだった。あれを一人でやると言い出すあの学生には頭が下がるが、俺としては単純に面倒な内容は避けたい。自信も熱意もない以上、ある程度無難な他の科目に変更したいというのが正直なところだ。
「黄泉示さんがそうしたいなら、私は大丈夫です」
「……分かった」
――多分、此方を気遣って言っているわけではないだろう。
答えるフィアの表情をよく見て思う。四人以上のグループでの発表となれば、必然的に俺とフィアとあと二人、初対面の人間を引き込まなければならないことになる。こまめに連絡も取り合わなくてはならないだろうし、学園外で会って話をする必要なども出て来るはず。そういった諸々の事情を考えると、フィアからしても好ましくはないはずだ。……多分。
「次は確か、空き時間だったか」
「そうですね」
思い浮かべるのは時間割。興味優先で授業を選んでいった結果、次の一コマが丸々空白になってしまっているのだ。隙間のないよう計画的に選ぶという手もあったが……。
「図書館でも行けばいいかと思ってたんだが、大丈夫か?」
「あ、はい。大丈夫です。中はまだ見てませんし……」
それよりはひとまず興味の湧きそうなものを選んで、そこから変えていけばいいと思っていた。内容より時間割の方を優先していては本末転倒。フィアの返答にそうか、と言って足を向ける。図書館の建物は他の授業棟から独立しているため、一旦外に出て、整備された中庭を歩き、目的の建物へ。
「相変わらず、大きいですね……」
「そうだな」
見上げると首が痛くなりそうな巨大な建物。見学のときから一度、中を見ておきたいとは思っていた。広々とした階段を上がり、自動扉から中へ。ホールの奥にカウンターがあるので、そこで学生証を提示して本棚のあるエリアへ入る。
「……」
――凄いな。
入って直ぐ軽く見渡しただけでも、一面、本ばかりの空間が広がっているのが分かる。中高のときも調べ物などで図書館へ行くことはあったが、流石にこれは少しわけが違う。蔵書の量が桁違いだ。
「広いですね……」
見たままの感想を述べるフィア。静かな雰囲気のせいか、自然と話すのも小声になる。正面にある見取り図を見れば開放されているのは地下二階から七階まで。ジャンルや系統、想定される利用者の違いごとにフロアを分けてあるようだ。
「上から見てくか?」
「そうですね」
今日は特に読みたい本があって来たわけではない。中がどんな風になっているのかを一通り把握する為には、順番に見て行った方が良いだろう。そう思ってエレベーターへと向かった矢先に――。
「――」
「――っ⁉」
棚の影から足早に出てきた人影。ぶつかりそうになったのを、辛うじて寸前で回避する。驚きから止められた足。
「……」
思わず至近で見つめ合う形になる。――綺麗に纏められた髪。衣服は飾り気のない質素なものだが、一目で美人だと分かる。一点だけ違和感を覚えるのはその視線。
ケダモノを見るようなキツイ視線が自分に向けられていることを遅れて理解する。……なんだ?
「……ふん」
そう思った瞬間、女性は顔を反らして歩いて行ってしまう。服の上からでも分かる胸の大きさ、一瞬だけ目に留まるのは白い手に掴まれた本の表題。『神学大全』……神学の本か?
「……」
顔を動かして見てみれば、女性が出てきた向こうの側にはそっち系統の本棚があるようだ。宗教に興味があるのか。あんなにキツイ目つきをしてるのに、少し意外だ……。
「黄泉示さん?」
「ああ、悪い」
俺の方を気にしているフィア。いつまでも立ち止まってはいられないと、前を向いた。




