第四節 登校初日 授業を終えて
「えー。私の授業では、一年を通じて世界史を地域ごとに取り扱うものであり、そもそも世界史とはどういうことかと説明するならば――」
……。
「シラバスにも書いた通り、この授業は著名な文学をこの機に読んでみようという意気込み、若しくはそうした興味を持つ学生のためのものです。学期中の授業を三つに分け、始めの部分では――」
……。
「――終わったな」
午後から今に至るまで二つ。朝から合計で四つの授業全てを受け終わり――。
俺たちは出た正門から帰路に着いていく。学生ごとに帰る時間はバラバラのせいか、そこまで道が混んでいるということもない。特徴的な門を潜り抜けてしまえば、自然と町中の風景に紛れていく。
「そうですね……」
横目に返事を受ける。フィアと俺は今日、朝から全て同じ授業を受けているのだ。
〝黄泉示さん。その……〟
説明会に続く学園見学のあと。科目選択の参考に俺の選んだ科目群を見せたところ、フィアから尋ねられたのは、時間割を俺と全く同じものにしても良いか、ということだった。
〝良いのか?〟
ここ数日一緒にいて分かったことだが、フィアは一緒にいて息が詰まるというタイプではない。
最初の頃はお互い緊張があったものの、最近はお互いに少し慣れてきたお蔭か、以前ほど緊張したり沈黙が続いたりということはなくなってきていた。それを踏まえてみれば、俺としては別に同じ授業を取ることに問題はない。
寧ろフィアの方が詰まらないのではないかと思って訊き返したのだが、フィアの方は逆に、記憶喪失ということもあってか、どの科目も目新しく映るし、更に見知らぬ教室に一人で放り込まれることの方が問題なのだと言う。目の前で不安らしい態度を見せられて、そこまで言われてしまえば、俺もそれ以上は強く言えず――。
結局全て同じ科目を取ってみることになったのだ。携帯を持っていないフィアは今日のクラスで担当の講師に科目選択用の用紙を提出し、それは問題なく受理された。
「……どうだった?」
訊く。気になっていたことを。
「授業は」
「面白かったです。歴史とか文学とか、初めて聞く話が多くて。数学はちょっと難しかったですけど……」
答える声には少し張りがない。今日が初めての授業日。しかも一週間の中で最も授業数の多い曜日であることを考えれば疲れるのはある種当然。寧ろ今日をどうにか乗り越えられたのなら、明日以降も大丈夫かと思うところだが。
「……」
今のフィアの様子を見ていると、そこまで楽観的なことは思えなかった。予備知識を必要とすると宣言されている授業で、それがないというのは大きな問題だ。課題も結構しっかり出る授業である分、その負担は明日以降も圧し掛かってくるだろう。
「まあ、今ならまだ変えられるしな」
とはいえ一応、今はまだ言ってみればお試し期間だ。時間割の変更は幾らでも利くし、無理だと思えば変えることはできる。
「他のにしてみても良いかもしれない。結構、授業によって内容に差がありそうだし」
説明会でも聞かされていたことだが、実際に授業を受けてみる段になって実感する。講師の熱意などによって、レベルは明らかに違っている。クラスのような緩くて気楽な授業もあれば、数学のように割ときっちり向こうから詰めてくるようなものもあるのだ。
「……そうですね」
俺の言葉に頷きはしつつも、考えているような素振り。変えないだろうな、と思う。
一人では不安だと言っていたから俺と同じ科目を取ったのだし、例えば俺も一緒に科目を変更したとしても、変更先の授業がどうなのかはまた別の話。事態が好転するのかは分からず、悪ければ手間だけが掛かることになる。こういうとき……。
学内に知り合いがいないのは痛いことだ。同学年でも上の学年でも、知り合いがいたならば授業の様子などを聞くことができるのに。初めの週だけ頑張って色々な科目に出てみる手もあるが、フィアのこの様子だとそこまで体力が持ちそうにない。俺としても正直そのためだけに朝から晩まで授業に出ることは嫌だった。
……それか。
「……」
幸いと言うべきなのか。
午後に受けた二つの授業では、二限目の数学のような事態は起きなかった。どちらも予備知識を必要としない授業だったこともあり、当人の言うようにフィアは寧ろ興味を持って授業を受けられているようだったと思う。他には課題らしい課題もなく、この日、今のところネックになっているのは数学だけだ。
――なら。
「途中、どっか寄っていくか」
明日の朝飯を買っておかないといけない。夕飯はどうせ外食なのでそのあとでも良いが、時間に余裕のある内に行っておいた方が良いだろう。内心でとある決心を固めて、俺はフィアと一緒にスーパーへ向かった。
