第十二節 一日目
「――基礎はこんなところですか」
「ぜっ、ぜっ――」
「……はっ、はっ……」
……これが基礎?
全身から吹き出る汗を感じながら床を見つめる。……冗談じゃない。疲労で、身体のあちこちが既に強張っている。結局俺はあのあと三回、リゲルは一回だけ吊り上げられた。どこか一か所でも緩めれば即座に均衡が崩される。強いられる集中のお蔭で、ただの筋トレとも違って消耗が半端じゃない。
「次はもう少し高度な訓練です。特定の動きの反復だけでは、実践で役立てるには程遠いので」
……次は何が始まるのか。どうにか息を整えながら、リゲルに続き俺が立ち上がった――。
「私が貴方たちを襲いますので、対処してください」
――は?
一瞬の驚愕。最中に目の前の賢王の姿が掻き消える。見開かれた瞳に映るのは綺麗に揃えられた五指の爪先。
「――⁉」
――抉られる。そう直感した刹那、独りでに動いた身体が寸前で攻撃を躱した。
「っ――‼」
無理矢理に。意志とは無関係に引っ張られる既知の感覚。――賢王の糸。俺の身体を操作し、攻撃に対応した動きを強制的に取らせている――⁉
「うおぃッ⁉」
リゲルも同じく凄まじい動き方で迫る賢王の攻撃を躱す。その隙を突くように動かされた身体。自分で覚えているこれまでのどの時よりも速く、身体が終月を振るった。
「戦闘――特に互いに近接しての戦いには、各々力量に見合った速度の域というものがあります」
それだけの動きを一度に熟しながら息も乱さずに喋る賢王。接近戦もこなせるのか⁉ 確かに以前にもアクロバティックな動きを披露していたが――!
「格上と対峙しようというからにはまず、その速度に身を置けなければなりません。貴方たちにはまず身体がそれを覚えるまで、私の速度に慣れてもらいます」
――なるほど。
確かに俺たちでは父や小父さん、凶王の動きに着いていくことがまずできない。ジェインの援護を受けていても精々が辛うじて。そこを改善しなければというのは理解できる。
「っ――‼」
自分の身体が自分の物でないように動かされるのは思ったよりキツイ。だがそれも、先ほどの訓練と比べればまだ楽だ。
動かそうとしなくとも勝手に身体は動く。俺がやるべきなのはとにかくその動きに逆らわずに慣れること。……つまるところこれは受け身の訓練。見ることと脱力にだけ集中していれば。
――いい。
「――あがッ⁉」
頷きかけたその判断を打ち消すように首が九十度旋回する。衝撃と共に自らの首から鳴らされた異音に、背筋が凍る――。
「ああ。言い忘れていましたが、多少無茶な動きをすることもありますので」
「ッ――‼」
言われた端から。賢王の攻撃を回避するためか、脚が得体の知れない方向へ向かおうとしていく。――辛うじてその先を読み、自らの意志で身体を動きに着いて行かせた。
「その場合は自力で前以て身体を動かしてください。遅れればどうなるか――」
――受け身などではない。全力で賢王の操作に着いていかなければ、腕の一本や二本平気で圧し折られる。思い起こされるのは振り分けの際に賢王が言っていた言葉。もしあれが、冗談などではなかったとすれば――!
「――ッ――‼」
脳裏に過る最悪の想像。それを少しでも遠ざける為に、俺は目の前と自身とに必死で意識を配った――。
「……っ」
「へっ……はっ……」
「――ほう」
へばりながらもどうにか立っている俺たちに、賢王が感心したような声を漏らす。
「このくらいで音を上げると思っていましたが。中々に気骨があるようですね。今どきの若者にしては感心です」
「へっ……こちとら、あの姐さんに散々絞られたからな……!」
顔を上げてニヤリと笑んで見せるのはリゲル。……リゲルはエアリーさんによるあの特訓を生き抜いた。俺も、小父さんによる指導をどうにか潜り抜けてきている。
「……そういうことですか」
以前とは違う。賢王の特訓は確かにあれらに負けず劣らず苛烈だが、それに耐えられるだけの下地はできてきているのだ。……俺たちも。そう――!
