第十七節 支部長の意地
「――」
聖徒十二使徒が一人、剛克のバルトロマイを斃した相手。
心が震える。この男も蔭水冥希とまた同じ、圧倒的格上。背中を見続けてきたあの四賢者らと同格の敵。
――相手にとって不足はない。立慧はそう言い聞かせる。……その為に、敢えてこの道を選んだのだから。
「ふーー……」
内丹法の一環。気を巡らせる呼吸に連れて神行符を稼働させる。……まともに立ち会えば不利は必然だが、相手は自然体の居住まいでこちらの動きを待っているだけ。仕掛けて来ない。力の差故の余裕か、それとも元よりのスタイルなのかは分からなかったが。
どちらにせよ考える時間が与えられたことは、今の立慧にとって何よりの僥倖と言って良かった。……先の奇襲。支配級の適性を生かしての属性操作。威力、応答速度共に申し分なく、魔力の燃費では圧倒的に此方が不利。――近接戦闘。どれだけ険しい選択であろうとも、それが勝利へと開けた唯一の道だ。
「……」
機を窺う。その所作が既に無意味であることを、立慧は理性と本能との両端から理解している。……覚悟を決めろ。必要なのはただ、奈落へと踏み出す覚悟のみ。
「……」
唾を呑む。組み立てた戦術の用意として重心を落とした、立慧の姿が果たして如何様に映ったか。
「ふ……」
涼しい目付きで此方を見遣っていたアデルが、僅かに笑みを漏らした――。
「――ッ‼」
――瞬間、突貫。八メートル近い両者の距離を一息に詰めて撃ち出した拳はしかし、流れるような前腕の受けを以て迎えられる。機を作ってやったと言わんばかりの対応に、構わぬまま放つ左拳、右拳。
「っ――」
アデルの口の端が歪む。神行符に送る魔力の増大。加速した拳が守りを抜け、強いるのは回避行動。すかさず追い討った手を流しと共に返す巧手を更なる強化を得て強引に押し切り、立慧はなおも攻め手を繋ぐ。
――格上を相手に地力の勝負に持ち込んだのでは、必ず負ける。凶王、そして蔭水冥希との苦々しい邂逅を経て、立慧はそのことを肌で心得ていた。分不相応な勝利を本気で狙うのであれば、地力以外のなにかで自らの土俵に持ち込むしかない。……自身の得意は魔術武術を合わせた近接戦闘の技法と、気運操作。
最大限にブーストした幸運により強引な勝負手を成立させ続けられる前提で戦術を組み立て、一気呵成の勢いで攻め立てる。それが立慧の賭けた戦術だった。過てば死、止まれば死。迷いも出し惜しみも死を招く。蜘蛛糸より細い気運の糸を手繰り、手繰り、手繰り寄せ――‼
「ッッ‼」
――蹴り。打点をずらされたのは左膝関節に当てると同時。幸運の落差により守りを強いてきているものの、ここまでアデルは恐ろしいほどの精緻さで以て立慧の攻撃を捌いてきている。――分かる。流れが切れるまであと四手。四、三、二――‼
「破ッッ‼」
最後の一手。神行符の強化が最大に達するその機に合わせて、噛み砕く。奥歯に仕込まれた即効性の丸薬が口内に吸われ、刹那に爆発的な膂力を発揮させたその一撃。
「――ッッ⁉」
驚愕と共に受けたアデルの体躯が、為す術なく宙を舞う。大型車に撥ねられたかの如く跳ね飛ぶ影。勢いのまま壁に激突し、崩落した瓦礫によって粉塵の向こうへと消し去られた。
「……はっ! ……はっ……っ!」
――渾身の炮拳。成し遂げられた不幸と幸運とを感じつつ、立慧は息を整える。動作前に一瞬の隙を見せるのは特別危険な賭けだったが、どうにか勝った。繰り出されたアデルの拳撃に取ったカウンターは円錐交叉法を旨とする形意拳の正に神髄。拳と跟歩の合わせも完璧。間違いなく今の自分にとって、これ以上ない一撃だ。
「は……はーー……」
内出血に伴う鈍い痛みを感じながら、立慧は不快な感覚に顔を顰める。陽の気を大量に練り込んだ特別性の赤錬丹。即効性かつ短時間に効果を集中させた丸薬は、筋肉と何より心臓への負担が大きい。短時間に二度は使えない、一度限りの隠し玉。
それでも仕留めるには至っていないかもしれないという判断が、会心の一技の後でさえ立慧の緊張を途切れさせずにいた。……あの一瞬。衣服の上から感じた手応えは、正に鋼鉄の如く頑強な堅さ。鍛え抜かれた筋肉は衝撃を和らげ、内臓まで十全に威力が伝わることを阻止しただろう。良くて重傷、骨を折ったかには自信がない。悪ければ打ち身に皹程度、それでも動きを鈍らせることはできるだろうが――。
「……っ!」
呼吸に項垂れていた頭を跳ね上げる。瓦礫の山から伝わる、気配。
「【殺気化殺・六殺】!」
災禍を防ぐ化殺の効力を受け、立慧の目前まで迫っていた炎が逸らされる。頬を打ち、髪を靡かせていく熱風。地獄の釜底のような轟音と紅とが、立慧の世界を覆い尽くし。
「――ッ‼」
紙一重。突き出された拳撃が空を打つ。顔面に伝わる衝撃に目を細めながらも、なんとか安全圏まで距離を取った。
