第二十二節 予兆
「……ッ」
セイレスはただ一人、暗闇の中に身を潜めている。ヴェイグより与えられた【赤の戦禍】の力を借りた上での穏形法ならば、例え自身と同格の魔術師相手であってもおいそれとは見破られないだけの自信があった。
〝――退け〟
脳裏に木霊するのは蔭水冥希の声音。舌打ち代わりに唇を噛み締めて、セイレスは入念に、張り巡らせた魔力網に掛かる気配を確かめる。……凶王二人を前にしての判断。
相性から言っても確かに不利な相手であり、意地を張り通せば自らの命が無かっただろうことはセイレスとて承知している。……戦略的な視点から言って蔭水冥希のあの判断は正しい。そのことはどうしようもなく動かし難い。
――だが、それとこれとでは話が別だ。
あの目。蔭水冥希の瞳は明らかに、セイレスに対し何の期待も抱いてはいない冷えた眼だった。思い出すだけでも不快な感触が走る。あれは、これまでにも散々見せ付けられてきた。
「……ちッ」
忘れることのできない忌まわしい記憶を刺激され、感情を抑えきれずにセイレスは舌を打つ。……やっと逃れ出られたと思っていた。
だが結果としてそれはいつになっても消える事なく付き纏い、今ではキリが無いようにさえ思えてきている。――いや、現実にキリが無いのだろう。どこかに立とうとする限り、この足が地についている限り脅かされ続ける。だからこそ終わりを迎えられることに、いっそ清々とするべきなのかもしれないが……。
「……最期まで、こんな想いを抱き続けているものですか」
思わず内心の声が漏れる。あの眼差しを自力で撥ね退けてみせるという決意。それができてこそ初めて言えるのだ。……自分は――。
「……!」
――来た。
待ち侘びた感触に思わず小躍りするような感慨を覚える。逸る心を抑えての慎重な確認――移動方向は学園の真反対。数は六。間違いない。
突如としてセイレスたちの前から姿を消したあの集団。当座での把握は追い付かなかったが、それでもこの三年間に渡り磨き抜いてきた魔術師としての感覚からある種の理解をセイレスは打ち立てていた。――あれは転移法などによる離脱とは違う。
どちらかと言えば穏形法に近く、つまりはあの時点ではまだ学園の敷地内を出てはいない。加えて負傷者重症者を連れているならば、どうあっても転移した自らの方が学外に出るのは早いはず。その推測に賭け、得られているはずの時間差を用いて入念に網を張り巡らせた。こちらの知覚認識を完全に退ける奇異な技法。捉えられるかは正直五分と言ったところだったが、意地を賭けた仕込みが功を奏したと言うところか。
「……なるほどね」
今は明確に対象を把握できている。その事実に首肯する。――常に認識を阻害し続けるタイプの術ではなく、一度看破されれば脆い術の類い。補足した以上見失うことはないだろう。
「……ふふ」
戦線を離脱した人間がどこへ向かうのかなど自明の理――。自然と零れ落ちる笑みを自覚し、セイレスは歓喜を受諾する。……目処は付いた。後は機を見計らい、迅速に行動へと移すだけ。
抑え切れぬ喜びを胸に、セイレスは、ただその時を待ち続けた。
「……」
まだ苦しそうな寝顔。呼吸が少し落ち着いてきているのを、もう一度確認した後。
なるべく音を立てないように注意して私は部屋を出る。いつまでも黄泉示さんの部屋にいる訳にもいかない、できれば横で見守っていたかったけれど……。
――エリティスさんの助けを借り、何とか学園から此処まで戻って来れた私たち。全身の故障に加え極度に消耗し切っていた黄泉示さん、見るも痛々しい傷を負った立慧さんへの治癒を終えて、今はそれぞれの部屋で寝かせてある。……重度の傷を癒せるまで魔力が持ってくれて、本当に良かった。
〝賢王嬢たちを手伝って参りますから。カタスト嬢ももう、お休みになって下さい〟
穏やかな笑顔でそう言い残し、少し前にエリティスさんは此処を出て行った。まだ学園には先輩、郭さん、エリティスさんと一緒に助けに来てくれた全員が残されている。――無事でいて欲しい。
今の私にできるのは、祈ることだけしかない。荒事が苦手というエリティスさんだけど、こういう時に率先して出て行けるのはとても勇敢なことだと思う。……あんな風に、笑顔を見せられるのも。
「……ふぅ」
大分疲労が溜まっている。そのことを実感する。……重傷だったリゲルさん、ジェインさんの治療。今までにない障壁の連続展開に加えて、黄泉示さんと立慧さんへの治癒で更に魔力を使い込んだ。疲れないはずがない……。今日は間違いなく、今までで一番魔力を消耗した日だろう。
「……まだまだ、ですよね」
呟きで自分を鼓舞する。まだ、休むわけにはいかない。……全員が死力を尽くしている苛烈な戦い。先輩たちもどうなっているか分からない。学園から皆が戻ってきた時、傷を癒せるのは私だけかもしれないのだ。しっかりと備えておかなくては……。
幸いこれまでの特訓のお蔭か、あれだけの立ち回りをしたにも拘わらず魔力はまだ残されている。……模擬戦でも思ったけれど、本山で起きてから調子が良い。後数回の治癒くらいなら倒れないでもできるはず。私だけが、弱音を吐くわけにはいかない。
「……」
――黄泉示さん。
あの時の光景が胸に浮かぶ。……守ってもらった。助けてもらった。身を挺して私たちを守ってくれたことには、感謝してもし切れないほどの重みがある。
だけど……。
「……ッ」
思い出すだけで身震いが走る。治癒が通じず、それでもただ治癒を掛け続けることしかできないでいたあの時。
本当に恐ろしかった。本当に怖かった。
黄泉示さんが、死んでしまうのではないかと思ったから――。
……それに。
「……」
そのことを思い返すと不安に襲われる。……なぜだかあのとき、固有魔術が使えなかった。
発動してくれなかったのだ。黄泉示さんに向けて光球が放たれたとき、必死で使おうとしていたにも拘わらず、私の力は反応してくれなかった。
――なぜなのだろう?