「……『救世の英雄』に指導の苛烈さで負けたとなれば、凶王の一角たる賢王の名折れ」
意気込んだ俺の前で。……なんだ? 何やら賢王が、不吉な台詞を呟いたような――。
「――では、負担を倍に増やしましょうか」
「……え――」
一瞬聞き間違いかと耳を疑う。――直後。
「――⁉」
凄まじい衝撃が俺を襲う――! 身体が、横に、飛ぶ――⁉
「ッ‼‼」
迫り来る壁に咄嗟に終月を盾にする。――凄まじい衝撃。受けた手と腕が折れるのではないかと思うような痛烈の中で。
「――オブッ、ゴフッ、ブヘアッッ⁉」
盛大に吹き飛んでいるリゲルが映る。左右の壁と天井に連続して打ち付けられ、最後に床に激突して漸く止まる様。……俺よりも酷い。
「身の守りの訓練です。一発を喰らって終わりでは余りにも心許ないですからね。喰らわないように動くのが前提ですが、多少の攻撃なら二、三撃は受けても戦えるようにしておかなくては」
呆然とする俺の前でサラリと流される台詞。……無茶を。
「ある程度はこちらで調節しますので。貴方たちは死ぬ気で自分の身を守ることに専念してください」
言う。あくまで言葉の上でのはずのその語句が、しかし賢王相手では現実味を帯びて圧し掛かってきて。
「終わればまた基礎からの繰り返しです。三巡はしようと思いますので、そのつもりで」
「……マジかよ」
――あれで終わりじゃなかったのか。小父さんたちとの修業を乗り越えた俺たちの間にも、流石に不安気な空気が漂ってくる。……む、
「……」
向こうは。一抹の希望に縋るように、目を遣った俺の視界に――。
「――はい。では、今の通りにやってみましょうか。魔力を、手と手の間に浮かべるようにイメージして――」
「――っ」
「――こういうことか? さっきの話では――」
「ええ。そこはですね」
……普通だ。余りに普通な指導風景を最後に。
「どんどん行きましょうか」
絶望的な賢王の声が、俺の鼓膜に届いた。
「……っ」
「大丈夫ですか……?」
「……ああ」
腹の底からどうにか声を絞り出して答える。……無理矢理動かされることで普段使わないような部位まで使ったからか、それとも単純に何度も床を転がされたからなのか、文字通りに全身が痛い。今し方フィアに回復してもらったお蔭で、なんとか動けてはいるが……。
〝ではカタスト嬢。練習の成果を、実際に試してみましょうか〟
〝え――〟
地獄のような訓練の直後。俺たちが見たのは、フィアの驚いたような顔。
〝す、直ぐ治療します!〟
〝一々気を散らされては指導になりませんのでね〟
〝……やはりこういうことか〟
隣で盛大に吹っ飛んでいるのにも拘らず反応が薄いとは思っていたが、どうやらエリティスさんが事前に俺たちのことを認識できないようにしていたらしい。つまりフィアたちからしてみればボロボロの俺たちがいきなり現われたように見えたわけだ。ジェインはある程度その意図を察していたらしいが――。
「大丈夫だ。……一人で立てる」
「おお。全ッ然余裕だぜ……っ」
宣言通り自力で立つ俺たち二人。特訓で痛め付けておいてから練習としてフィアに治癒魔術で回復させる。この辺りの流れは、小父さんたちと一緒だな……。
「心配する必要はありませんよ」
賢王の厳しげな声。
「この程度を生き延びられないようでは、今回の敵と戦うなどということは不可能です。致命傷にならないようにはしていますので」
「へっ、ありがとうよ」
本来なら指導の礼を言うべきなのだろうが、正直今はそんな気力がない。それよりも――。
「……エリティスさんの指導はどうだったんだ?」
こちらからは向こうの訓練の様子は普通に見えていた。とても具に見る余裕はなかったが、途中見た感じでは、特におかしなものではないような気がしたが。