「――ただいま」
「ただ今戻りました」
帰宅して、ひとまず。
「……ふぅ」
買い物袋や鞄を置く。買ってきた夕飯は冷蔵庫へ。あとで温め直して食べよう。
「ええと……」
対象的にフィアが出していくのは、今日学園で使ったノート。ダイニングのテーブルに乗せようとして。
「……済みません。夕飯まで、此処を使わせてもらっても大丈夫ですか?」
「ああ。別にそれは」
問題ない。元々人が入る予定のなかったフィアの部屋にはこれまでに買ってきた服や小物、始めから備え付けてある簡素な物入れとベッドがあるだけ。俺の部屋と違って机がないので、ここを使うことはある意味仕方のないことなのだが。
「今やるつもりか?」
「はい。聞いたことを覚えている内に、復習した方が良いと思って……」
今日書いた部分と思しきページを広げる。記憶喪失だという自覚があるからなのか、元からなのか、全く真面目だ。
だがそれでもどうにもならない部分はある。
「……」
じっと見つめている視線が、動かない。数学はかなり抽象的な学問だし、そこで使う公式や定理、記号は普段の生活では殆んど使うことはない。前提となる知識がなければどうしようもないものなのだ。余程の天才でもない限り。その、予想を裏切らない姿に――。
「――」
「えっ?」
意を決して。俺は、隣に座った。
「よ、黄泉示さん?」
――数学で苦労する羽目になったのは、フィア自身のせいでもある。
反応を無視して見る。俺と違ってフィアは丁寧過ぎるほど綺麗にノートを取っている。板書の内容のみならず、授業中に講師が言っていた内容も写しているくらい。分からなかったと思しき箇所には?マークが付けられており、他人である俺が見ても分かり易い。これなら――。
「ここのどこが分からないんだ?」
「あ、ええと……ですね」
――俺と同じ授業を受けることを選んだのはフィア本人。俺も気付かなかったが、それよりまずフィア自身が気付くべきだった。
言われた内容に関連する知識を想起する。授業の入り口となる基本的な部分だ。確かにここをどうにかしなければ始まらない。この部分を理解するには。
「授業だと言ってなかったが、まず、この話の前にこういう定理があるんだ」
――だから受ける授業に着いていけるかどうかはあくまで彼女自身の問題なのだと、そう言ってのけることは充分に可能だ。自分のノートから紙を破き……フィアのノートの横に並べる形で、式を書いていく。……ただ。
「この式を変形すると、こうなる。だから――」
「あ――」
気付いたようなフィアの反応。それを見て話を先に進める。
「次にこれは、今出てきた不等式を使って」
「……こうなるってことですか?」
皆まで俺が言うより前に。フィアが、自身のノートに式を書いた。
「そうだ」
――今のフィアに。……記憶を失い、己の物語を一切失ってしまった彼女に、それをどうこうしろと言うのも無茶な気はする。
だから――。
「――次は」
「……」
「……?」
進もうとした最中。フィアが、俺の方を見つめていることに気付く。
「……どうした?」
「……す」
これまでで何か分からない部分でもあったのだろうか。自分では分かっている部分なので、少しざっくりと喋り過ぎたかもしれない。既に説明した箇所を頭の中でもう一度思い返しつつ――。
「凄いです、黄泉示さん……」
「え?」
思わぬ台詞に。組み立てていた考えを押し退けて、疑問が出た。
「私がどこが分かってどこが分からないのか、全部分かってるみたいで」
「……そうか?」
「はい」
真剣な表情。その裏表のない感想が、少し胸に堪え――。
「まあ、一応勉強はしてたからな」
否定するのも気が咎めるような気がして。曖昧な返事を返しておく。……違う。
顔に出ないよう、密かに内心で否定する。別に凄くなどない。俺もかつて、さっぱり算数が分からなかった頃があった。
中学に上がる前は殆んど勉強などしていなかったから、当時いきなり入った学校では相当に苦労させられた。……努力したこともあってどうにかあとの方には漸く人並み程度にはなっていたが。
今回の数学も、シラバスに書かれていた内容がある程度自分の得意分野であって、単位が確実に取れそうだから取ったのだ。
それだけだ。昔の苦労のせいで何となくではあるが、初めて勉強する人間にとってどこが分かり辛いのかはある程度分かるような気がしている。フィアが言っているのは、恐らくはそのことだろう。
「――続きをやろう。今日中に終わらせた方が良いだろ?」
「あっ、そ、そうですね」
気を取り直したフィアと共に――二人してまたノートへと向かう。
「……ここはどうなるんですか?」
「ああ。それは――」
――夕飯後。