「――悪くない」
霧晴れの如く開けた視界に映り込む姿。耳を打つ平静な声。その体に驚きを隠せないのは、立慧がなにもブラフに疎いわけではない。
「中々に練り上げられた攻撃だった。必殺の一撃としては不十分なのが、玉に傷だが」
目の前に立つアデルの姿が、余りにも変わりなかったからこそ。瓦礫に埋もれただけあって流石に衣服はダメージを負っているが、その下から覗く肌は無傷。……一撃を撃ち込んだはずの腹。歩む足取りにも、全くの影響が見られない。
「……なによあんた。バカじゃないの?」
声が震える。……あの会心の技でさえダメージを与えられないと言うのなら。自分と、この男の差は――‼
――いや。
「……」
冷静な思考の一部が気を取り直させる。……あの一撃を喰らって無傷など、絶対にあり得ない。これには何か。
「――ッ‼」
アデルの踏込み。繰り出された拳を右前腕で払い退ける。先ほどとはまるで真逆。一転しての攻勢に立慧の方が守勢に回らざるを得ない。捌き、踏み付けを外す。
――焦るな!
先の攻防でアデルの動きは八割方把握している。この男が扱うのは我流や秘伝といった未知の体術ではない。武術だ。それも立慧の扱う形意拳とどこか馴染みある体系。神行符と気運操作を最大限まで稼働させれば、対処は不可能では――!
「――」
瞬転。
動きが変わる。足を崩され、流れるように誘い込まれた形。迫る拳打に晒されているのは、自身の脇腹。
「ッッ‼」
痛烈。抉り込むような一撃に歯を食い縛りながら軸を外す。追撃の蹴りを目前に、為し得る最速の動作で距離を取った。
「……ほう」
可能な限り隙を見せないようにする中で、アデルの示したのはどこか、感心したような態度。
「今のに耐えるとは。軽く驚きだな、支部長」
「っ……」
軽口に応えるだけの余裕は立慧には持ち得なかった。……急所を狙い澄ました一撃。あの状態で軸を外せたのは間違いなく幸運のブーストに依るものであり、通常なら終わっていたという、それだけが理由ではない。
今の攻防。アデルの動きは途中から、立慧の知る武術から似て非なるモノへと変化した。恐らくはあれがこの男本来の戦闘様式。より鋭く、より殺意を増した手捌きは脅威という意味では比較にならぬほどに凶悪であり。
ならば、先ほどの攻防は――。
「……良い趣味してんじゃない。見た目に違わず」
遊ばれていた。痛いほどそのことを噛み締めて、立慧は構えを取り直した。
「――はぁッ……ハッ……」
――空気に満ちる熱。一息を吸い込むごとに肺腑が焼かれるような苦痛が走る。それにも拘わらず荒ぐ呼吸を続けざるを得ない状況に内心で舌打ちをしつつ、立慧は威嚇するように相対する男を睨み付ける。
「……」
――涼しい顔付き。苦悶の様を眺め遣っているアデルは、焼け付く熱気など何処吹く風、闘志の込められた視線さえ流し立つその姿は、瓦礫から舞い戻った時分とほぼ変わらない。
「あんたの、武術……」
状態は良くない。復調への時間稼ぎも兼ねて立慧は声を出す。
「心意六合拳ね? 魯山系と洛陽系の、複合型」
「ほう」
立慧の扱う形意拳とは同じ意拳に属する武術。幼少期より学んだ四把捶の動き。もしやと思えば気付くのにそう時間は掛からなかった。
「目は良いようだな」
とはいえ原型を探り当てたところで大した意味はない。今アデルの振るっている技法はそこから更に複数のアレンジを加えられ、独自の殺人術と言えるものにまで発展させられたもの。心意六合拳にはない崩しの所作に加え、内部にダメージを浸透蓄積させる勁の用い方。動きの端々に面影が遺されているに過ぎない。それが分かっているからこそ、目の前の男も湛えた笑みを崩さないのだ。……そして、それ以上に。
「……どういうつもりよ?」
「なんの話だ?」
わざとらしく白を切る男を立慧は睨み付ける。アデルの戦い振りは、此方を殺すことを主眼に置いたものではない。
鋼鉄の如き拳も蹴りも。……叩き込むタイミングが幾らでもあったはずなのに、外して来ている。まるで何かを確かめるかのように、真綿で首を絞めるような迂遠な追い詰め振りで。
「弱いものが強いものに弄ばれる。世の道理だ。何もおかしなことなどあるまい」
謗るような視線に開き直って言い切ったアデルは、ふとそこで思いついたように微かな笑みを零し。
「それが気に入らないと言うのなら、お前こそこちら側へ来るべきではないのか? 支部長」
「――っ」
「冗談だ。――ではそろそろ、再開と行くか」
通路を埋め尽くす火炎。馬鹿の一つ覚えにも似た戦術ではあるが、こちらに防ぐ以外の手立てがない以上は有効な手段であり続けている。威力も今までの中で最大。先ずはこれを防がなければ始まらない――!