「……凄く丁寧でした」
「かなり分かり易かったな。僕とカタストさんとで教わる内容は違うんだが」
眼鏡を上げつつジェインが語る。
「言われた内容を守る度、自分でも抜けが埋まって――上達していくのが分かるんだ。……范さんたちより上手いかもしれない」
「すげえなそりゃ」
同意する。……先輩たち。魔術協会のプロよりも、上手いかもしれないとは。
「エリティスの指導能力はかなりのものです。そちらの方も心配は要りません」
「お褒めに預かり光栄です、賢王嬢」
「……まあ、素行の方はやはり警戒が必要かもしれませんが」
言葉と同時に釣り上げられるエリティスさんの右腕。掌に握られた小型のカメラが、賢王の手にパシリと収められる。
「これは没収です。中身を確認した上で返却します」
「ああ、なんともまた惨い仕打ちを……」
「壊されないだけ有り難いと思いませんか?」
〝大丈夫。私が影でブロックしたから、撮られてない〟
「あ、ありがとうございます……」
「――終わりましたか?」
何とも言えない空気の中、郭が一階から降りてくる。
「お、どうだったよ?」
「順調ですよ」
当然でしょうと。そう言いたげな口調で纏められた髪を翻す。心なしか、毛先がやや乱れているような。
「もう良い時間です。――昼も兼ねて休憩にしませんか」
「勿論そのつもりですよ。修練の後は補給をしなければ、消耗するだけ損というものですからね」
「でしたら、皆様方で外食など如何でしょうか」
そう提案してくるエリティスさん。……外食?
「この近くはお勧めできる料理店が多くあります。それに夜には、私の手料理を振る舞わせていただきたいと考えておりますので、食材の買い出しにも行かなくては」
「いや、そんな不用心な――」
状況にそぐわない。余りに暢気なことを言うエリティスさんに、思わず言い掛けるが。
「……もしかしてさっきの魔術を使ってれば、外に出ても平気なのか?」
「ええ。そうですが」
ふと思い付き。訊いた先の賢王から当然のように返される。……そうか。
「では出かけましょうか。お勧めの店とやら、楽しみにしていますよ」
「はい。ご期待に沿えるよう、尽力させていただきます」
そういうことか。得心したのは文字通りに行動の幅が大きく広がったということ。エリティスさんの協力を取り付けられたことの重要性が一際実感できてきた気持ちのする中、賢王とエリティスさんを先頭にして、俺たちは店の入り口がある一階へと上って行った――。
「――では、此処までということで」
「……っ」
賢王の合図と共に糸の動きが止む。……どうにか持った。汗と共に、大きく、深く吐き出す息。
「治します――」
俺たちに掛けられるフィアの治癒。細かな傷を含め、怪我が治っていくのを感じる――。
「ふむ。カタスト嬢は、素晴らしい飲み込みの速さをお持ちですね」
呟いているエリティスさん。フィアの修行は順調のようだと、喜ばしいその事実を耳に止める。……だが、今は。
「夕餉はいつ頃になりそうですか?」
「今から作りますので……仕込みなどを含めて、大凡一時間ほどは掛かるかと」
少しでも早く休みたい気分だ。尋ねた賢王にエリティスさんが答える。
「それまではそれぞれのお部屋で休んでいて下さい。室内を掃除して、簡単なネームプレートを下げておきましたので」
「は、はい……」
「ありがとうな」
「いえいえ。では、また一時間後に」
そう言って上へ上がって行った。……俺たちも順々に、静かに続くようにして階段から二階へと向かう。木製の手すりに掴まりながら重りの付いたような身体を押し上げ、どうにか昇り切った廊下。
