第一節 出会い 前編
――中にある店で遅めの昼食を済ませたあと、空港を出る。
初めて口にした国外での料理。味付けには慣れないところも多く正直雑然とした印象を受けたが、外国でものを食べたのは初めてだったのでこれは仕方のないことだろう。その辺りは回数を重ねることで慣れていくものだと割り切ることにする。
少しもたれ気味な感触を胃の周辺に感じながら地図を広げる。現在地がここで、目的地の住所がこの辺りだから……。
地図を見てみると、俺が目指す新居までは大体三通りの行き方があるようだった。
一つは開けた大通り……とまではいかないが、それなりに広く、服屋や雑貨屋などが並んだ通りを歩いて行くルート。飲食店や喫茶店のような店もあって人通りも多そうだ。……余り賑やかなのは好きじゃないが、その分迷ったりすることはないだろう。
二つ目は割と大き目の森を突っ切って行く道筋。目的地と空港の間にある森を一直線に突っ切るせいか、地図を見た限りではこのルートが迂回も少なく最も短いルートのように見える。……ただ、この地図からは道が整備されているのかどうかよく分からない。公園といった感じでもないようだ。
……最後のルートは、密集した住宅街を縫うようにして進んでいく道。このルートはところどころ細い路地裏のような場所を通ることになっている。……この国の治安は比較的良いはずだが、質の悪い連中に出くわさないとも限らない。一応二番目に短いルートではあるみたいだが、無難にいくならこの道は避けた方がいいだろうか。
さて、どうしたものか……。
地図を見つめながら考える。大通りを行くルートは道が比較的単純で分かりやすい。色んなタイプの店が並んでいるみたいだから、こっちの店がどんなふうになっているのかを知るいい機会にもなる。
一番早く目的地に着けるのは二番目の道だろうが、森は実際に見てみないと通れるかどうか分からない。もし通れなかったら二度手間になるし、そうなったら逆に時間が掛かってしまう。路地を通って行くルートも距離は短いみたいだが、少々複雑で分かり辛いところがある。地図もあるし迷うことはないと思うが、不慣れな土地で万一があると困るな……。
……よし。
少し迷ったが、結局最初のルートを行くことに決めた。
まだこの国には来たばかりだし、やはりここは一番確実な道を選んでおくべきだろう。……例えそれで、苦手な人ごみを通ることになったとしても。
どの道にするかさえ決めてしまえば迷うことはない。距離はそれなりにあるみたいだが、昼飯の後の腹ごなしだと思えば丁度いい運動にはなる。俺は地図を片手に、少し高揚した気分で新天地の下を颯爽と歩き始めた――。
………
……
…
――長い。
かれこれ一時間近くはこうして歩いている。だというのに、一向に目印の店が見えてこない。最初の方こそ初めて見る外国の通りや並んでいる店の珍しい雰囲気に心躍ったが、こうも似たような景色が続くとそれも流石に飽きてきた。……今はただ淡々と足を前に動かしているだけになっている。
『ギムレット』とかいう服屋が左手に見えれば、その角を曲がってもうすぐのはずなんだが……。
目をこらして見ても、そんな名前の書かれた看板はどこにも見当たらない。
――まだ歩かなきゃならないってことか……。
体力はあるほうだし、それに関してはなにも問題ない。ただ、体力的には平気でも精神的にはだいぶ疲れたような気がするというのが実情だ。張っていた気を緩めて、ぼんやりと周りの景色を眺めながら石造りの道を歩いて行く。
「……」
地図で見たときには分からなかったが、どうやらこの通りは観光客にも人気があるような場所らしい。さっきから明らかに旅行客だと分かる服装の人間や、スーツケースを引いて歩く少人数のグループなんかをちょくちょく見かけている。
「うわっ、おい見ろよこれ! 俺初めて見たよ!」
「へぇ~。本当にこうなってるんだ。写真で知ってはいたけど、実際に見てみるとやっぱり違うな~」
何か目を惹くものでもあったのか。はしゃぐ彼らの声が通り過ぎる俺の耳に飛び込んでくる。……暢気なものだ。同じ場所に来ていながらそれとは思えないほど隔たった、彼我の温度差に溜め息を吐きかけ――。
「……」
――いや。
考えてみれば、彼らも俺も大した違いは無いのかもしれない。
俺も彼らも何かを求めて此処に来ている。彼らはきっと目新しさや楽しみを。そして俺は――。
