第一節 学園入学
「――フィア」
鞄の中身を確認しつつ、同居人に声を掛ける。
「は、はい」
聞こえて来るのはこの頃慣れてきた彼女の声。耳に心地よく響く柔らかい音の中には、少しの焦りの色が混じっている。
「あと五分で出るぞ」
登校日初日。向こうでは四月から学校が始まるのが普通だったが、ここではそれから半年ほどずれた九月に新しい学期が始まる。細かいことを言うなら、そこで開かれる式典の内容も微妙に異なる。
俺の感覚で言えば新入生はまず入学式を経験するのが当然のようになっているが、こっちでまず受けるのは式ではなく、説明会だ。試験が比較的簡単ということもあってか、入学する際に特別それを記念にするといった意識はないらしい。
「はい。大丈夫です。あとちょっと……!」
忙しない語調からも急いでいるのが伝わってくる。元から時間に余裕は持たせてあるから、遅れるということはないだろうが。
――一昨日。
小父さんから連絡があってから、俺たちは慌ててフィアの分の学用品を買いに行った。……コンビニは偉大だ。文房具程度なら簡単に揃えられるのは実にありがたい。
「……ええっと、ノートは持ちましたし、忘れ物はない……ですよね」
そうこうしている内に、漸く玄関に姿を見せたフィア。準備を終えて出てきたらしいフィアはそれでもしきりに持っていく中に足りない物がないかを確認している。それまで殆んど私物を持たなかった人間の持ち物がいきなり増えて、尚且つ朝から出るなんてことになれば慎重にもなるか。そんなことを思いつつ。
「そろそろ行こう。もうじき三十分だ」
とはいえいつまでも待ってはいられない。最後に軽く確認だけして、返事は待たずにドアへと向かう。
「はい。大丈夫です」
すぐさま返ってくるフィアの声を後ろ手に。俺は朝の冷たい空気に向けて、一歩踏み出した。
――俺とフィアが今日から通うことになる、シトー学園。
設立は比較的近年。長い歴史を持ったところではないが、国際交流を含めた多様な交流の中で知識や経験を深めていくことを信条にしているらしく、その観点から様々な出身の学生を受け入れている。単に生まれた国や地域が違うと言うことだけではなく、例えば置かれた生活環境や家の職種までも含んでいるようなもの。何か一つの特徴に偏らせるということをせず、意識的に多様性を織り込む……。
「……」
だがそんな能書きは正直言ってどうでもよかった。俺にとって重要なのはただ一点、如何にしがらみから離れ、新しい環境に身を置けるかということだけ。
普通留学といえば何かしらの目的があってするものなのかもしれないが、俺がこの学園を選んだのはただ一秒でもあの場所にいたくなかったからという、それだけのわけだ。過度に華々しかったり仰々しかったりするような入学式がないのなら、それはそれで嬉しいことだった。
「……」
家から学園まではそう遠くない。大体予定した時間通り、十分前後で目的の場所に着くことができた。
「……ここが……」
フィアが声を上げる。いかにもと言った赤レンガの建物が並ぶ敷地、その正門の前。門の横には輝く銀色で〝シトー〟の文字が刻まれている。……ここに、これから通うことになるのか。
「――君たち、今日入学の子かね?」
前で立っている俺たちを見咎めてか、学園の関係者らしい人間が声を掛けてくる。スーツを着た壮年の男。
「あ……」
「はい。そうですけど」
「なら早く入りなさい。もうそろそろ説明会が始まる時間だ」
まだ十分程度の余裕はあるはずだが、そう言って俺たちを招き入れてくれる。
「目の前をすぐ右手、あの建物が会場だ」
「はい。ありがとうございます」
「ありがとうございます」
言われなくとも看板が立てられているので分かる。物珍しそうに周囲を見回しているフィアを置き去りにしないよう注意しながら、〝説明会会場〟の文字が掲げられた入口から建物に入った。
「――」
――数をそれほど取っていないということもあってか。
重々しそうな扉から。中にいる人数は思っていたよりは多くない。数百人程度だろうか? もちろん俺たちのように、これからまだ多少は増えるのだろうが……。
「えっと、ここですよね」
〝席は順番に詰めて座るように〟とのことだったので、取り敢えず俺が先に席を埋める。丁度俺たちが列の端であり、隣は黙々と本に目を落としている男。知り合い作りで声を掛けたりはしてこなさそうなので、それは良かった。
「き、緊張しますね」
「そうか?」
ざっと見回す。服装が自由のせいか、集まっている人間は基本的には私服。随所にいる学園の人間にもスーツは殆んどいない。そこかしこで雑談もしているし、向こうの入学式を知っている身としては気楽なくらいだ。ちらほら見受けられるどう見ても違う年齢層が特徴的と言えば特徴的だが。
「あ~~……静粛に、静粛に」
壇上に上がっていた――これまた私服の男が、マイクで声を上げる。
「時間になりましたので、ただ今からシトー学園本年度、説明会を実施致します」
――時間にして凡そ一時間強。
説明会は滞りなく終わった。サプライズも何もない。ただ至極普通に学園の説明がなされただけだ。
「本日はこれにて終了になります。一番左の列から順に――」
合図を機にわらわらと集団が動いていく。――何日から授業が始まるか、単位の取得法、選択できる科目分野。
「次、三番目の列――」