もう一度問い直す。……永仙さんの時は確かに使えた。黄泉示さんを守りたいという思い。あの一心が私に魔術を発動させた。
なのに今回はできなかったのだ。なぜ……。
「……」
固有魔術については、協会でも色々と分かっていないことがあると言っていた。原理も分からず、まだまだ未解明。
使えなくなってしまったのだろうか? 気持ちが足りなかったのだろうか?
――もし、二度と発動できないということにでもなってしまっていたら。
「――っ」
根拠のない想像を振り払う。……自分が情けない。
自分でも少しは強くなれたつもりだったのに。蓋を開けてみれば、私はいつも肝心なところで守ってもらってばかり。そこだけは依然と何も変わっていない。
――このままではいけない。
強く思う。もっともっと、強くならなくては。黄泉示さんたちを守れるように。黄泉示さんが、自分を傷付けることのないように――。
「――お、此処にいたか」
「――っ」
掛けられた声に振り向く。背後に立っていたのは、私のよく見知っている人。
「リゲルさん? どうしたんですか?」
あちこちに傷の残るスーツ。いつも元気なリゲルさんだけど、今回は流石に戦いの疲れが色濃く出ている。確かジェインさんと一緒に、下でコーヒーを飲んでいたはずじゃ?
「いや、やっぱあんだけの戦いをした後だから、黄泉示やフィアの事が気になってよ。体調とか大丈夫か?」
「あ……はい。黄泉示さんも、少し落ち着いてきた様子でした」
「そうか。ったく、黄泉示の奴も無茶をするよな……」
――無茶。
リゲルさんの言葉に覚える、漣のような微かな心の動き。……確かにあれは無茶だったのかもしれない。三人もの敵を前にしたあの状況で、私たち全員を一度に助けるなんて芸当は無茶であって然るべき。だからリゲルさんのその言葉に、間違いはない。
だけど、その言葉にどこか蟠りを覚えている自分がいる。……その無茶のお蔭で、私たちは助けてもらったのだ。
だから……。
……そう。
黄泉示、さんは……。
「……っ」
胸の痛み。揺れる意識に脚を止める。――魔力の使い過ぎだろうか。
視界が二重にぶれるような感覚。立っていられず、膝を床に落とす――。
「お、おい。大丈夫か?」
リゲルさんが話し掛けてくる。……耳に届く声。訊き慣れている声のはずなのに。
――何かが、変だ。何かが、おかしい。
「具合が悪いんだったら、無理せず休んどいたほうが――」
なおも語りかけてくる声を聞き流し、その顔を見つめる。……どこか薄っぺらく見える表情。まるで、鏡に映った虚像を見ているような……。
「おい、フィア――」
動きを見せない私に不安を感じたのか、薄くなったその手が私の肩へと伸ばされる。覚えていた違和感が、頂点に達した――。
――その、瞬間。
「――触れるな」
毅然と言い切った私の声に、伸ばされていた腕の動きが止まる。
「え……?」
眼前から漏らされる間抜け声。それがおかしくて、立ち上がった私は嗤いを零した。
「児戯にも劣る幻術でこの私を騙そうとは。……不遜にも程がある。不愉快だ」
「ッ――⁉」
女の顔が歪む。……嗜虐的な笑みでそれを見つめながら、即座に紡ぎ出したのは手慣れた呪。
「死ね――」
生み出された力の塊。繰り出された術法に、女は為す術なく――。
「――」
声一つ上げることさえ赦されないまま、空間から消失した。
「……」
余韻を味わいながら感触を確かめる。……魔力はほぼ依然と同等。呪の扱いも覚えている。懸念していたような問題は無い。全てが順調だ。
「――どうした⁉」
耳を打つ叫び。先に羽虫を散らした魔力の波動を嗅ぎ付けたのか。
階下にいた二人の急ぎ此方へと向かってくる気配を捉える。……眼にされれば面倒なことになる。殺してしまうか――?