「……!」
不意に。
視界の先に映り込んだ、一つの看板に意識が集中する。茶色の地に金文字の取り合わせはオーソドックスながらもある種の上品さを漂わせているが、肝心な点はそれとは別。
――間違いない。
地図と照らし合わせてみて確信する。ここからはまだ距離がある。だが看板に書かれているのは紛れも無く、『ギムレット』の名前……‼
「漸くか……」
目当ての看板を見つけたことで沈んでいた気分が少し高揚する。予想していたよりもだいぶ歩かされることになったが、あの角を曲がれば目的地まではもう近いはずだ。
そう思い遠くに見える看板に向かって足早に歩いて行く。もうすぐ荷物を置いて一息つける――。
そう思うと重かった足取りも自然と軽くなるようで、溜まっているはずの疲れも全く気にならなくなっていく。……我ながら単純な反応だとは思うが、人間なにかとそんな風な適当さがあった方が丁度良いのかもしれない。
そんなことを片手間に考えながら、俺は目当ての角を右に曲がった――。
「……う……っ!」
胸の奥にズキリとした痛みを感じ、歩みを止める。
――胸が、苦しい。
ここに来る最中を含め、今に至るまでずっと、私を苛んできた苦痛。この場所に来てからも胸の奥底に響く鈍痛はますます酷くなり、私の視界を歪ませている。
――ずっと?
自分で思ったはずのその言葉に、なぜか説明のできない違和感を覚える。
私――私は、いつから――?
頭に浮かんでくる問いに答えようとしたが、波打つようにぶり返してきた胸の痛みが私を思考から引き剥がし、またあの痛みの中へと連れ戻されてしまう。
――苦しい――!
胸の奥が、痛い――‼
息を吸い込む度により強い痛みが私の中を暴れ回る。その余りの苦痛に一瞬呼吸ができなくなり、苦しさに耐えられなくなった私は思わず喘ぐようにして必死に空気を求めた。
――苦しい。
――苦しい――!
――どうして――?
――私は――。
「……?」
新居到着を目前にして順調に『ギムレット』の角を曲がった俺だったが……――その先で予想もしていなかった光景が目に飛び込んできたことで、思わず足を止めてしまう。
――周囲を人が歩いている。
……それは別にいい。この先にはもう住宅地しかないせいかさっきより歩いている人の数は疎らになっているが、それ自体は極々当たり前の光景であることには違いない。
――俺から見て左側、少し離れた位置。きれいに掃除された道の脇に、人が一人倒れている。
……百歩譲ってというところだが、これもそこまでおかしなことでもないだろう。病気か、事故か、はたまたそれ以外の何かなのか……道端に人が倒れているのは確かに頻繁に起こり得ることじゃないが、それでも充分に有り得はすることに違いない。
――しかし――。
不信に思いながら倒れている人影に目を凝らす。……白い……清楚な感じの服装に、流れるようにして地面に広がっている長い髪。
顔を反対側に向けて倒れているために表情までは読み取れないが、小柄な体つきや履いている靴からしても倒れているのは恐らく女性だろう。……いや。
女の子、と言った方がよかったかもしれない。そう表現するのが相応しいと思えるほどに、俺の目に映ったその人物の体は小柄だった。……今の時刻は午後七時過ぎだ。
人通りは少ないとはいえ、倒れている人物の服は街灯や店の明かりを照り返すような真白色。例え通行人に一切の関わる気がなかったとしても、このさほど広くない通りを歩いていれば自然と目を惹いてしまう。それぐらいに目立っている。実際俺もこの通りに入ってすぐに、少女が倒れているのに気が付いたのだ。
――なのに――
「……」
――倒れている女の子がそこまで目立っているにも拘わらず、先ほどから通りを行き交う人々は誰一人として彼女に視線を向けていない。じろじろと奇異の目で見るような人間がいないのは良いことかもしれなかったが。
ほんの少し、気になってちらりと見るような人でさえ、一人もいはしないのだ。……見て見ぬ振りをしているにしても、どこかおかしい。
そもそも通り縋る人全員が見ない振りをするなんてことがあるだろうか? 少女に目を落とす人間が数人くらいいてもいいはずだ。――普通なら。
どう考えてもおかしいことだが、誰も女の子に気付いていない……もしくは見えていないのではないか。そんな考えさえ浮かんで――。
……?