「……」
本当に掛かっている。立った扉の前には、始めにエリティスさんを探していた時にはなかった〝Mr.蔭水〟と書かれたプレート。金属製のそれが焦げ茶色の扉の前で微かに揺れている様を見て、開いた扉の先。
「――」
元からある程度整えられていた室内が……隈なく磨き上げられたかのように綺麗になっている。……中を歩いてみれば、部屋の隅まで塵一つなくピカピカだ。
「……凄いな」
布団とシーツにも皺一つない。……逸れ者として長らく生きていると、こう言った家事のスキルまで上達するのだろうか? そんなことを思いながらも靴を脱いで、ベッドに寝転がる。
「……」
……良い気持ちだ。
背中を支える感触はふかふか。フィアの治癒で傷は治ったものの、修行後特有の重い疲労感は色濃く残っている。……食事の時間まで、ゆっくりさせて貰おう……。
目を閉じると、直ぐ睡魔が襲ってきた。深く、眠りに――……。
――夕飯時。
「……美味い」
目の前の料理を口にして出たのは、全く意図しないそんな声。……美味い。余り見掛けないような貝だが、噛めば噛むほど味が出て来る。出汁の染みた見事な味付け──。
「うお、美味えなこれ」
「……素晴らしい味だな」
リゲル、ジェインも続く。普段料理については比較的辛口のジェインが、此処まで手放しで誉めるとは。
「凄く美味しいですね……」
「驚きましたね」
珍しい。続くフィアたちの反応も同じようなもの。賢王や冥王は特別反応を示してはいないが、それでもその味にやはり驚いてはいるようだった。
俺たちの前に並べられている、テーブルを埋め尽くすほどの料理たち。しかも通常家庭で食べるようなメニューでなく、店などでしか出ないと思える手の込んだ品ばかりだ。
「――いかがですか? 皆様方」
その品々を全て一人で作り上げた張本人――エリティスさんが微笑みながらそう尋ねてくる。……いかがも何も無い。
こんなものを出されてしまえば、如何に偏屈な人間でも文句のつけようなどないだろう。それほどに洗練され、磨き上げられた出来。
「いや、何と言ったらいいか……」
「凄い、の一言だな」
「ああ。マジで旨えっすよ、これ」
「喜んで頂けたようで何よりです」
どこまでも品よくエリティスさんは微笑んで見せる。……こんな技術を見せられてしまうと、嫌でも少し印象が変わるな。
「どこかで習ったりしたんですか? それとも自分で……」
「昔取った杵柄……と言うものでしょうか。幸いにして、まだ腕は錆び付いていなかったようですね」
どこかの有名店で働いてでもいたのだろうか? そう言えば用意された食器も特徴的だ。全て高級そうな銀食器の上、一点の曇りもないほどピカピカに磨き上げられている。
「これほどの腕を持っているなら、いっそこちらの方で身を立ててもよかったのでは?」
舌鼓みを打ちつつ言うのは郭。ヒラメのムニエルを口へ運び。
「服屋……少なくとも魔術の研究家より向いていると思いますが」
「――こうして知人の方たち向けに腕を振るうのは、わたくしとしても楽しいものですが――」
食卓に着いている一同を見渡しつつ、軽く口の端を上げてエリティスさんは答える。
「見ず知らずのお客に料理を振る舞うのは緊張するものでして。小心者ゆえの不向き……と言ったところでしょうか」
「……私は振る舞われたのは初めてですが」
「僕らも見ず知らずのようなものでは? 今日紹介されたばかりですし」
納得していないような二人。――なんにせよ、飯が美味いというのはありがたい。
「――」
賢王の修業で削られた分を取り戻しておかなくては。必要充分なだけのエネルギーを摂取するつもりで、俺は並べられた皿たちへと向かった。