「うっ……⁉」
――胸の痛み。ふらつきを抑える事ができず、膝を付く。くそ、もうか……。
「……」
「――おらっ! 動くんじゃねえ‼ ……おろ?」
大声が頭に響く。顔を上げた私の目に映るのは、困惑したような顔をするリゲルさん。
「……リゲルさん? どうかしたんですか?」
「いや、どうしたっつうか……って」
何かを確かめるように周囲を素早く見回した後、膝を付いている私の所へ駆け寄って来る。
「大丈夫かよ? やっぱ休んでた方が良いんじゃねえか?」
「あ、いえ。ちょっと、眩暈がして……」
「……どうした?」
今階段を上り切ったらしい、ジェインさんが話し掛けてくる。
「遅えぞジェイン! 間に合ってねえじゃねえか!」
「僕は疲れてるんだ。貴様のような体力馬鹿と一緒にするな……」
「俺だって疲れてるけど、やべえと思って段飛ばしで駆け上がって来たんじゃねえか!」
「あの……」
早々と喧嘩を始めた二人に声を掛ける。
「……済まない。具合が悪そうだが、大丈夫か?」
「え、あ、はい。私もちょっと疲れてたみたいで。今は……大丈夫です」
「そうか」
大丈夫……だろう。今は取り敢えず変な感じはしない。普通の疲労感があるだけだ。
「何かあったんですか? 二人とも、一階にいたはずじゃ」
先の戦いで私と同じか、それ以上に疲れているはずの二人。なのに階段を急いで駆け上がってくるような理由が咄嗟には思い付かない。
「何も感じなかったのか?」
「え? 何が……でしょう」
意味有り気な発言に困惑する。……何も無かったはずだ。黄泉示さんの容態を診て、部屋から戻ってくる途中。気になるような事は……何も。
「いや、実は今さっき上からかなり強烈な魔力の気配を感じてよ。あいつらがここまで来たのかと思って、ダッシュで上がって来たんだが……」
もう一度周囲を見回しつつ、言葉を続けるリゲルさん。
「誰かが居たような様子もねえし、勘違いだったみてえだな。フィアも無事だし」
「……そうなんですか?」
「ああ」
――強烈な魔力。一応は魔術を扱う身。家の中、特に同じ階でそんなことが起きていたのなら流石に感知くらいはできるはず。まさかそれにも気付かないほど気が抜けていたのだとは、余り思いたくないけれど……。
「一応訊いておきたいんだが、何か変わったことは無かったか? 些細な事でも良い。何か気付いたことや、感じたことがあれば」
「……変わったこと……」
気遣いつつ尋ねてきたジェインさんの台詞に、少し考え込み――。
ふと、あることを思い出す。
「……あれ? そういえばさっきリゲルさん、上に来ませんでしたか?」
「俺が? 俺はずっと下にいたぜ」
「え? でもさっき、私や黄泉示さんの様子が気になって、見に来たって……あれ?」
「そりゃ今の話じゃねえのか?」
何だか噛み合わない。リゲルさんは下にいたはずで、でも私は上がってきたリゲルさんを見てたような気がしていて……。
「――もしかすると」
考えがあるように声を上げたジェインさんを見る。
「無意識のうちに魔術を使ったのかもしれない。カタストさんが」
「私が……ですか?」
「ああ」
どういうことだろう。腑に落ちない表情をしていた私に、聞いているかもしれないが、とジェインさんは前置きして。
「以前の戦いで、カタストさんは敵の魔術師――セイレスに向けて強力な魔術を放ったことがある。その時も、カタストさん自身の意識はないに等しいような状態だった」
そのことは私も黄泉示さんから教えてもらった。幻術を掛けられていた時。記憶の無かった間に、私のやったこと。
「ああまあ、確かにあの時のは凄かったもんな」
「そうなんですか?」
「おうよ。なんつうかこう、ドバーッ! と光が一面に溢れてだな」
「……もう少しマシな説明はできないのか? 語彙力が貧弱すぎて、頭が痛くなる」
「んな時までケンカ売ってんじゃねえよジェイン」
「……」
二人の話を聞いていて少しだけ、胸が疼く。……本当に、私にそんな力があったら良いのに。もしそうだったら――。
「――」
階下から聞こえて来た音。扉の開く音と、複数の人たちが入ってきた足音に耳を欹てる。
「あれ、今、下で――」
「帰って来たみたいだな」
「全く……必要のない手間を取らされたものです」
「これで全員ですね」
聞こえてくる賢王さんたちの話し声。歩き出すリゲルさんとジェインさんに続いて、私も階段の方へと向かった。