「【化殺・凶方位・五鬼】‼」
立慧も猛る声でそれへと応じる。立慧が持つ防御魔術、【化殺】。その上から二番目の術理を以て炎熱を遮断。今までの傾向からすれば敵の次の攻め手は予想が付く。
「【吉方位・天医】――」
炎熱の中から迫り来る気配に急ぎ呪を紡ぎ出す。気運を高めるその術法の完成とほぼ同時、天井を蹴り放たれた蹴撃。躱し反撃とばかりに叩き込んだ拳は構えられていた掌底で防がれる。回避の勢いのままアデルの圏内から離れ、着地の瞬間を狙って跳び出した――。
「ッ⁉」
――衝撃。繰り出そうとした一撃を取り止めざるを得なくなる。力の限りとばかり踏み込んだアデルの震脚により生じた狭域の地震とも言える振動の波。予想外の所作に脚を取られ、身体が居付く。
「――【聖節詠唱・弓】」
「くっ!」
それを見越していたかの如く放たれるのは光の矢。符術で強化した肉体を頼りに最小限度の動きでそれらを躱し、撃ち落としに回る。一本一本の威力は然程でもないが数が多い。捌き切るには――。
「――‼」
アデルが踏み込む。――矢は囮。本命を通すために張られた網。撃たれた矢に迫る勢いで立慧の身に屈強な体躯が迫る。咄嗟に迎撃のつもりで撃ち出した拳は、片腕の勁に絡め取られ――。
「ガッ――ッ‼」
「――むっ?」
掌打。骨を折り内臓を破裂させるような衝撃に堪らず吹き飛ばされ、血を吐き出す。――意識はある。最後の最後、衝撃の威力が僅かにずれ込んだのだ。
「……存外手古摺るな。時の運も馬鹿にはできないらしい」
苦笑するアデルの足下には、今し方陥没したと思しき穴が開けられている。凶器の掌が立慧の体躯に触れた瞬間、前足の体重を支えていた床が不意を打って崩れ落ちた。それにより乗せるはずだった体重が充分に伝えられず、必殺であったはずの一撃は未遂に終わらされた。
「……く……!」
倒れそうになる足に力を込め、何とか踏み止まった立慧。――取り出した符で既に応急措置は完了している。傷を癒すことはできないが、短時間なら痛みを気にせず動くことはできるはず。今はこれで耐えるしかない……。
「だが攻撃が当てられたことを見るに、その運もどうやら尽きようとしているようだ」
「……」
――アデルの発言は的を射ている。此処に至るまで立慧は自身に最大の運気を呼び込む【吉方位・生気】を用いて力の差を減らしに掛かっていた。しかし今用いているのは次点、【吉方位・天医】。一秒一秒を耐える為に短距離走の如く魔力を吐き出さねばならない立慧では、常に自身に可能な最大効率を維持し続けるという訳にはいかない。……端的に言えば相手の言う通り、限界が近付いている。
「次はどれが当たる――?」
最早虚となる揺らぎを含めるまでも無い。距離を詰めてからの乱打。
「ア――‼」
叫びは中途で途切れて声にならない。――側頭部への回し蹴り。躱し切れぬと悟って防御した右腕に走る激痛。――マズイ。痛みで上手く状況を知覚できない。今追い討たれたなら、確実に殺られる――。
「【化殺――絶命】ッ‼」
苦し紛れ。壁を背にした上で自らに張れる最大の守りを展開する。……長くは保たないが、それでもいい。この痛みをどうにかするまで、持ってくれさえすれば――‼
「……っ」
残り少ない符。その一枚を使い、痛みを鎮める。視界に認めた敵の姿。アデルはそんな立慧の対応を予測していたかのように、先ほど蹴りを喰らわせた位置から動いてはいなかった。
「そのレベルの術を使い捨てざるを得ないとは、そろそろ限界か」
「っ……まだ……!」
見え透いた挑発に戦えることを示そうとする――が、骨を砕かれたのか。右腕の肘から先は完全に垂れ下がったまま。どれだけ動かそうとしても一向に動く気配を見せない。……身体が重い。無事だったはずの頭でさえ、真っ直ぐに向けられず。
