第二節 リハビリ
「はい。どうぞ、黄泉示さん」
「……」
――何だこれは。
口元に差し出されるスプーン。対峙するフィアはじっと俺の顔を見つめている。……いまだ理解のよく追い付いていない現実に、此処に至るまでの記憶を思い起こした。
先ほど担当の治癒師から受けた説明――手早い応急措置と治療練に運ばれてからの入念な治癒により、俺の負った損傷自体は既に概ね回復している。しかし短時間の間で余りに急激な傷を負い、治癒を行ったせいで、筋肉に強張りが残ってしまった。
俺が感じた痛みは組織が傷付いていることによるものではなく、傷付き回復されたばかりの筋肉がまだ動きに馴染んでいないことが原因。そこで機能回復の為の運動、リハビリを行い、少しでも早く身体の機能を元の水準へと戻す――という話だったのだが……。
「……もしかして、食欲がないんですか?」
「いや……」
俺の前に置かれた食事。そしてなぜか俺の隣に座っているフィア。ともすれば体の触れ合ってしまいそうな距離。いや、直接的な原因は明白なのだが。
〝――私にやらせていただけませんか?〟
治癒師から説明を受けたあと。
聞き終えたフィアは即座にそう言った。寝ている間にある程度顔見知りになっていたらしい治癒師は快く承諾し、了承を求められた俺も頷いてしまった。……雰囲気に圧されて。
本来はこうしたリハビリも当然治癒師の仕事。だがリハビリと言っても要はある程度身体の動きを思い出させれば良いだけなので、今回はそこまで技術が要るものではないとの解説を受けた。素人であるフィアがやること自体に問題は無いという、そのことは俺も分かっている。
ただ――。
「流石に食事は自分で食べられると思うんだが……」
「でも、まずはなるべくしっかり栄養を補給することって、治癒師さんも仰ってましたし」
「……」
確かにそうは言っていた。治癒を受けた後、丸一日近く眠りこけていたのだ。起きて直ぐは身体の痛みや疲労感、リゲルたちへの応対で気付かなかったが、こうして綺麗に盛られた食事を見ると強く空腹を意識させられる。
しかしだからって、これはないと思うのだ。
「いや、これくらい――」
言ってスプーンを持とうとして、腕肩に走る鈍痛に眉を顰める。持てることは持てる。ただ、そこから先が……。
「……やっぱり、辛そうです」
その表情をばっちり見られてしまっていたのか。
取り繕う間もないまま伸ばされるフィアの腕。お粥を掬い、俺の口元に運ばれるスプーン。
「はい。どうぞ」
「……」
フィアはにこにこしている。にこにこしたままスプーンを差し出している。……いうまでもなくこれは、そういうことだろう。たっぷり五秒間……。
「……」
躊躇ってから。意を決してかぶりついた。……。
――美味い。
具は何も入ってはいない。僅かに塩と出汁が効いていることが分かるくらいの薄味だが、それが却って弱った身体には良い感じだ。しつこい味付けでないせいもあってか、一口を飲み込むともっと次が食べたくなってくる。そんな俺の気持ちを汲んでいるように。
「どうぞ」
「……」
差し出されたスプーン。二度目の躊躇いは一度目より短く、その銀色の食器を口に入れる。……人間なんでも慣れだ。治癒室なら人目もない。一度目は顔から火が出るんじゃないかと思うくらい恥ずかしかったが、二回目ともなれば早くももう慣れて――。
「……」
口を動かして栄養を取り込んでいる最中。ふと、目の前の彼女の変化に気付いた。
「……フィア?」
「……やっぱりちょっと、恥ずかしいですね」
桜色に染まっている頬。照れ隠しのように笑った気恥ずかし気な表情が俺の感情を刺激する。……これは。
「……っ」
「……どうぞ」
かなり堪える。一度目二度目よりも慎ましく差し出された三度目は、自分でも顔が赤くなるのが分かるほどに応えるのが難しかった。
――その後食休みも兼ねて、二時間ほどの休憩を取り――。
「はい黄泉示さん。こっちですよ」
「……」
右腕で手すりに掴まりながら、俺は治療棟の廊下をゆっくりと歩いていく。手すりのない左側を支えてくれているのはフィア。俺の腕を取り、肩の下から手を通すようにして動きを補助してくれている。
「無理はしないで下さい。ゆっくりで大丈夫ですから」
「……ああ」
確かに痛みや、身体全体が重い感触はする。だが先にしっかり食事をとったせいか、起きた直後のようなまるで動けないという限界感はない。フィアの言う様に、ゆっくりなら充分に歩ける――。
「……っ!」
「ッ、大丈夫ですか⁉」
一瞬膝の力が抜けた――ところを、辛うじて踏み止まる。……危なかった。フィアが身体を支えてくれていなければ、踏ん張りが利かずに転倒していたかもしれない。