いや。
どうやら、それだけじゃないらしい。
そのことに気付く。先ほどから見ていても、通行人の中で彼女に気付いたような素振りを見せる人がいないのは確かだ。
行き交う人々は皆目線も歩調も変えないまま、自分が通っている道には何事も起きていないかのようなごく普通の様子で歩いている。倒れている少女の存在が、まるで幻だと思えてしまうくらいにはそうだというのに。
――誰一人として少女にぶつかる人間がいない。
どころか、全員が倒れている彼女を避けるようにして少し離れた位置を通り過ぎていく。見えているような態度も、気付いているような素振りも何一つ見せないまま、まるで無意識にそこに何かがあることを了解しているかのように、だ。
それは明らかに異常……異常を通り越して、怪奇とすら呼べるような光景だった。……目の前の光景を直ぐには受け入れられずにいた俺。何回か辺りを見回し、この光景が紛れもない現実であることを重ねて認識して漸く、自分の置かれている状況が理解できてくる。
……どうする?
自問する。この普通でない光景を、放っておくか、おかないか。
俺が此処に来るまでの間。仮に通行人の誰もが少女に気付かず通り過ぎて行ったのであれば、少女はあの状態でずっと放置されていたことになる。こっちの気温は日本より低く、今は日も完全に落ちた夜。コートを羽織っている俺でさえ吹き付ける風の冷たさを感じるほどだ。……倒れているあの少女は、上着も着ていない。
――歩いて行ってしまえばいい。
俺は今日こっちに着いたばかりだ。新しい生活のためにやらなければならないこともあるし、このどう考えても普通じゃない状況に首を突っ込んで、厄介事が起きたなら面倒だ。……見て見ぬ振りをして、他の誰かがやってくれるさと、そんな風に思えればそれは楽なことなのだろう。
――どうでもいいじゃないか。
そうも考えてみる。知人ならいざ知らず、見ず知らずの他人だろう? どうなろうが別に知ったことじゃない――。
……いや。
自分に対する誤魔化しを止める。……そんな風に言い訳を重ねてみたところで、意味はない。
「……」
呪うのはこんな状況に出会ってしまった自身の不幸の方だ。……取り敢えず近付いて、様子を見てみるか。
「……っと」
――少女に向けて少し歩みを進めたところで、とある問題に気付かされる。既に分かっているように、倒れている少女の存在は通行人から認識されていない。
つまり無意識的に避けているとはいえ、通行人には恐らくあの場所には何もないように見えているはずだ。そんな場所に近付いて地面を見つめている俺は、傍から見てどう映るのだろうか?
……。
――気が重い。だがいつまでもこうしていても始まらない。……変わった人、くらいで済むといいが……。
周囲をなるべく気にしないようにして倒れている少女に近付いて行く。不意に通りを横切り始めた俺に向けて、何人かから怪訝そうな視線を感じる。気付いていない体を装って、ただひたすら足を前へ――。