俺たちの番。順々に立ち上がり、波に乗るようにして歩いて行く。――最初に一通りのシステマチックな話があったのちに為されたのは、学園長からの挨拶。諸君らはこの学園に入学した。我が学園は創立してまだ数年だが、多様な学生を迎えることができて嬉しく思う、昨今の流れの中では、お互いが枠組みに囚われず交流して行くことが実に重要で――云々。
驚くほど興味を引かない話だった。言っている内容にケチがあるわけではないが、当たり障りのない余りに普通の話。則っているシステムが違うだけ……そんな風に感じられた。
「えっと……」
外に出て。疎らになって歩く集団の中で、フィアが紙を捲る。
「授業は一年で前期と後期に分かれていて、それぞれで40ずつ単位を取らないといけないんですよね」
「そうだったな」
そんな失望の念に浸っている暇がないのは、隣りにもう一人がいるからかもしれない。
日本では入学時に理系、文系と大別されるが、この学園ではそれに当たる区別はない。数学、物理学、科学、工学、文学、史学、地学、社会学、心理学、芸術、スポーツ、哲学……デザインやビジネスなんて科目もあり、カリキュラムとしては専門課程を学ぶ大学より、中学高校を更に深化させた機関といった感じだ。……それらとの一番の違いは選択が学生に一任されていることだろう。
授業内容も担当の講師によって大きく変わってくるらしいので、そこは取る際に注意するようにとのことだった。課題や試験の有る無し、講義形式か対話形式か、少人数制か大人数制か、など。中には実地見学や野外学習もあると言っていたな。
「……クラス制があるんだな」
『クラス』と呼ばれる授業があり、これが全生徒共通、唯一の必修科目とされる。合計で週五日、月曜日から金曜日まで入っている科目だが、朝昼晩の三か所に設けられているうちの一日最低どれか一つに出席すれば良いとのこと。
多様な学生がこれまでと違う自由度の高い環境に投げ込まれる中で、基軸となる時間を設けるのが狙いらしい。時間を共有する人間を形式的とはいえ増やすことで、知人友人を多くできるようにとの計らいも含まれているのか。
「まあ大体分かったし、ひとまず帰るか」
久し振りだから忘れていたが、座ったまま長話を聞くというのは疲れるものだ。用も済んだ。これ以上ここにいても仕方がない。
と思っていたのだが。
「……」
視線を移した先。……フィアが、どこかそわそわしている。俺と歩調を合わせて歩いてはいるが、時折横目でちらちらと、学園の建物の方を見ているのだ。
――分かり易い。
「……折角だし、見てくか?」
「えっ?」
「いや、これからこの学園に通うなら、どこに何があるかくらいは知っておいた方が良いしな」
「そ、そうですね。確かに、そうです」
今は学園はまだ休みだが、見学として回って行っても良いと言う話ではあった。嬉しいのか、妙な言葉遣いになっているフィアに気付いていない振りをしつつ、入口に立てられている地図に目を通す。
「こっちから一周してみるか」
「はい」
敷地内を通る道は大まかな円形で繋がるようになっている。取り敢えず右の方から行くことに決めて、フィアと並んで歩き始めた。
「あんまり他に、回ってる方はいないみたいですね……」
「そうだな」
広々とした通りを見る。全くいないわけではない。四、五人くらいで固まって回っている連中もいるようだし、他にも遠くにちらほらと姿は見えるが、全体的にはやはり疎らだ。まあ、混んでいるよりはずっと良い。静かだし、なにより他人に気兼ねする必要がない。
「ここは……」
「食堂ですね」
中には入れないので窓から覗き込む。掃除が行き届いているのか、古くないからかは分からないが、綺麗だ。スペースも結構広い。尤も、味の方は食べてみるまで分からないが。
「図書館も……大きいですね」
歩いた先。髙い建物を見上げる。他とは少し違った重厚な造りだ。古い文献の数は少ないらしいが、それでもかなりの蔵書数を誇るらしい。電子的なサービスも投入されているとのことだった。
「……わあ」
そんな調子で回っていると。
「……ま、不味いですよ。――ちゃん」
「――ん?」
声。顔を向けた先にあるのは、樹。規則的に植えられた樹木の前で、女子が一人、なにやらオロオロしている。
「どうしました?」
「いや、なんというか……」
樹を見上げつつキョロキョロする様は明らかに不審だ。とはいえ、
「あの、どうかしましたか?」
俺が迷っている合間に、フィアはいつの間にかその娘との距離を詰めていた。
「へ⁉ い、いや、なんでもないです!」
「そ、そうですか? その、なにか困ってるようでしたので……」
威勢の良い否定を受けて少し戸惑っている。あれは明らかに。
「……行こう、フィア」
「え、でも……」
「大丈夫なんだろ?」
女子に向けて言う。
「え? は、はい。全然、全く以て大丈夫ですよ⁉」
「そういうことだ」
「は、はい。分かりました……」
剣幕に押され気味のフィアを連れ、離れた。――なにか目を付けられたくないことでもあるのだろう。
あの女子は確かに困っている風ではあったが、同時に見られたくなさそうな素振りもしていた。それならもう少し平然としていた方が良いとも思うが……。
「次に行こう」
「……そうですね」
ややうつむき気味のフィア。二人して気を取り直すように歩いて行く。既に半分ほどは見終わった。後は中庭を通って、反対側の道を辿って行けばいい。それで大凡学園内を歩いたことになるはずだ。
――余り妙な奴に会わなければいいが。
進める足取りの中で、そんなことを思っていた。