「無理は禁物ですから。ゆっくり、ゆっくり行きましょう」
「……そうだな」
不意打ち気味な動作だったためか、今の一瞬でもどっと疲れが出た気がする。これはまだとても、一人で歩くというわけにはいかない。リハビリが必要なわけだと、妙なところで一人納得した。
「……」
身体の触れ合い。いつもなら意識してしまうようなそれも、今の状況では余り気にはならない。……自分が支えられていることを実感するからかもしれない。半身に感じる体温と柔らかさが、今はとにかく頼もしく感じられて。
「そこ、段差があります」
「ああ」
順調に進んで行く。暫く続く無事な時間。次第に掴んできた調子に、いつの間にか気が緩んだのか。
「――っ」
一瞬。段を踏み外しそうになった脚に身体が強張る。手すりを強く掴む動作。衝撃にぶれた身体に、位置がずれ――。
「きゃ――」
ビクリとフィアの全身が跳ねた。預けているだけにその反応を敏感に感じ取ってしまう。……なんだ? 随分と、可愛らしい反応だったが……。
「……そ、その……」
少し慌てたように俺を見る……フィアの胸元。大きくはないが小さくもない。言わずと知れたそのふくらみに、俺の手の甲が――。
「わ、悪い!」
「あ、離れると――!」
咄嗟の動作にまたバランスを崩しそうになったところをフィアが支えに入る。慣れないやら動きづらいやらで二人してわたわたしている最中に。
「……何やってんの?」
呆れたような声が響き、慌ててそちら側を向いた動作を被らせた俺とフィア。
「――立慧さん」
「何よ、お化けでも見たみたいな顔して」
「よう、お二人さん」
「田中さん」
僅かに見開いた視線の先に。……田中さんに身体を支えられた、立慧さんの姿があった。
「っ――」
「お二人もリハビリですか?」
――大丈夫なんですか?
「おうよ。立慧を支えんのに、上守じゃちいとばかし頼りなくてよ」
咄嗟に言いそうになった台詞をフィアの声掛けを切っ掛けに飲み込む。……確かに先輩だと、少しアンバランスかもしれない。身長が足りずに苦労している先輩を想像。浮かんだ光景は可愛らしいが。
「その点は術を使えばいい話なんだけど……あの娘はただでさえ毎日見舞いに来てくれてるし、真面目だしね。あんたみたいに適当な方が気が楽でいいわ」
「そりゃ良かったな」
「ええ、ほんと」
手慣れた会話を交わし、そこで、声を上げられずにいた俺の視線に気付いたのか。
「何も心配することはないわよ。――腕だって元に戻った訳だし」
立慧さんが示して見せる腕。あらぬ方向に曲げられていたはずの左腕は固定されているものの、確かに真っ直ぐな形へと戻っている。
「あんたたちにも助けてもらったらしいわね。――ありがと」
「……いえ」
「そんな……」
二人して似たような反応を示す。……偶々、本当にギリギリのところをどうにか繋げられただけだ。全員が命を落とさずに済んだのは結局のところ、助けに来てくれた賢王やエリティスさんたちの力によるところが大きい。それよりも――。
「す――っ⁉」
頭を下げようとした瞬間、額にビシリとした衝撃。
「――」
「謝ってんじゃないわよ」
上げた視線。伸ばされた立慧さんの腕と指先が、凸ピンの形で止まっていた。
「私たちは自分の判断で学園に向かったの。だから私があんたに言うのは感謝だし、あんたは堂々と構えてりゃいい」
そうでしょ? と。見つめてくる立慧さんに、それ以上言えることはなかった。
「あいつにも礼を言ってやりたかったんだけど、行方知れずじゃ仕方ないわね」
「ま、あの色男の事だからな。女絡みでふらっと行っただけで、案外ちゃっかり戻ってくるかもしれないぜ?」
「それはそれで殺意が湧くわね……」
――エリティスさんの事か。思い起こされるのはジェインたちから聞いた話。
「そいつをきちんとぶつけられるよう、しっかり身体を治さねえとな」
「そうね。治癒師はよくやってくれたし、後は私たちの気力の問題だわ」
そう応えた立慧さんが、改めて俺を見た。
「直ぐにでも回復させるから見てなさい? あんたも、頑張んなさいよ」
「――はい」
覇気のある台詞に意気を込めて頷き返す。次に戻ってきたときのエリティスさんの身が、多少心配なのは置いておいて。
「じゃあまたね。って言っても、また会うんでしょうけど」
「はい。また」
「じゃな。転んだりしねえよう、気ぃ付けろよ」
遠ざかっていく二人を視線で見送る。軽く手を上げる田中さん。雰囲気は相変わらず適当な感じだが、実力の程はよく分かっている。万が一があることもないだろう。
「……良かった」