「……」
「……」
テーブルの上に広げられた二つのノート。先と変わらない指導風景の中、……変えられているのは先ほどよりも針を進めた時計と、フィアの服装。横から伝わってくる仄かな暖気に、隣にいるパジャマ姿のフィアを意識しつつ。
〝続きは夕飯のあとにしよう〟
復習と指導に集中する最中、気付けば少し遅い時刻になっていたことから一度中断しようと口にした台詞。今日の分の範囲はまだ終わっていないが、このままのペースなら就寝前には充分に終わらせられる。
〝分かりました〟
そう見込んでの意見にフィアも二つ返事で了承してくれて、俺たちは外に出た。家の近くはそろそろ通い慣れて来たので、いつものように簡単に店を決め、代わり映えのしないメニューに手早く注文を済ませた。食事も滞りなく終わり、問題が起こったのは会計の段。
〝あっ――〟
食べ終わりの食器を片づけようとしていた店員。その肘が誤ってコップを倒し、フィアの服を濡らしてしまったのだ。幸い入っていたのは水だったので火傷などはなく、面倒な汚れも付くことはなかったのだが。
〝――クシュンッ!〟
店に入ったときから時刻は夜。季節柄の急激な冷え込みを受ければ震えるような寒気が走る時期だ。平謝りの店員の謝罪を受けつつ、家が近いためにタオルで簡単に拭いてから帰ったが、それでも家に着いたフィアは寒そうにしていた。流石にそのまま復習というわけにもいかないので、一旦風呂に入ってからという話になったのだ。
――それが不味かった。
入浴を先に復習をあとに回すのがどういう事態を招くのか、よく考えていなかった。いや、考えたところでどの道それ以外の選択肢などなかったし、仕方がないのだろうが。
「……つまり、ここがこうで、こうなるわけだ」
正直なところ、かなり気を散らされてしまう。自分のものとは全く違うシャンプーの香り。女性用のものを使っているからというだけかもしれないが……授業中と大して変わらない距離のはずなのに、その他の状況が変わるだけでこうも違うものなのかと思い。
「は、はい。これがこうで、こうですね……?」
一方でフィアの方も幾らか恥ずかしいらしい。ペンを握る指の動きは先ほどよりもどこかぎこちなく、しかしやはり真面目に俺の解説と、ノートとを見比べている――。
「――」
その横顔に一瞬、意識を奪われそうになった自分を叱責する。……しっかりしろ。
フィアは俺を信頼して任せてくれている。自分から始めた以上はそれに応えなければと、気合いを入れ直す意味で一つ深呼吸をした。
「それで……黄泉示さん?」
「――いや、大丈夫だ」
意気を新たに続けていく指導。……やはりフィアは飲み込みが良い。単に知識がないだけで、教わったことに対しての反応は機敏だ。これならば。
「――」
「――」
そのあとは特別動揺することもなく、万事順調とは言えないまでも、時間が経つごとに着実に残されたノートの頁は減って行き……。
「……どうだ?」
「……はい」
最後の確認。今し方教えた箇所を目で追い、ノート全体を捲って見たフィアが頷く。
「大丈夫です。黄泉示さんのお蔭で、かなり分かるようになりました」
「……」
達成感と集中が切れたのとで思わず吐いた息。ノートを閉じたフィアは、座ったまま俺の方へ向き直ると。
「ありがとうございます。黄泉示さん」
「いや……」
俺だけの力ではない。フィアは呑み込みが早かった。なんとか今日中に終わらせられたのは、そのせいもある。不意に……。
「ふわ……」
欠伸。つい漏れ出たといった吐息をフィアは噛み殺すように慌てて隠して。
「す、すみません」
「いや、別に」
気にはしない。今日が初めての授業日。この時間まで復習もしていたし、疲れたはずだ。どうにか欠伸は取り止めたものの、どこか瞼が重そうな眼をしているフィアに。
「……寝た方が良いんじゃないか? 授業は明日もある」
「そうですね。今日はもう、寝ることにします」
ノートと筆記具を片付けて。脇に抱え、席を立ったフィアが今一度俺を向いた。
「ありがとうございました――お休みなさい、黄泉示さん」
「ああ、お休み」
扉から出て行く背中。廊下に出たフィアの姿が、自分の部屋に戻るのを確認してから。
「ふう……」
机に肘を置き。額に拳を当てるようにして吐いた息。……このところどこか、少しおかしい。
一人ではなく二人の生活に慣れてきたせいか。フィアのどこか柔らかな雰囲気に当てられているのか、こんな面が自分にあったのかとつくづく思わされる気分だ。浮かれているような心持がして、少し覚束ない……。
「……入って寝るか」
覚えた眠気にそう呟く。――明日も早い。フィアにも言ったように、早く寝るに越したことはないだろう。