「動けるか? どれ――」
詠唱と共にアデルの手の内に現われるのは輝く光の剣。――投擲。次々と投げられるそれらを躱し、叩き割る。足はまだどうにか動く。
「あぐッ⁉」
砕いた影から現われる一閃。肩を割く痛みに、抑えていたはずの痛みが熱を伴ってぶり返してくる。……熱い。熱い。全身が焼け付くような感覚に、思わず喘ぎ――。
「――っ……!」
額に。真一文字に線を刻むように、鋭い衝撃が訪れた。……脳が揺れる。意識が。
……そうだ。
暗転する視界。立慧は思い出す。……自分は、生家である道場の跡取りになれなかった。
その性である限りいつか必ず追い超されることになるのだと、父から明確に言い渡された。ならばと家を出て入った魔導院でも侮蔑を受けた。自分が武術を使うという、それだけの理由で蔑まれた。その全てを努力で耐え抜き、乗り越えて――。
〝――漸くここまで来たな〟
あの日。掛け替えのない友と並んで迎えたのは、支部長就任の日。
〝こんな日が来るなんて、感慨深いよ〟
〝何言ってんの〟
隣に立つ千景に向けて、立慧は燦然と輝く空を見上げて言っていたのだ。
〝ここからが始まりでしょ。目指すならてっぺんよ。私たちが――〟
――なんでこんな時に、そのことを思い出すのだろう?
〝力を付けて、協会も、世の中も変えるんだから〟
「――必死だな」
現実に引き戻すアデルの言葉。……無意識に自分が残りの符を使って【化殺】を展開していたことに気付き、立慧は目の前の光景を捉え直す。
「支部長にしては持つものだ。その気概は――」
またしても命の遣り取りではない。先の距離から動いていないアデルの口元に浮かべられている薄ら笑い。どこまでも楽しむように口にされた、その一言に――。
「――ふざけんじゃないわよッッ‼‼」
自分でも予想しないほどの叫びが喉をつく。飛ばした言葉の檄が、我が身を痛め付けるように立慧の足元をぐらつかせた。
「……あんたを倒して、私は証明するの……」
痛みと熱の中で崩れ落ちそうになる面を掲げて見る。……目の前の敵を。倒さなければならない相手を、瞳の内奥へ刻み付けるように。
「私たちができるってことを。今が支部長でも、できるんだってことを……ッ……‼」
「……」
辛うじて紡ぎ出したのは血を吐くようなその宣言。止めようのない荒い呼吸が空気と肺を乱していく。魂を削り取るようなその言葉に、アデルも手を止め、暫し聞くことに徹していて。
「――つまらんな」
飛ばされた偽りのない落胆に、自らの大腿を映していた眼が開いた。
「なにがお前をそこまで持たせるのかと思っていたが、よりにもよってそんな動機か」
奮い立たせるように再び上げた顔。ここにきて初めて笑みの消えたアデルの表情が、差し出した視線の先に映り。
「――お前は、弱い」
「――」
……罅割れる。
あの青い空が。……隣に立っていた千景の顔が、アデルの突き付けるその事実に。
「自分でも分かっているはずだ。お前と三大組織の幹部たちとでは、実力に明白な隔たりがある」
……止めて。
……止めてよ。
「当然――」
聞きたくない。そんなことは。
「――この私ともな。支部長」
――止めろッ‼
「ッッ‼」
沸騰するような激情に任せて地を蹴り出す。置き去りにされる腕にも構わず、悲鳴を上げる身にも、流れ出る血液にも構うことなく。
「ああああああああああッッ‼」
繰り出した左拳。絶叫と共に繰り出された立慧のソレを、どこまでも冷めた目付きが見遣り。
「――詰まらん女だ」
瞬転するその身から放たれたのは靠撃。本来ならば単独で使うことはあり得ないはずの強引な当て身技。唸りを上げて迫る背に触れた瞬間、呆気ないほど簡単に拳は潰れ。
「――」
鉄の壁に激突したが如き衝撃が肉体を揺るがす。身体が宙を舞うそこで、立慧の意識は途絶えた。