「……そうですね」
ゆっくりと動いている様子を見ていても分かる。……全身に巻かれた包帯。全快には程遠い。回復にはまだきっと、それなりに時間が掛かるのだろう。
それでもあの無惨な姿を覚えている身としては。今立慧さんが自らの意志で完治に向かうことができているという、それだけで安心させられるものがあった。
「私たちも行きましょう。黄泉示さん」
「ああ」
フィアに手を取られつつ、歩き出す。ゆっくりと、一歩ずつ。
磨き抜かれた廊下を、進んで行った。
――見付けたぜ。
「――よう」
探し回った相手の姿を正面に捉え、リゲルは足早に距離を詰めていく。一直線に。確固たるその足取りで、僅かに残る迷いも消し飛ばすように。
「――誰かと思えば」
迎えるはカップを手に、少し口の端を上げた賢王。流すような一瞥がリゲルの青い瞳の上を過り。
「荒れていますね。どうしましたか?」
ただそれだけで此方の状態を看破してくる。隠し立てするつもりなど端からなかったとはいえ、それが経験に裏打ちされた慧眼であることには違いない。今一度意気を新たにし――。
「――俺に死線を潜らせろ」
敢えて乱暴に。身の内に猛る情念をぶつけるように、そう言った。
「……潜らせろも何も」
対する賢王はまるで自然体。ぶつけられたはずの気概をまるで柳か何かの如くに受け流して、はて、とわざとらしく小首を傾げて見せる。
「既に散々そのような目に遭って来ているではないですか。前回でさえ、お友達の父親に返り討ちにあったと聞いていますが?」
「だからだ。今のままじゃ何もかも足りねえ」
下手な言い分は要らない。ストレートな気持ちを視線に乗せて。
「あいつらと戦えるようになりてえんだ。――頼む」
「今のレベルにまで仕上げるだけでも、それなりに苦労したのですがね」
頼みを入れたリゲルを目前にして、賢王はその陶器の如き滑らかな頬に指先を当てる。分かっていると思いますがと。一つ溜め息を吐きつつ間を置いた。
「貴方たちの力量は戦力として及第点に達しています。蔭水冥希はともかくとして、その他の敵方と戦えないというわけでもありません。……それでも今の力量では不満足だと?」
「……黄泉示はあの戦いで、俺らを助ける為に無茶をした」
鋭くする目つき。吐き出すのは胸に燻る、己への不甲斐なさ。
「ダチにデケえ借りを作っといて――テメエだけのほほんとしてるわけにはいかねえんだよ」
「……」
「……黄泉示には呪具ってのを渡したんだろ? なら、俺もそいつを――」
「――軽々しく口にするものではありませんよ」
言わせない。考えつつ言ったリゲルの提案を賢王は即座に戒めてくる。それだけで反論を赦さないような、あり得ないと言うような冷ややかな目付き。
「あれは手に入れようと試みるだけでも死の危険性がある道具。一度幸運を得た事実に縋って、二度目を求めるのは愚昧です」
「だろうな」
そこまでが予想通り。確かな手ごたえを得て、リゲルが発言を一歩踏み込んだ。
「だから俺に死線を潜らせてくれよ。……あんたならできるだろ? 賢王」
「……」
水晶の如き目付きの色が変わる。――リゲルにはある種の確信があった。賢王が以前自分たちを鍛える為に課した修行の内容は重く苦しいものではあったが、反面リゲルたちの実力を見極め、予想したところまで的確に伸ばすものでもあった。
ならばその延長線上として、もっと重い試練を与えることもできるはずだ。……文字通り死に直面するほどの。そしてそれを乗り越えたならば、きっと。
「――死ぬかもしれませんよ?」
「親父を追い越すまで死ねるかよ」
温度の下げられた眼差しにも怖じ気ず言う。元より承知の上。それを乗り越えた先にしか、自分の求める強さはない。数秒の沈黙が続き。
「……ふむ」
漏らされた声。緊張に唾を呑むリゲルの前で、今一度確かめるように賢王はその双眸を一瞥し。
「――いいでしょう」
下された承諾の響きに、リゲルは内心で思わずガッツポーズを取った。
「貴方の気概がどの程度のものか試してあげます。――手慰みくらいにはなりそうですし」
此処が一番の正念場だと考えていたからだ。早くも勇み立つリゲルを眺め遣るのは、賢王の気紛れで残酷な笑み。
「貴重な戦力を減らすわけにはいきませんからね。一度でもしくじればそこで終わりと言うことで、どうです?」
「勿論いいぜ。指導を付けてもらう立場だからな」
「殊勝な心がけです。――では行きましょうか」
逸るリゲルの心情に合わせるように、寛いでいた様子だった賢王があっさりと席を立った。
「この場を血で汚すのは忍びないですので、訓練場へ。着いてきなさい」




